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11.

 あの誉れ高き母上が、リタの言う『木偶のふり』を見抜けなかった筈はない、と余は考える。現に、時折試す意図でか『おまえ、じょうずに誤魔化しているのね』と凍てつかんばかりの笑みを向けてくることさえあるらしい。余はリタより又聞きをしているだけであるというのに、そのさまを想像しただけで体中の血が凍り付き、警戒信号をけたたましく鳴らしてしまう。――余自身は術に掛けられていないにもかかわらず、吸血鬼としての格の差が本能的に『逆らってはならぬ』とそう告げるのだ。

 されど、リタは違った。一族の血が半分故に、畏怖の念も半分なのか、それとも元々の気質か。母上の揺さぶりにも動揺がその顔に上ることも怯える気配もなく、ただ他の木偶と同様に頭を下げるのみ。

 それを見た母上が、それ以上の追撃をすることもないのだという。


「ぬしは、母上が恐ろしくはないのか」

 余の問いに、リタはいつもの太陽めいた笑顔で「ええ」とあっさり答えた。

「なぜだ……」

 ありえぬ。そのようなことは、天が地となり吸血鬼が昼日向を歩けるようになったとしてもありえぬ、そう思っていた余に、まこと信じがたき答えが返ってきた。

「絶大な力を持った恐るべきお方、というより、私にとってはやたらと面倒見のいい女主人で、なおかつ一方的に親しみを感じているものですから、怖くはないですかね」

 驚きのあまり二の句を継げぬ余に、リタは「あなた様のお母様ですからねえ。それに、似ているなと思うことがよくありますよ。あちらから揺さぶりを掛けられる時よりも、奥方様がクラウス様と同じようなことをしている時に笑いをこらえる方が大変」などと言いのけた。ちなみにその『同じようなこと』とは、自分好みに淹れられた紅茶を飲んでいる時にふと漏らされる小さな笑みや、ほうれん草を食べる時にほんの少し眉をひそめ、ほんの少し他のものを食べるより時間がかかる、そのような様子を指しているらしい。

「ですから、いちいちそこまで心配なさらないでも大丈夫ですよ」

「そういう訳にもいかぬだろう」

 余が渋い顔をすると、リタは「心配し始めたらきりがないですから」と肩をすくめる。

「クラウス様を珍妙な思想の持ち主に育てた! っていつ首をもがれても仕方がないという覚悟もしておりますけれども、幸いにしてまだそういう機会は巡ってきていませんしね」

「変な思想などと言うでない」

 苦々しく否定したものの、リタの言ったことは実に正鵠を射ていた。

 リタより授けられた正しき振る舞い、思想、教育は、余を大きく変容させたであろうから。

 その証拠に、余は母や妹とは異なり、もはや人間を家畜とは見なせぬ。余にとって、どちらが上でどちらが下か、などといった格付けは無意味であり、吸血鬼と人とはただ単に異なる種の生き物同士だという認識である。

 努めて隠していたものの、母は余のそうした『匂い』などとうに嗅ぎ取っていたであろうと思う。一度、「お前も変わり種におなりのようだね」と恐ろしい笑みを湛えた母上にそう言われたことがあった。

 もしや余も果たし合いを申し込まれるのか、と父同様、無残にいたぶられたのち絶命する己の姿が頭をよぎったが、「一族の誇りを汚すような真似さえしないのであれば、お前がどう生きようとかまいはしないが」とあっさり許しを得てしまった。


 実のところ、己の変容に関して余は一片の後悔も感じておらぬ。変わることのない怠惰な生活が、どこまでも続く一本道であるとするならば、様々なことに興味を持ちその一つひとつを識るというのは、どこへ続くやも分からぬ枝道を進む如くに先が読めず楽しい故。

 他の吸血鬼同様、これまでに教育らしき教育を受けてこなかった余は、正しく文字を綴ることにはじまり、算術や地理学、物理学、この地や異国の歴史についてリタより学んだ。ちなみに、地理学以降に挙げたものに関してはリタ自身もあまり得意でなかったと見え、二人で地図や歴史にまつわる本を読み解くのがせいぜいといったところではあったのだが。


 余は、一つ学習するたびに、世界が拓けるような感覚を得た。

 己が知っていた、空を飛んで行動出来うる範囲外の、吸血鬼の想像を超えた世界が、書物の中にはいくつもあった。余は物事を知らぬ、と恥じ入ることはすなわち、これより先にまだ知れることがあるという喜びでもあった。 

 知らぬままでいるよりも、知る方がよい。我らの生は永い。その時間の埋め草は、音楽や絵の鑑賞、読書だけでは到底足らぬ。

 そう結論づけてからは、いよいよ貪欲になった。

 寝静まる森へ足を運んだ。リタの照らすカンテラの先に、主のいなくなった鳥の巣を見た。星明りの下、さらさらと密やかに音を立てる小川の流れの中に、泳ぎながら眠る魚を見た。

 馬に乗った。移動手段は自身で飛ぶ以外のものなど必要ないと思っていた余を、馬は振りおとさん勢いで運び――リタと馬丁によれば、常歩(なみあし)と呼び慣らすそれは、ただ歩いているだけだという話であったが――空では味わえぬ高揚を余に知らしめた。

 ダンスを教わった。型は奇麗だと褒められたが、いざ動き出すとリタの足を幾度も踏み、しまいにはとうとう叱られた。おまけに、『立っていれば様になるのに、どうして踊り出すとそんなに面白くなってしまうんでしょう』と大笑いまでされた。

 テーブルマナーをたたき込まれた。初めの頃は余の操るフォークとナイフの先でつるつると滑る野菜に焦れ、あの憎きほうれん草の方が刺しやすくてよい、とさえ思った。

 読む側に伝わればそれで十分とぞんざいに記していた綴りを、厳しく矯正された。我ながら美しく書けると自信が付いたところで、リタにカードを贈った。改めての感謝の言葉を口にすれば火を噴くほど恥ずかしいであろうから、そのためにきっと文字はあるのだな、などと合点しつつペンを走らせた。


 ――余が陽光を浴びることは一生涯ないが、それはリタに似ているであろうと、そのように思う。


 結局、書く方も恥じる気持ちがどうしても邪魔をして、このようなつまらぬことしか記せなかった。だが、いつも余の前では笑顔でいるリタが、それを読みはじめて涙を流したのを目撃してしまった。

「どうした、カードで指でも切ったか?!」

 慌てふためく余を見て、リタは赤い目のまま笑い、そして「違いますよ、――嬉しくて、涙が出たんです」と教えてくれた。

「そうなのか」

「ええ、人は悲しい時も嬉しい時も、涙を流す生き物なのですよ」

 そう言うと涙をすっかり払って、いつもの笑顔にていつもの如く余に語り掛けた。


 さあ、じょうずに文字を書けたご褒美に、ビスケットをもう一枚差し上げましょうね。


 子ども扱いするでない。


 子どもじゃないですか、やーねえ。


 ********


「そのカード、私も見てみたかったです!」

「ずっとリタが大事に持っていたがな、もう存在せぬ」

「なくされてしまったのですか?」

「なに、リタと共に埋葬したのだ」

「……」

「……ぬしがそのような顔をせんでよい、それより、おかわりをもらえるか」

「……はい、すぐに」

 だから、そのような泣き笑いの顔をせんでよいと言うのに。


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