1.
ぎいと微かに軋む音と共に蓋を開けば、光ともいえぬ程度の光が余の顔を照らした。窓には幾重にもカーテンがかけられており、直接の外光がこの部屋に差し込むことはない。館に昼夜灯されているLEDの光にて余の身が滅びることもまたないが、人間らにしてみれば永き眠りを貪っていた身に、それは存外眩しく感じられる。
「クラウス様、おはようございます」
家令のブリクセンが恭しく頭を垂れた。
うむ、と顎を引きそれに応え、天鵞絨張りの寝台の縁に手を付き、余はゆっくりと身を起こす。
「三月ぶりか」
「左様にございます」
「皆、息災か」
「変わりなく、勤めさせていただいております」
「そうか。あれの首尾は」
「今年も、着々と進んでおります」
余の眉がかすかに寄ったのをブリクセンは見逃さず、さりとて「では、取りやめに致しましょう」などと言うでもなく、淡々と己の責務――すなわち主である余の説得――を果たさんとしていた。
「仕方がありません、クラウス様」
「……分かっておる」
気が進まぬことこの上ないが、ノブレス・オブリージュの精神に則り、成さねばならぬのであろう。
余はクラウス。由緒正しき吸血鬼である。
だが、人間どもは余のことをサンタクロースと呼び習わしているらしい。
赤に白い縁取りの服を着た、丸々と肥えた白髪白髭の好々爺。
トナカイの曳く橇に乗り真夜中の冬空を駆け、人間の子どもらに贈り物を配り歩く。
ありえぬ。
それは、真実、余ではない。
だがしかし、限られたものに目撃されていた余の姿と振る舞いが、時が経つにつれ徐々に真実から乖離してゆき、上記のような余とは似ても似つかぬものと認識されていることは確かである。
本当の余の姿を知っているものは、おそらく国境近い、ぐるりを山に囲まれたこの地の人間だけであろう。
余は、吸血鬼である。人間の血を啜る、恐ろしい存在なのである。
――そのような認識の筈である。
********
赤白好々爺のきっかけは、飛行中の姿を人間に目撃されたことであった。
ある冬の晩、余は乙女の血を啜った後、空を飛んでいた。
風の強い夜であった。雲が柔く千切れ、川水の如く押し寄せては流れて行く様が、煌煌と月光に照らし出されていた。眼下には畑と牧草地がなだらかな起伏に沿っていたずらに広がっているだけのつまらぬ風景、ましてや季節が季節なだけにつまらぬ上にのっぺりと白一色に染め上げられた極めて単調なものである。
栄えた都会からはほど遠い、雪に覆われた真白なその地べたに、何かが倒れ、その上にも雪が積もり始めているのを余は上空より発見した。
注意を払いつつ降り立ってみれば、果たしてその『何か』は人間の女の子どもであった。元の色を想像するのがいささかむつかしいほど、彼のものが身に着けていたその服は汚れ、ところどころほつれてさえいる。そんな粗末な服を纏うこの痩せさらばえた女の子どもを放っておけば、夜明けより前に命が尽きようことは、火を見るよりも明らかであった。
傍らに立つ余に気付くと、女の子どもは緩慢に顔をこちらへと動かし、余に話しかけてきた。
「神様……」
「余は、断じて神などではない」
この世に数多あるものの中で、一番例えられたくないものに例えられた余の心の苦しみは筆舌に尽くし難い。
「では、……あなたは……」
「余は、吸血鬼である」
「きゅうけつき……」
「聞いたことはないのか? 乙女の血を吸う、恐ろしい我ら一族の話を。今しがた、この村の娘の血も啜ってきたところだ」
余はわざと脅かすように低い声、芝居じみた口調で語ったのだが、言われた当人の目には驚きも畏れも何も浮かびはしなかった。星のひかりを一切なくした夜よりも深い闇だけが、彼のものの目の中にはあった。
「……知らない……」
余は、その女の子どもの様子に首を傾げた。
「なぜ知らぬ。余のことはさぞ噂になっていたであろう?」
余はいきなり人間の住む集落を襲う訳ではない。事前通達が常である。だのに、ぐるりを山々に囲まれた、閉鎖的かつ話題の乏しき村において吸血鬼の来訪の話が食卓に上らぬというのは、いささか妙な話であった。
だが、その訳はすぐに知れた。
「誰もいないから……お父さんもお母さんも、っ、……死んじゃった……!」
小さき体に似つかわしからぬしゃがれ声でそう呟くと、虚ろな眼の岸に水がどうと寄せられ、やがて汚れた頬を幾筋も伝う川となった。
「泣くでない」
壊れたからくりの如く、無表情に滂沱の涙を流し続けている女の子どもに、余はひどく困惑した。
余の前で、恐怖に怯える女はあれど、このように無遠慮に泣く人間などおらぬ。故に、どうしたものかと途方に暮れたのである。
余は、女の子どもも女であるから、女の扱いをすればよいと判断した。凍てつく地に寝転がったままであった女の子どもの傍にしゃがみこむ。紙のように軽いその身を起こし、余の膝の上に乗せ、麻袋の如くごわごわの髪と、止むことを知らぬ涙にてすっかり冷たくなってしまった頬を撫でる。普段であれば、人間の女は恐怖から一転、余に身を委ねる場面である。
だが、女の子どもの涙は止まる気配もない。
「泣くでない」
もう一度告げ、その頬を余の胸元に差していた絹のハンカチーフでそっと拭った。ひとたび擦っただけであるというのに、雪の色であった生地は春泥の如く茶に染まった。
汚れの間から覗いた肌は、雪よりもなお白かった。
ハンカチーフの清潔さと引き換えに泥と汚れを拭ききれば、人形のような顔立ちの幼子が現れた。随分と、やせぎすではあるが。感心しきりの余を尻目に、女の子どもはせっかく奇麗な顔を取り戻したというのに、またしても涙を流した。
