行き倒れの死にかけ吸血鬼にしかたなく血を恵んだら、思ってたのと違う展開になった
急患の往診をすませて、夜明け間近の旧市街を歩いていたら、なんかゴージャスそうな布が落ちていた。
足を止めてみたら、ベルベットだった。やっぱりお高いモノだ。落とし物だろうか?
このあたりはすさんだスラム街で、「おいてある」モノを拾っていくことに罪悪感を覚える人はいない。放っておけば、日が昇るとともにどこかへ持ち去られるだろう。
恵まれないストリートチルドレンの朝食に変わるなら、それでもいいか――そう思って、おれが足を再び動かそうとした瞬間、もぞ、と布が波打った。
「な、なんだ……?」
布の下になにかいる。子猫ならいいけど、ネズミとかはやだなあ。
おそるおそるベルベットのはじっこをつまんで、持ち上げてみると――
「うぅ……」
「え? 子供?」
七、八歳くらいの、性別も定かでないちびっ子だった。しかし、身なりはえらく立派だ。よく見ると、ベルベットの布は、マントだった。この子の身体には合っていない、大人用だが。
「すまんが、血をわけては、もらえんじゃろうか……?」
子供らしくない言葉とともに、口もとに鋭い牙がのぞいたので、おれは倒れている相手の正体を察した。
吸血鬼だ。
なるほど、豪勢なマントは、確かに吸血鬼のトレードマーク。なぜマントだけが大人用なのかはわからないが。
「大丈夫か? どうしてこんなところで倒れてたんだ?」
「話すと、長くなる……無理じゃ保たん。とりあえず、血をくれないか」
吸血鬼はそもそも血の気がない肌の色をしているものだが、この子の顔は完全に土気色。本当にいまにも干からびて死にそうだ。
「わ、わかった……」
おれは袖をまくって左腕をさし出したが、吸血鬼は不服そうな声を発した。
「腕か? 首から吸わせてくれ」
「頸動脈噛み切られたら、普通の人間は死ぬんだよ?!」
「わしら吸血鬼の唾液には、痛み止めや血止めの作用があるから大丈夫じゃ」
「蚊のようなことを」
いや、蚊の唾液は血が固まらなくなる作用だったかな? あいつらは針が細いからすぐに血管の穴がふさがるんだったっけ。
「とにかく、首は怖いからダメ」
おれはそういって、襟を立てて首筋を隠し、腕を吸血鬼の目の前に据えなおした。
「ケチじゃのう……この際ぜいたくはいってられんが。――いただくぞ」
がぶり、と小さな牙がおれの左腕に突き立った。痛みはほんの一瞬で、わずかなむず痒さとしびれに変わる。
おれの左手が青ざめていくのと引き替えに、ちんちくりん吸血鬼の、死人同然だった顔色が、不健康な人間、程度まで改善した。
「……ふぅ、ひと心地ついたわい。すまんのう、助かった」
牙を引き抜き、傷口をぺろりと舐めてから、吸血鬼がそういった。おれの左腕にははっきりと痕が残っているが、血は出てない。吸血鬼の唾液って、傷薬に使えるんじゃなかろうかとおれは思った。
「いや、気にしないで。吸血鬼だからって、行き倒れを見捨てたんじゃ目覚めが悪いし」
「近ごろの人間にしては徳のあるやつじゃな。名を聞いておこう」
「名乗るほどのものじゃない」
まくっていた袖を伸ばし直しながら応じ、立ち上がりかけたおれの裾を吸血鬼がつかむ。
「そういうな。わしはイズミール。イズミール=アッシュリターネッドじゃ」
「ドクター・オッドボールと呼ばれているよ」
「変わり者……医者じゃったのか」
「いちおうね」
こんな時間にこの場所を通るのは、奇人でなければ、夜盗か、それこそ吸血鬼くらいだろう。往診カバンは持っているが、白衣を着ているわけではないので、見ただけではわかるまい。
イズミールと名乗った吸血鬼は、立ち上がって優雅に礼をした。
「奇特な医者よ、いずれこの恩は返すぞ」
「べつに気にしなくていい。日が昇って灰に戻る前に、棺桶に帰りなさい」
そういえば、倒れてた事情を聞き損なったな、と思い出したのは、イズミールがマントを翼のようにして飛び去ってからだった。
まあ、いいか。
+++++
新市街のすみっこ、城壁跡の大通りをへだててスラム化した旧市街が見えるところで医院を開業すれば、そりゃあ患者はひっきりなしにやってくる。
そのほとんどが、治療費を払える経済状況にはないということも、承知の上だ。だから「ドクター・変人」と呼ばれる。
