10. 第二種接近遭遇
「んぎぃぃぃぃぃぃぃ」
いつもの儀式を終ると、壁を叩く音が聞こえた。
私の奇行はすでにアパートの住人に知れ渡っている。
だからこれは・・・なんというか挨拶みたいなものだ。
習慣になっている。
これをするだけで一日の披露が嘘のように洗い流される。
マジで、いや、嘘なのかもしれない。そんなことはどうでもいい。
マンホールの清掃は、全く酷い仕事である。
イネリの刈り取りはもちろん、詰まった排水溝の掃除までやらされる。
おばちゃんの長話のおまけ付き。
お人好しオーナーの、都合の良い先鋒をやらされているのだ。
テレビをつける。ここに赴任してきてからというのも、こう生活が荒れている。
肌にへばりつくぶかぶかのソファ、床は散乱して、部屋は臭気に満ちている。
アルミ缶の酒はマズイし、握り潰すし、台所の食器は片付いていない!
「最悪の気分だ!」
HAHAHA
うるせえ、という声が壁越しに聞こえてくる。
大家さんのおっちゃんだ。部屋は隣である。
まあ、みんないいやつなんだよな。ジジババしかいないけど。
と言うにも、この最悪の気分の原因はつかめているのだ。
どうにもこの街は異質界が悪い。人を堕落させるなにかが、息を潜めている。
その吐息の悪臭が、この街を形成している。
しかし、その反面、これは人を温厚にする効果もあるらしかった。
このアパートのような荒れた外見に反して、この街は比較的治安が良い。
この最悪な異質界には源流がある。
それはイシカという街で、ゾンビのようなドラッグ常用者で溢れかえっている。
その瘴気はあまりにも強く、街の中心部には誰もよりつかない。
異質観測所の奴らは本当にしぶとい。
観測員は異質界の精神汚染に耐えうる者が選別されているようだ。
テレビを見つめながら、そんな情報を反芻する。
気づけば、下着姿だった。
パンツもブラジャーもかなりはだけて、数日間変えてないのを思い出した。
――情報は圧縮記憶として一方的に与えられたものだ。
こういうものを思い出すのも度々必要である。義務のようなものだ。
そういえば、彼、タライナムを最近見ていない。
ウザがられただろうか?
口元に酒気を含む。
まあ大方、また何か新しい任務を仰せつかったのだろう。
テレビがおかしい。
気づけば、なにかぐるぐるしてるし、砂嵐が走っている。
しかも、なにかキンキンしている。耳鳴りのような。
そうだモスキートノイズだ。久しぶりに聞こえたような気がする。
「マズイ」
これはマズイ。
急いで、コンセントを抜く。
しまった。遅すぎた!
もうすでに、テレビから血液が溢れ出していた。
第二種接近遭遇。
マズい。非常にマズい。
異質術を詠唱する。
『軋』
無色の弾頭が手首の複雑体から射出された。
着弾は不明瞭。
途端にテレビが捻じ曲がる。
きぃぃぃぃ という人とも機械ともつかない絶叫が聞こえて、静かになった。
床に垂れ下がっていたはずの血液は消えていた。
――一瞬の出来事だった。
油断していた。特にアナログテレビと疲労には注意するべきだった。
乱暴な詠唱に複雑体は熱を持っている。
めちゃめちゃに起動された制御ソフトのエラーが視界に焼き付いている。
鼓動がどくどくとして、全身の血液を回していた。
さっきの出来事が夢のようだ。
この一瞬で酔いは冷めてしまった。
この街では一般的な不明実体の一つだ。
噂では、テレビの中に人を連れ込むそうだ。
誰も事象を観測できていないらしい。
その後どうなるかは誰も知らないようである。
玄関をノックする音が聞こえた。
流石に怒っているだろうな。
申し訳ない気持ちが口の中に紛れ込んでいるような気がした。
ジャケットを羽織って、玄関を開ける。
大家のおっちゃん。
「大丈夫か?」
「ごめんよ。怪異にやられるところだったんだ」
「てめえ。まだアンテナつけてなかったのか」
「あー……ごめんな」
「テレビはどうした」
「ぶっ壊した」
「テメェ」
「調達しておくからさ......」
彼は困ったように頭を掻く。
「いいさ。倉庫に腐る程ある。大事にならなくて良かったな」
「ありがとう。心の友よ......」
「――今度からもう少し大人しくするんだな」
そう言って大家さんは帰っていった。
ああいうのには頭が上がらない。
他の街では考えられないことだった。
不思議なことだ。
この倦怠感も、あの妙な優しさも、どれもが不思議と懐かしいもののように感じられる。