「わたしも、天に召されたい……」
「ならぬ」
余はその子どもの目を見つめたが、絶望しか映さぬうつろは、覗いている余さえも終わりなき悲しみに満ちた世界へと引きずり込まれるのではと思うほどに果てなく昏い。されど、一度伸ばした手は引けぬ。余の、吸血鬼としての矜持がそれを許さぬ。
吸血鬼である余は、意味なくこちらから人間には近づかぬ。余が手を伸ばしたということは、すなわちそのものに関わる覚悟があるということと同じ。
余はこのうつろの女の子どもに響く言葉を探った。
「余の宿敵が待ち構えておる天に行きたいなど、とんでもないことであるぞ。生きよ」
「生きる理由なんて、もう、ないんです」
「ならば、余が作ってやろう――ぬしが娘子になったら、余はぬしの血を啜りにゆく。それまで、死ぬことはならぬ」
「でも……でも、もう、食べるものもないんです」
聞けば、家族はみな、秋口に国中で猛威を振るった流行病に倒れたのだと言う。感染することを恐れて、村の人間どもは様子を見に来るどころか、女の子どもが外に出れば即座に扉を固く閉ざしたと言うのだから、おそらく仕事に就こうにも食物を分けてもらおうにも温かな支援の手はどこからも差し伸べられなかったのであろう。ならば。
「――我が屋敷に来ればよい」
「あなたさまの?」
そう答える目に、僅かながら光がともったのを、余は確かに見た。ささやかなれど光は光。一条差しこめば、それは新たな光を呼び込む契機になり得る。
「左様。屋敷は広く、常に人手が足らぬ。ぬしはまだ小さいが、仕事はいくらでもあろう。言っておくがこれは慈善などではない。働き、その対価として寝食を得るのだ。よいな」
こくりと頷いた頭に余は満足した。
「では行くぞ、掴まれ」
「え、」
その小さな女の子どもを片手に抱いたまま、空を飛んだ。その軽さは先程も実感したにもかかわらず、またしても悲しみを感じずにはいられぬほどであった。されど。
「うわあ……!」
その目に、初めて明らかな輝きがうまれ、その頬が、初めて薔薇色に染まった。
「すごい、……すごい!」
「そうか」
余にしてみれば常と変らぬ散歩であり、何百年も繰り返している、つまらぬ、取るに足らぬ習慣でしかないが、空を飛ぶこともままならぬ人間の子どもにしてみれば未知の体験であったことだろう。
「ありがとうございます! ……あ、」
女の子どもは何かに気付くと、余の顔をおずおずと見上げてきた。
「何だ」
「あの、お名前を伺ってもよろしいですか? わたしは、サラと申します」
余に抱かれたまま、サラと名乗ったやせぎすの人間の女の子どもは、飛んでいる最中だと言うのに、あいている方の手でスカートを抓みお辞儀をしているように振る舞った。その、子どもなりに礼を尽くさんとする仕草は余の心を大いに打った。
「サラか。余は、クラウスと申す」
「クラウス様、とお呼びしても?」
「構わぬ」
「クラウス様」
「何だ」
「……一生懸命に、お仕えします」
「きちんと食事をとるのだぞ。不味い血を啜るのはかなわん」
「もちろんです。いつかクラウス様に、おいしいと言っていただけるように頑張ります」
「うむ」
何やらいい気分になった。そのような心地になるのは何十年ぶりであっただろうか。
いつもと違ってサラを抱き飛んでいたので、マントがはためき裏地の赤がよく見えたようだ。
――その日、余がマントを翻し、白い袋を抱えて楽しげに空を飛んでいると、麓の村で噂になっていたとは、いかに余が聡明な吸血鬼であれど知るよしもないことであった。
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「ほら、はじまるよ」
「サンタさん早く来ないかなあ!」
窓辺に佇み、もしくは家々の扉を出て外で待ち構える人間の親と、子ども。
この村では当たり前の、クリスマスの夜の風景である。
夜中に白い袋を抱えて空を飛んでいるサンタクロースの姿を見ると幸せになれるというジンクスが、いつの世からかこの村において語られるようになり久しい。
このような見世物めいた真似を、余のみならず余の最も愛する者にもさせねばならぬかと思うと毎年のこととはいえ大層気が重いが、『皆、楽しみにしておりますので』と家令のブリクセンに言われてしまえば仕方がない。
ノブレス・オブリージュの精神に則り、己の成すべきを成すしかないのだ。
実のところ、余にとってもそれが楽しみであることに変わりはない。一人で空を飛ぶのはもはや余にとって退屈の極みでしかないが、余の最も愛するものと夜の上空散歩に出るのは、何十年何百年が経とうと、その都度胸が高鳴る。
では何が気に入らないかというのは、――――――余の最も愛するものを年に一度とは言え見知らぬ人間たちに見せねばならぬという点だ。まったくもって気乗りせぬことこの上ない。
そう思った余に「わたしも、楽しみにしております」と頬を染め、いじらしい笑みを見せる、余の最も愛するもの。ぬしがそうまで言うのならば、余もこの見世物を楽しもうではないか。
「ゆくぞ」
「はい」
漆黒の空を従えるが如く、ひらめくマントの裏地の赤。袋代わりに抱きかかえたのは、真白の美しいドレスを纏った余の最も愛する者。
自身はまったく飛べぬくせ、余に全幅を委ね抱かれたまま飛ぶその脆弱と信用、愛情が嬉しくも愛おしい。
余は、この女に愛されている。
余も、この女を愛している。
それを、村の人間に見せつけてやろうではないか。