篤志家ルーンゼルマン伯爵の援助で、スラムの孤児の割にはおつむが回るガキだったおれは医者になった。伯爵の救貧活動の助けになればと思ってスラムにほど近い場所を選んだが、金持ち相手に稼ぎまくって慈善基金を拡充するのと、どっちがよかったかはまだ判断がつかない。
今日も行列を作って待つ患者たちを診察していく。
肺に悪いから煙突掃除の仕事はもうひかえなさい、とか、新鮮な野菜を食べなさい、とか、実効力イマイチの助言ばかりで、あまり効果的な治療はできない。
貧乏人たちの体調不良は、環境のよいところでしばらく養生すれば治るものが大半なのだが、その養生が難しいのはおれにもわかっている。
ときどき、ルーンゼルマン伯爵から奨学金を受け取っている、医者見習いや看護師見習いが手伝いにきてくれるが、基本的にオッドボール医院はおれひとりだ。給金が出せないから、助手やナースは雇えない。
運営費と、おれの個人生活費は寄付金がまかなってくれているが。
「先生、いい加減あたしらみたいな貧乏人の相手はやめないと、嫁がもらえないよ」
「おれがやめたら、だれがオバちゃんたちの診察をするのさ? 悪知恵の回る小僧っ子、どっかにいないの? 学校に入れて医者に仕立ててよ。ルーンゼルマン伯爵への紹介状はおれが書くからさ」
「うちのボウズは無理だね。三から先は数えられないよ」
「それだと、代わりがきてくれるまで、おれはこのままだなあ」
「あたしら五年くらいは我慢するからさあ、先生が稼げるところに行って、嫁もらって、帰ってくりゃいいんだよ」
……オバちゃんという生き物は、無茶ぶりを平然とするもんだ。このスラムに帰ってくることを前提に出稼ぎへ行くのは、正直にいって自信がない。金持ち相手の稼げる医者に成り上がったら、戻ってこられる気がしないのだ。
ま、貧乏人相手の藪医者をしてるくせに、ここから出れば稼げる名医になれると思うのも自信過剰だけど。
患者が全部さばけたころには外は真っ暗になっていた。
治療費代わりに、炭ひと束と、キャベツと、ベーコンを、それぞれ別の人が持ってきてくれたので、今夜は温かいものが食べられそう。お代になるものを持ってきてくれる患者が三人いるのは、いいほうだ。
寝泊まりのためだけに借りている、古びた石造りの共同住宅、その一角のボロ部屋の戸を開ける――と。
部屋のど真ん中に、妙なものが鎮座していた。
縦200センチ、横80センチ、高さ50センチほどの、黄金の象嵌が施されている、黒檀の、立派な箱。
……これは、どうみても、超高級品だが、棺。
「おう、オッド。帰ったか」
部屋が暗くてわからなかったが、黒髪で、夜空の色をしたベルベットのマントをまとった人物が、こちらに背を向けて立っていた。
振り返ると、闇に白い顔が浮かび上がる。
「い、イズミール……?」
「そのとおりじゃ。いや、おかげですっかりよくなった。医者の血って、よく効くのかのう?」
ちんちくりんだったはずの背は、おれと並ぶほど高くなっており、この世のものではないほどに整った妖艶な美貌に、ばいんばいん、きゅっ、ばーん……。
「おまえ……女だったのか……」
「なんじゃ、気づいておらんかったか。朴念仁め」
「昨日は縮んでたのに、どうして」
「エネルギー切れじゃ。ネズミくらいは獲れると思っておったんじゃが、すっかり鈍っていてな。少々休眠しすぎていたようじゃ。700年ほどかのう?」
旧市街ができるよりも大昔から、この地で眠っていた太古級の大吸血鬼だったらしい。
吸血鬼自体は見たことがあったし、知り合いにもいるが、まさかそんな古株だとは思わなかった。
「……ところで、なんでうちに?」
ようやく問いただすべきことを思い出したおれに対し、イズミールはいたずらっぽく笑った。
「恩を返すといったろう? おぬし有名人じゃな。訊いたらすぐに医院の場所も下宿も教えてくれて、荷物として簡単に運び込んでもらえたぞ」
なんてこった。他人の家に無断上がり込み禁止の、吸血鬼のタブーがあっさり突破されてしまっている。こんなあやしい荷物、店子に確認も取らないで部屋に入れるのやめてよ大家さん……。
「恩を返すのはいずれって……なんで昨日の今日で」
「善は急げじゃよ。ひさしぶりすぎてもう土地勘もないしのう。おぬしが死ぬまではずっとつき合ってやるぞ」
「いやいやいやちょっとまって! おれまだ30にもなってないよ!」
人生あと50年はあるつもりなんだけど。まさか首に食らいついて殺す気!?
