15.
ある夕刻、豪奢な馬車が幌馬車を引き連れて敷地内へ入ってきたのを自室の玻璃越しに見下ろした。
馴染みである我が屋敷は言うまでもなく、この地の領主とも長年取引をしているという触れ込みの商人が、注文を取りに来たのだ。
ここに住まうものは余以外は皆人間である故、霞を喰って生きている訳ではない。余も、乙女の生血は必須の栄養ではあるが、それと同時にたまに味わう嗜好品でもあり、ふだんは人間と同じものを食する。無論、自前の畑も牧場も小さいながら所有しているものの、完全なる自給自足ではない故、屋敷内だけでは賄いきれぬ物品――香辛料や紅茶、また布や靴、グラスなどの製品や工業品がそれにあたる――については、時折こうして館に商人を呼び寄せ、必要なものを購入している。
通常、商談はまずルドルフが応対し余は最後に顔を出し挨拶する程度であるが、今日は別段用事がなかったため初めから同席することとした。商談の開始からは現れる筈のなかった余の姿に、商人はひどく驚いた様子である。
「これは……、ご当主自ら交渉の場に来られるとは、なんたる光栄でありましょう……」とハンカチで噴き出す汗を抑えつつ必要以上に何度も頭を下げ、余から目をそらす商人。人に備わった吸血鬼への畏怖は、こちらに攻撃や支配の意図がなくともなかなか薄れるものではないと見える。館の使用人と違い、余に慣れておらぬ者ならなおさらであろう。
これで売買に際し不当な金額を提示することも恐らくない――されたところで、百戦錬磨の家令は余の力を借りるまでもなく己の力量でそれを払いのけるであろうが――と思いつつ、余は己が威厳に満ちて見えることを意識し振る舞った。ここでルドルフに叱られでもすれば商人の抱く余の像はあっという間に崩れたに違いない。しかし、我が屋敷の優秀な家令は商人の眼前ではあくまで余を立てた故、そのような事態には陥らずに済んだ。
商人の前だけではなく、いつもこのようにしてくれることを余は切に願う。
商談はまだ始まったばかりであったが、余がいると本能的恐怖心から進む話も一向に進まぬ(逆に、余がいることにて早く進むこともあるにはあるが)故、後の交渉はいつも通り家令に委ね一足先に部屋を辞し、自室のソファにて寛いでいた。
そして、家令と商人が納品や支払いの取り決めをしている様子を時折耳に拾いつつ読書を楽しみ、世間話も終わった頃合いで身を起こした。元いた応接間へとふたたび足を向けたのは、ある気配を感じたためだ。
我ら一族の感覚は人間のそれより優れている――もっとも最近では家令を始め、使用人らにやたらと『クラウス様は鈍すぎます!』などと不条理に詰られることが多く、優れていると自負する根拠も、余自身に限って言えばなにやら揺らいではいるが、余は確かに感じたのだ。
この館もしくは使用人に対し、よからぬ考えを持つものがいることを。有り体に言えば、あの部屋にて商談を行っていた際、商人が茶を供しに来たサラの様子をじっと注視しており、それから発せられる気があまりにも攻撃的かつ支配的であったことを。
もちろん、吸血鬼である余の館での商談において、その生来の質などを見せる筈もない。世慣れた笑顔の下に押し込め、商人自身としてはじょうずに隠したつもりであろう。が、しかし、人間の本質など吸血鬼の前では丸裸も同然である。
それに、商人が乗ってきた馬車と馬丁以外の、もう一つの組み合わせのものの気配が感じられるのもいささか気がかりである。
ただの杞憂で終わればそれでよい。そうでないとするならば、余は余の館で働く全ての人間に対して安全を担保しているが故、起こりうる全ての『何か』を全力で潰さねばならぬ。それは、このささやかな屋敷の主としての当然の務めである。
商人の男は玄関へと向かいかけたものの、『失礼、忘れ物が』と少し慌てた様子で応接間へ戻るそぶりを見せた。それを受けて家令が『では私が取って参りましょう』と柔らかく応じ、一礼の後、踵を返す。その姿が角を曲がり見えなくなったところで、男は素早く辺りを見回した。そして、自身に気を配るものの存在のないことをさとると、近くに控えていたサラの手首を突如としてねじり上げた。
「っ!」
