3.
人間と異なる時間を生きる余は、眠りが年単位である。
ひとたび極上な血を啜れば、五年一〇年は目覚めぬ。――普段は長くても半年から一年程度であるが。
「では、二、三度眠りから覚めた頃にはもしや……」
「サラが、血を吸われるに相応しい年齢になっていることも、あるかと」
ルドルフは蝋人形の如く表情を変えぬまま答えた。
「ルドルフ、余に『お館様、使用人に手を付けるのはどうかおやめくださいませ』と咎めるのがぬしの仕事ではないのか」
「お言葉ですがお館様、双方がそれを望んでおり、それを周りも良いことだと思っているのであれば何の問題もないかと存じます」
「あれが、心より望んでおると申すか」
「ええ。サラは毎日小動物のように立ち働き、『大きくなったらクラウス様に血を吸っていただくから、おいしい血になるように頑張る』と周囲のものに話しております。しばらくろくなものすら口に出来なかったせいもあり、初めのうちは食も細かったのですが、『食べなければ、働けない。働けなければ、ご飯が食べられない。ご飯が食べられなければ、クラウス様に血を飲んでいただけない』と懸命に食べまして、今では普通の量を摂れるようになったそうです。――館に勤める人間で、それを知らない者はおりません。
サラは出身の村とは縁が切れております。身内もなくしたとのことですから、血を吸われることに反対の者は皆無です。いずれの問題もないと私はそう認識しております」
ルドルフは立て板に水を流すが如く、すらすらとそう口にしたのを余は驚きを持って聞いていた。人間のくせにたまに余も凍りつくような目をするこの男が、サラと余双方の肉親であるかのようにあたたかな表情を披露した故。だが次の瞬間、今見たものは余の夢もしくは願望によるまぼろしであったか、と思わんばかりの俊敏さでそれは引き込められ、表情はあっという間にいつもの見慣れた冷静沈着なルドルフに戻ってしまった。
余は、努めて平生を装うが、どうにも緩む頬を抑えきれぬ。――そうか。余に吸われたいか。
「クラウス様、そのお間抜けなお顔は、私どもに見せない方がよろしいかと」
「赦せ。こう言うこともある」
「どのような、でございましょう」
何も知らぬような顔をして、わざわざ聞きかえすとは意地が悪い。
「さて」
とぼけてみれば深追いされることもなく、ルドルフは『これで、お館様とのじゃれあいは終わり』とばかりに会話を切り上げ、一礼して部屋を出て行った。
ため息にも似た微かな音を立ててドアが閉まるのを聞いたのち、余はふわあと欠伸をした。
サラを拾ったあの一か月前の晩に啜った血は、極悪ではなかったが極上でもなかった。中の下と言ったところか。あの娘には食べ物の好き嫌いが多過ぎた、と少々焼けた胸を擦った。過ぎる偏食は血を貧しい味にする。
早寝早起きと適度な運動、そして適度な食事は血の味を豊かにするのだ、とこれだけはしっかりサラに教えてやらねばと思いつつ、またひとつ欠伸が出た。
眠ろうと思えば半年ほどは眠れそうである。うとうととソファで微睡んでいると、控えめなノックが聞こえた。
「失礼します。お茶を用意いたしました」
そう言って、まだ硬さの残る手つきでワゴンを押して部屋へ入ってくるのはサラであった。
「旦那様……? もうお休みになられますか?」
ワゴンから離れて余の傍に立ち、サラは心配そうに聞いてきた。余は、目を閉じたままそれに応える。
「否、このまま眠りに入っては寝覚めが悪い。胸やけを解消するまで、今少しは深く眠らずにいるとしよう」
「そうでしたか」
その声は、ほっとした色をまるで隠してはいなかった。おや、と余は目を開け身を起こす。
……このような小さな娘から、随分と美味しそうな匂いがするとはどうしたことか。
「サラ」
「何でしょう」
「ぬしは、誰かに恋をしているのか?」
それは、真実、人間の女が本気で恋焦がれている時だけに発する芳香であった。
サラは余をじっと見つめつつ、しっかりと答えた。
「はい」
「それは、村の人間か?」
「いいえ」
「では、この館の者か?」
「……はい」
「余の知っている者か?」
「はい。――おそらく、誰よりもご存知かと」
「とすると、ルドルフか……?」
そう呟いた余に、サラは激しく反発した。
「違います! ルドルフさんは、とてもお仕事熱心な方で尊敬していますが、私がお慕いしている方は、」
そこで、ふいと口を噤んだ。
そして、いつぞやのようにスカートを抓んで一礼し、余に詫びた。
「失礼しました。仕事中ですのに、大きな声など出して」
「いや、かまわぬ。余のいらぬ詮索がそもそもの原因である」
そう述べたものの、部屋に漂う何とも言えぬ雰囲気は、立ち込めた靄の如くなかなか晴れはせぬ。
双方がぎこちない空気を纏った中、サラは茶を淹れた。幾度も練習を重ねている、とは報告を受けているものの、まだ慣れぬのであろう。わざわざ気配を探らなくとも、その身が緊張に覆われていることが分かる。とは言えメイド頭のマリアが直々に特訓していただけあって、もはやおぼつかない手つきではないのだが、余はなぜか目が離せぬ。見ぬふりさえ出来ずにいると「……そんなに見られていると、余計に緊張してこぼしてしまいそうです」とサラが茶を注ぎつつそのような泣き言を言う。
「すまぬ。しかし、ぬしの淹れ方が危うくて見ていた訳ではないぞ」
「それでも、おやめください」
「……うむ」
そう言った以上、これ以上サラを凝視することは叶わぬ。されど、気取られぬ程度に盗み見るのであれば許されよう。
ちらりと見やったその頬は、この娘を拾って初めて飛んだ時の如く、薔薇色に輝いていた。
先程、サラの想い人について謝罪したものの、一連の不可解な言動を真に理解することは出来なかった。人間の女に接することはあれど、人間の女と子どもの間の年頃――後から聞けば『少女』と言うらしい――にはさほど接したことがない故。
頬を染める忘れがたき色を目の端に捕えつつ、さて、余はなにゆえこの娘から目が離せぬのであろうな、と訝しんでいると、「……旦那様、お待たせいたしました」と淹れ終ったにもかかわらず未だ緊張の残る声でそう告げられた。
「待たされたというほどのことではない。……では戴こう」
「はい」
余はカップの取っ手をつまみ、その芳香を愉しんだ。
サラの緊張を払うが如く、ふ、と軽く息を吹きかけ、そして口に含む。雑味や苦味がどこにもない。ほどよい温度、良き味の紅茶である。
「美味いな」
「! ありがとうございます!」
その声は、ようやく緊張の呪縛から解かれたものであった。
「ぬしはいったい何を心配しておったのだ」
「……旦那様にお茶をお出しするのは初めてですから、ちゃんと教えていただいたとおりに淹れられるか、茶葉の美味しさをきちんと引き出せるか、作法は間違っていないか、おいしいと思っていただけるか、心配事だらけでしたもの」
でもよかった、と晴れ晴れとした顔で胸を撫で下ろす、その様に、余は胸を締め付けられる思いであった。
よくやった、と犬を褒めるが如く、サラの頭を存分に撫でまわしたいところではあったが、それは誇り高き一族に相応しい行いとは言えぬ。
「この調子で、何事も励むのだぞ」などと伝えるのが、精一杯であった。
血の味うんぬんはあくまで個人(吸血鬼)の意見です。