「はっはっは、人間の一生なぞ、わしらからすればほんの些細なものじゃぞ」
「ああ、そういう」
「それとも、おぬしも吸血鬼になりたいか? かまわんぞ、わが主どのとして、永久に仕えてくれよう」
「……え、あの……マスターって、どういうこと?」
吸血鬼に首を噛まれて血を吸われた人間は、自らも吸血鬼に形質変化を遂げ、血を吸った吸血鬼の下僕となり果てる。
支配されるのは血を吸われたほうであって、逆ではないはず。
イズミールは子供の姿のときのように、ぷぅ、と頬をふくらませた。
「わしは頸動脈からくれといったのに、おぬしは腕の静脈からしか血を恵んでくれなかったではないか。静脈血を与えられた吸血鬼は、血を賜った人間に隷属するのじゃ」
「嘘でしょ!? そんな伝承聞いたことないし?!」
「試してみるがいいぞ?」
今度はにやにや顔に変わったイズミールに対し、おれは台所のシンクの上に吊してあった干しニンニクを手に取った。テキトーなこといって人間のことおちょくってるだけでしょ。
「じゃあこれ食べて」
「仰せのままに主どの……って、ほぁあぁあああっ!!? 止められないのぉぉおおおっ!!!?!!」
「ストップ! ストーーップ!! ペッしなさい、ペッ!!」
ニンニクをまともにかじって、一発で顔がどす黒くなったイズミールをあわてて制止した。
口からニンニクのかけらを吐き出すと同時に泡を吹いて倒れたイズミールを、介抱する。
指を噛ませて。
「悪かった、悪かったから! とりあえず血を飲んで!」
「ちゅう〜〜……。はぁ、はぁ……。のう、主どの、わしのこと、マジで殺す気?」
「いや、人間が吸血鬼の支配者になるとか、冗談だと思って……」
「このイズミール=アッシュリターネッドが、なぜにつまらぬ嘘を吐くと思うんじゃ?」
「うーん、700年前の偉大な吸血鬼の名前とか、もう言い伝えにも残ってないんだよ」
「人間は困ったものじゃのう」
ぶつぶついうイズミールをとりあえず棺の上に座らせて、おれはもらいものの炭で火を熾し、キャベツとベーコンでスープを作った。干しニンニク入れたらより美味しくなるんだけど、仕方ない、あきらめよう。
「はい、イズミールも食べな」
「吸血鬼に普通の食い物を与えても、特に意味はないぞ。……美味いのう」
「ひとり暮らし長くて、料理だけは上達したからね」
食べな、と命じたからなのか、イズミールは無意味といいながら、あっという間にキャベツとベーコンだけだけど具だくさんスープを完食した。
「まあ、なにはともあれ、わしがおぬしのしもべだということは理解できたであろう、主どの?」
「といってもなあ。助手がいてくれるとありがたいのは確かなんだけど、昼間は働けないよね?」
「灰より蘇りではなく、灰へと戻りになってしまうのう」
吸血鬼だもんなあ。夜間急患の対応には役立ってくれるかもしれないけど。
――と、そこでひとつ閃いた。ガラスの試験管を引っ張り出して、イズミールの顔の前に差し出す。
「唾液出して」
「……はぁ?」
「吸血鬼の唾液は血止めと痛み止めの効果があるんでしょ。実際、イズミールに噛まれてもぜんぜん痛くないし、薬にできたら大発明だよ」
「ちょちょちょっ……この超絶美貌と圧倒的ナイスバディの大吸血鬼を捕まえて、『唾をよこせ』とはどういう了見じゃ!? わしの生唾を直接売ればそれこそ大もうけじゃぞ!」
「……いかがわしいお店すぎる」
絶対だれも薬用に使わないやつじゃん。
「吸血鬼の唾液が必要だというなら、やはりそうじゃ、おぬし自身が吸血鬼になるがよいぞ、主どの!」
「昼間患者が診れなくなるのは困るよ」
「夜間診療専門医院にすればいいのじゃ。わしも一緒に働ける!」
「ゆくゆくはそれも考えるけど、とりあえずいまは唾液出して。この試験管半分でいいから」
「主どの、首を差し出してくれればいますぐに」
「はいはいステイステイ。唾を出して、酸っぱいもののこと考えれば出るから。ほ〜ら、ここにレモンがあるよー……」
+++++
……痛みと出血を両方止める秘薬は作れなかったが、強力な止血剤が完成し、おれは大金を得ることができた。
寄付金だよりだった潰れかけ医院は多くのスタッフを抱えた大病院に変貌し、今日も一般患者もスラムの貧乏人もわけへだてなく診療している。
院長であるおれには、いつまでも老けない美貌の奥方がいると噂されているが、その顔をしかと見たものはいない。
おれ自身が吸血鬼になるかどうか、その選択は、いまのところまだ保留だ。
おしまい
梅干しが存在する世界だったら、唾液は簡単に集まるんですけどねえ。