サラは突然のことに悲鳴も上げられずにいる。その、まだ余も触れたことのない手首をさらに締め上げ、「騒いだらこの屋敷に火を放つ」と囁き、玄関ではない、使用人らが主に使う勝手口のある方へとサラを強引に引っ張っていく。余は応接間にて忘れ物を見つけられなかった家令に短くことを告げた後、二人の後を追った。その間にも、余の耳はサラのおびえた鼓動や、男の息づかいまでをも余すことなく拾っている。
吸血鬼の住まいとしては小さい部類に入る我が館だが、こうした時には屋敷の規模がささやかには思われぬ。飛ぶ方が歩くより当然早い故、是が非でもそうしたいところではあるのだが、この屋敷の廊下は屋内で飛行することを想定していない作りであり、天井高も廊下の幅もいささか足りぬ故、余は焦る気をいなしつつ、せかせかと足を運ぶよりほかない。
サラはただ大人しく従う弱きものにあらず。力では及ばぬとて、こうした場面において泣きも怯みもせず、実に立派な態度で相手へ峙していた。
「おやめください!」
「口をきくな」
「おやめくださいと言っています」
サラが脅迫に臆せず意思表明すると、男は喉奥で息を潰すように笑う。
「生意気な娘だな。だがこれはこれで教育のしがいがあるというもの」
舌なめずりせんばかりの口調でそう返し、「ちょうど生きのいいのがいなくなって、私も退屈していたところだよ。お前は少しばかり愉しませてくれそうだ」と下卑た言葉を続けた。
「……なんのお話ですか」
「お前を私専用の性奴隷にしてやろうと、そう言っているんだが」
「お断りします!」
サラは引っ張られつつも気丈にそう即答した。
「私は、この屋敷のメイドです」
「メイド風情、ひとり居なくなったところで誰も気付かんよ。現に、他の屋敷から同じように何人も連れ帰ったが、どこからも捜索の手はかからないね」
男は何がおかしいのかひとりでクスクスと笑う。
「何の力もないものが必死に抗う様が私は好きなんだが、殴られたり嬲られたりしているとそのうちみな諦めてしまうのがつまらなくてね。――お前はどうかな」
裏庭へ続くドアを静かに開け、さあ、と言わんばかりの男が手を広げた先には、ここへやってきたものとは別の、小さく粗末な馬車がすでに用意されていた。
「『美しい使用人がいる』と聞いてわざわざ準備したものが無駄にならずによかったよ」
「それは、どうであろうな?」
気配を消していた余は、男に気付かれることなくその後ろにつき、無防備に晒されていた喉元にひたりと爪を当て、いつでも掻き切る準備のあることを示した。すると、好色に塗れていたそのものの気配が、たちまち恐怖に支配されてゆくのが見て取れた。
「余の庭に咲く花を勝手に手折られては困る。特にこれは、余の一番気に入った花であるからな」
人間の男が逆上したところで余の方が圧倒的有利な力量ではあるが、念には念を入れ母直伝の木偶の術を用いる。その途端、ぎりぎりと細い手首を締め上げていた汚らわしい手がするりと落ち、抗っていた勢いのままサラは後方へバランスを崩した。余は木偶となった商人を捨て置き、サラが床に転倒する前に抱き留める。震える身体は、余が手を離せばすぐにもへたり込んでしまいそうだった故、そうならぬようサラの背や腰に手を巻き付け、半ば抱くかたちで立たせた。
「……く、クラウス、さま、」
その言に嫌がる気配はどこにもなく、そのような場合ではないというのに余の心はなにやら嬉しい気持ちで満たされてしまう。
だがしかし、腕の中にてサラの脈拍が急速に強く早いものに変化したため、余は即刻その身体を抱き上げ、なるべく振動を与えぬよう気を付けつつ廊下を急いだ。
「すまない。大変な思いをさせてしまったのに、余ときたらまったく悠長であったな」
その返答のように、サラは余の胸元に頭をすり寄せた。
「怪我はないか」
「はい」
「よく一人であのように対峙したな。すべて聞いていた。実に立派であった」
「……お館様が、」
「余が、なんだ」
「必ず助けてくださると、私には分かっていましたから」
そのいじらしき言に、余は危うく出来る筈もない落涙をするところであった。
口を開けば理知的な言葉ではなく感情の塊が咆哮となり飛び出しそうであったが故、余は歯を食いしばり、自室へと足を運ぶことに集中した。
21/12/22 一部訂正しました。




