5.
短き眠りから覚醒し、寝台の蓋を外した余の目が最初にとらえたのは、成長したサラの姿であった。
まだあどけなさが抜けきっていないものの、昨日――余にとって、眠りにつく前は何年前であろうと『昨日』である――より確実に大人びている。体感としては、眠っていたのはおよそ一年といったところであろうが、余にとってほんの一瞬にすぎぬその年月は、人間の娘であるサラにとって一瞬ではなかったのだと改めて思い知らされた。
きらきらと星の粉を散りばめた如くに瞬く瞳。木々の枝の如くすらりと伸びた手足。『昨日』まではまだ服の中で身体が余っていた――痩せさらばえていた小さき娘にちょうど良い大きさのお仕着せは屋敷中を探しても用意がなかった――というのに、今や誂えの如くぴったりである。
サラは、余の部屋を整えていた。棚に陳列してある本や壺をハタキでなぞり、ソファに置いてあるクッションの位置を直し、ひとつ終われば休むことなくまたすぐに次のひとつに取りかかる。無駄のない、そしてせわしなくもないきびきびとしたその働きぶりは、どこからどう見ても一人前のメイドであり、申し分のないものである。
――いつまでも声かけをせず、黙って人の立ち働く姿を観察し続けるというのはいささか不調法であろう。されど、余は今しばらく見つめていたいと願った。
目を離せないまま、どれだけの時間そうしていたであろうか。
余の遠慮なき視線に気付いた風でもなく、サラがふとこちらを向いた。そして余の起床を目の当たりにし、視線がかち合うと、手にしていたハタキを取り落し、子犬もかくやという勢いにて寝台の傍まで駆け寄り、跪いた。
「お館様!」
その言葉は嬉しさをふんだんにまぶして余へと差し出された。
「おはようございます! お目覚めですね、ルドルフさんたちにお知らせして、すぐに館を調えます」
「なに、そう急ぐ必要はない。――サラ」
「はい」
「なにか足りぬものや困っていることは」
以前もしたことのある問いを繰り返すと、サラは笑い顔のまま目を潤ませた。
「――いいえ、何も」
「嘘はならぬぞ、現にぬしは泣いているではないか」
余は慌てて胸元のチーフを抜き、サラの目から零れ続ける涙をぬぐう。サラはなされるがままであったが、「違います」と笑った。
「嬉しいのです。旦那様が眠られるのも起きられるのも、皆さんは何度も経験されていることでしょうけれど、私には初めてですから。正直なところ、ずっと眠りにつかれていて、本当にまた起きていただけるかと少しだけ不安でした」
「――そうか」
「はい」
そう言うと、夜露の如く美しき涙を纏ったまま照れくさそうに立ち上がる。
「では、今度こそ、お知らせしてまいりますね」
「ああ、頼む」
そのようなたわいのない余の言でさえ、宝珠と同等の扱いである。サラは「お任せください!」と力強く宣言したのち、落としたままであったハタキを置き去りに部屋を出ていった。
「とんだ慌てものだ」
ハタキを拾い上げた余の台詞は呆れていた筈であったが、なぜだかこちらも嬉しさをふんだんに纏っていた。
サラが部屋を出て数分後、ルドルフが部屋へやってきた。初々しいサラとは対照的にこの家令はもう慣れたもので、余が眠りより目覚めたとて別段変わった態度など今更取らぬ。うやうやしく頭を下げたのち、余がテーブルに置いた『サラの忘れ物』をちらりと見て状況を瞬時に把握したらしく、そのハタキをそっと回収した。後で手渡すのであろう。
「おはようございます、クラウス様」
「一年ぶりか」
「左様にございます」
「皆、息災か」
「変わりなく、勤めさせていただいております」
いつもと変わらぬやりとり。だが。
「サラは一五になりました」
「ああ」
「風邪などひくことなく、すこぶる健康で、不摂生もせず、好き嫌いもせずにきちんと食事を摂っております」
「……何が言いたい」
「いえ、吸血鬼であるあなた様にとって、これ以上ない娘であろうかと」
「雇い主に部下の吸血を勧める家令がどこにいる……」
余が呆れて思わず額に手をやると、ルドルフは平然とした様子で「ここにおりますが」と応えた。この家令は、本気で余にサラの血を吸わせたいらしい。
「だが、まだあれは一五であるし、あいにく余に若すぎる娘の血を啜る趣味もない」
「お言葉ですがお館様、あと一、二度眠られたのちにはおそらくちょうど頃合いでございますよ」
「果物の旬とは訳が違うぞ!」
「お館様、」
「あれが、余に恩義を感じていようことは分かっておる。だがしかし、気持ちというものは変わるものであろう? 現にサラには好いた男があるではないか。そのような娘に『約束は果たしてもらうぞ、さあ首を差し出し血を吸わせよ』と言えるほど余は恥知らずにあらず。血を啜ると宣言したのは、あくまでサラを生かすための方便である」
「……左様でございますか」
口先だけではそう返しつつ、ルドルフは先ほどの余の真似の如く額に手をやる。その上、しかめ面を隠さずため息まで吐いてみせた。
「ぬしがなぜそこまで余とサラの約束にこだわるのかは知らぬが、この件であの娘に無理強いするでないぞ」
「そのようなことは致しません。私がわざわざする必要もございません」
「だが」
「ただ私は、偉大で誇り高く聡明で賢明なあなた様でも、物事を大きくとらえ損ねることがあるのかと、少々驚いていただけでございます。どうぞお気になさりませぬよう」
「いや待て、何やら余はぬしに侮辱されてはおらぬか?!」
「気のせいでございましょう、ではそろそろ執務に戻らせていただきます」
ルドルフは納得がゆかぬ余を捨て置き、部屋を出ていった。
謎めいた言葉を投げておいて答えを決して教えぬ家令に、余はもやもやとした気分を抱かずにはおられぬ。しかしあの男が言うことに間違いなどなきことも充分に分かっている。ならば、余がどこかで何かを勘違いしているというのか。
しかし、いくら考えてみても、ルドルフの満足しそうな解答は導き出せぬままであった。
その後、『どこをどのように間違えているのかを余に教えよ』とルドルフに幾度か問うてみたものの、『私の口から申し上げることはいささか問題があるかと』『無粋な真似は致しかねます』など、のらりくらりと躱すばかりで、結局はっきりとした解を家令より得ることはなかった。
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「本当に、どうかと思うほど旦那様は当時ひどい考え間違いをなさいましたね。それが吸血鬼全体の特性だとは思っておりませんからご安心を。クラウス様の得がたい特性と言えましょう」
「――それについては、申し開きのしようもない」
「おかげで、私は何度賭け金を失ってしまったことか……」
「ちょっと待て。なんだ賭けとは」
「いえ、なんでも」
「答えよ。ぬしらは自分の雇い主の恋心を賭けにしていたのか」
「正確には、奥様が『一五になったら』『一六になったら』『一七になったら』『クラウス様が求愛する』方に毎回賭けていたのですが」
「……」
「まさか、あそこまで意気地な――慎重だったとは……」
「意気地なしと申したこと、はっきりと聞こえておるぞ」
さりとて、余が持たなかった求愛するための勇気に対し、三度も賭けてくれた家令の心意気が嬉しかったことに間違いはない。