14.
リタは、その生涯を独身で貫いた。
『余や、この館で働く者たちに遠慮なぞ無用である。リタの幸せが訪れた際には、それを最優先にするのだぞ』
余がいくらそう訴えても、『何を言っているんですか、あなた様のお世話をすることが、このリタにとっていつだって一番の幸せなんですからね、取り上げたら恨みますよ』と太陽の笑みでやり返された。
リタはいつでも元気に笑い、そして怒り、年を重ねてなお館の誰よりも活動的であった。館で働くものは年に一度もれなく余の血を元とした水薬を服用する故、流行病にかかることはまずなかったが、それでも人の身体をむしばむ病魔やあらかじめ授けられた命数をどうにか出来るほど、余の血は万能にあらず。
「少し体調を崩しましたかね」
寝台にて枕に背中を預けたまま、照れくさそうに笑ったリタが衰弱するのはあっという間であった。立ち上がれなくなり、寝台の上で身を起こすこともかなわなくなり、目を開けている時間も短くなってしまった。
こんこんと眠るリタを、余は日に何度も見舞った。これはリタを心より心配しての行動だというのに、家令のヴィクセンには「そんなに見舞いにいらしてもなにも変わりませんから、どうかきちんとご自身の仕事をなさって下さいね」と叱られてしまうことが誠に解せぬ。時には、たまたま起きていたリタにさえ同じ言を口にされて、余は理不尽を感じたものである。――それでも、このように小言をもらえるうちはまだよかったのだと、少しずつ生が薄れゆくリタと接している間につくづくそう思い知らされた。
眠りにつくリタは笑っていないせいか、ひどく年寄りに見える(本人に告げたらさぞ怒られることであろうが)。気付けばすっかり白くなっていたリタの髪に、彼のものには訪れ、己には訪うことのない加齢とその先に待ち受けるものを、余はこの段にてようやく実感せざるを得なかった。
かさかさに乾いた花びらを思わせる手。それを、寝台の脇に立つ余へとゆっくりと差し伸べ、リタは笑う。時の流れに幾度洗われようと、今まさに命の灯火が消えかかっていようと、リタの笑みは変わらずに太陽であった。
「クラウス様、泣いちゃいけませんよ」と、死の淵に立ちつつもあくまで小さき子どもをたしなめる口調にて余へ目を細める。
「泣いてなどおらぬ」
「そうですか、このリタには、全てお見通しですがね」
幾百回も、幾千回も繰り返した我らのやりとりの最後の一回をやりきると、リタは楽しき夢でも見るように笑みながら、ゆっくりと目を閉じた。
「いくな」
余は己の立場も外聞も忘れ、感情に揺れるがままそう口走った。握りしめた手はまだ暖かく、血の巡る音も伝わってくるというのに、なぜぬしは余を置いてゆく。
「いくでない。まだ、いってはならぬ」
「……そうはいかないんですよ……」
リタは目をつむったまま、ようようそう応えた。
「いいですか……人は……吸血鬼よりうんと短い命、です。……あなた様は、これから……たくさんの命を、見送ることになりましょう。……けれど……、」
そこまで口にすると、最後に大きく息を吸って、そして。
余の手から、リタの手がするりと落ちた。それを家令のヴィクセンが丁寧に、胸の上で祈りのかたちに組み直す。
「ヴィクセンよ」
「なんでしょう、クラウス様」
「リタは吸血鬼である余に長年仕えていたが、それでも天国とやらに行けるであろうか」
余がそう問うと、ヴィクセンは一瞬息をのみ、「……行かれますでしょう。私が保証します」と余のほしい答えを差し出した。
「ヴィクセンよ」
「なんでしょう」
「余は、いま涙を流したいのだが、人でない故どうにもかなわぬ。代わりを頼めるか」
「……もちろんです」
「それから庭の薔薇を、ありったけ棺に入れてもらえるか」
「かしこまりました。……旦那様」
「なんだ」
「リタさんは、人にしては長生きの部類でした。それに、苦しまずに逝かれたことは、きっと幸いでした」
「……うむ」
そう答えたものの、家令の言葉は余の心を慰めはしなかった。
余の身体を流るる血はもとより冷たいが、この日はいっそうその温度を下げたように思えた。
リタの言葉通り、余にしてみればいささかせわしなき勢いにて、人間は生まれ、そして去って行った。そのたびに、リタとの最後のやりとりと感じた痛みを思い出す。
余はあれからずっと、『けれど』の後の言葉を、探している。
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余の長話ですっかり冷めてしまったおかわりの分の紅茶を飲み干すと、サラが静かに余を見つめていた。そのような目で好いてもおらぬものを見てはならぬ、と口にしたかったが、それは八つ当たりであろうからぐっと堪え、静かにカップをソーサーへと戻す。その際の、カシャン、と花が開くような微かな音を聞くと、サラはゆっくりと口を開いた。
「……けれどいつでも、きっとあなたを愛する人がいる、リタさんはそう伝えたかったのではないでしょうか」
「……そうあってほしいものだ」
「そうに違いありません!」
サラは、ややむきになって答えた。そのひたむきさがたまらなく愛おしい。
「リタさんも、その当時の家令の方も、歴代このお屋敷に使えた方々も、――私たちも、皆クラウス様をお慕いしています」
「雇い主としては、これ以上ない嬉しい言であるな」
余が笑むと、サラはなぜか憤慨し「信じてください!」と言い募った。
「信じない、とは言っておらんぞ」
「言ったも同然です!」
「ま、まあ落ち着け」
「落ち着けません!」
夜の庭園にてぎゃあぎゃあと騒いでいた我らは、案の定駆けつけたルドルフに「何をなさっているんですかお二人は……」と盛大なため息を食らうこととなった。
サラの言葉を信じておらぬ訳ではない。されど、それは余の真実欲しい愛ではない。雇い主への敬愛で満足せぬ己が欲深なのであろう。
認めよう。余は、余を愛する存在として、目の前の人間の女、すなわちサラ以外に、その役を考えられぬ。
そして、目の前の人間の女には、想うものがある。
すなわち、余の願いがかなうことはないのだ。




