2-5
(わりと栄えてるものよね。田舎っていうわりには)
それがどんな感情から生まれた想いだったのかは、よくわからなかったが。そうとしか思えないのも、確かに事実ではあった――フレインの街並みというのは。
フレイン領はクライスの中で最も王都から遠い領土だ。位置的には徹底した辺境である。その田舎領の最南端、バスクアッド森林を抜けた先にあるのが、フレインの都町だった。
田舎者が都会に近づけようと努力した街、というのがドギーのフレインに対する評価だった。人口もそれなりにあり、王都から発信される流行や技術を貪欲に取り込んでいる。
大通りは全て石畳で舗装され、通りの隅に並ぶ露店や屋台は活気にあふれている。道行く人々の服装に華美なものは少ないが、薄着な彼らの服から覗く肌には健康的な色が見えた。
王都と比べて洗練されてはいないが、それを補って余りある熱意と活気がある――
「――との事らしいですが、私は王都に行ったことがないのであんまりピンとこないんですよね。ドギーさんはどうですか?」
フレインの大通りを歩きながら、エリーはそんなことを訊いてきた。
確か街の説明から、そんな話になったのだ。今は三人で、エリーの宿に向かっている。アルフは馬車管理組合に借りた馬車を返却したあと、職場に戻るというので別れた。
「どうかしらね。王都には昔いたことがあるけど、子供の頃よ。もう覚えてないわ」
「そんな昔から旅をなさってたんですか? クラウンさんと?」
「……そういうわけでもないわ。まあクラウンとはずっと一緒だけれど」
返答に窮して、少し言いよどむ。迷ったのは、この少女にどこまで語っても大丈夫かということだった。
ちらと背後を見やる。少し離れた場所から、クラウンが二人の後をついてくる。彼に答えさせるのが、一番無難で失敗のない選択なのだが。
別に彼女が確信に至ることもないだろう。ドギーは、差支えのない部分を答えた。
「王都にいたのは親の都合よ。旅を始めたのは七年前から……かしら。ここ最近は街にいることの方が少なかったから、日付の感覚が曖昧なのよね」
「七年も旅を続けてきたんですか。いいですね。そういう生活、ちょっと憧れます」
「そんないいものでもないわよ。ベッドで眠れる生活の方が価値があるもの。寝てる耳元を虫が這いずりまわることもないし」
今までの生活を思い出して、ドギーはしみじみと呟いた。
旅を始めて数か月の頃は、毎日惨めでしょうがなかった。
ベッドもなければ雨風をしのぐ屋根もない。家もない。食事も自分で作らねばならない――そんな生活をしなければならないのが、死にたくなるほど嫌だった。
今は慣れたからそれほどでもないが。昔を思い出して、彼女はため息をついた。
「憧れるのはいいけれど、地に足のついた生活の方が幸せよ。旅なんてのは、それが出来なかったか、さもなくば足元見ないで夢見がちな人がすることだもの」
「はー……そういうものですか?」
そうよと頷いて、ドギーは苦笑した。実際自分がどちらに当てはまるのかと考えて、小さく噴き出す。
間違いなく後者だ――復讐なんてものは。
(父親を殺した男を殺すために、何もかも捨てたんだものね。私は)
と。
不意に、ドギーは足を止めた。エリーもクラウンも、同じように立ち止まっている。
目的地についたわけではない。往来にできた人だかりに、道を阻まれたからだった。
小さな人垣だ。だが騒ぎの中心からは不自然に距離がある。
「……何の集まり? これ」
「さあ……今日は、特に行事とかなかったはずですけど……」
きょとんと、エリーが首をかしげる。
その隣でクラウンが目を細めたのを見て、ドギーは意識を切り替えた。
集まった人だかりに目を向ける。彼らの表情にあるのは恐れだ。何かを恐れ、だが逃げるでもなく戸惑っている。
人垣を強引に割って、ドギーは騒動の中心を覗いた。
「――随分と面白いこと言うじゃねえか、ああ!?」
騒ぎの原因は一目で知れた。ケンカだ。
あるいは、リンチか。
三人の騎士服の男が、独りの若い男を嬲っている。何度も殴られたのか、男の顔は眼も開かないほどに腫れ上がっていた。
倒れた若者の顔を騎士服の男が踏みにじると、若者は苦痛の声を上げる。
だが騎士服の男はわずかにも気にしない。いや、むしろ嗜虐の笑みを強くした。
「恥知らずの騎士気取りって言ったよな。誰のことだ。俺たちの事か? 毎日毎日汗水たらして、テメエら守るべく働いてる俺たちの? 野盗退治で死んじまった奴もいたよ。そいつらを恥知らずって言ったか、テメエはよお!」
踏みつけた足を振り上げて、彼は若者の顔に叩きつけた。若者はもう声も上げず、浅い呼吸を繰り返すだけだ。だがそれを助けようとする者はいない。
怪訝に感じて、ドギーは辺りに視線を走らせた。ざわめく聴衆は互いに顔を見合わせているが。騒動に対して、人だかりは奇妙なほどに遠かった。
事態の予想は簡単についた。若者がフレイン領騎士団を侮辱し、領騎士たちはそれを無視できなかった、といったところか。
領騎士は終戦の後に誕生した、フレイン領における治安維持機構だ。だがその内実は、クライス王国の滅亡を受け入れられなかった“反逆者”の粛清部隊だという。
カーライルは反逆を恐れ、クライスの各領内にカーライル人の武装組織を設立させた。彼らには治安維持を大義名分として、武力を行使する権利が与えられている。
だがその大義によって剣を振るうはずの男たちは、今は気絶した若者を嘲笑っていた。
「誰のおかげで平和に生きられると思ってんだ? 俺たち領騎士団がいなけりゃ、てめえらなんざ野盗の餌食だろうが。何にも出来ねえアホどもが、偉そうにしてんじゃねえぞおらぁ!」
最後の怒声とともに、騎士は男の腹を蹴り上げた。鈍く響く奇怪な音に、若者は苦痛の声を上げる。
救いを求めるように……人垣に手を伸ばして。
「ぁ、ぅ……ぇ……」
「ああ!? 命乞いか? 聞こえねえよ!」
更にもう一度、領騎士は男を蹴る。確かに、男の声は声になっていなかった。
だが。ドギーには、彼が何と言ったのかわかっていた。わかってしまった。
――助けて。
彼はそう言った。それを理解した時には、もうドギーは何も考えていなかった。
人ごみを押しのけて、前に進もうとする。善意ではない。それをさせたのは善意ではなく、もっと純粋な……そう、怒りのように純粋な熱だった。
その機先を。
「――! ダメ!」
「……!?」
エリーに手を掴まれ、ドギーは思わずたじろいだ。
ハッとというよりぎょっとして、彼女を見やる。
なんで止めるの――その言葉は、だが彼女の表情を見て喉の奥に消えた。彼女は目を閉じている――何かに怯えるように、必死に。
その間に、騒ぎは終結していた。領騎士は気絶した若者に唾を吐き、ドギーたちとは逆の方向に去っていく。
人だかりは自然と彼らを避けた。慌てて転びながら離れようとする者もいる。その様に騎士たちは笑っていた。にやにやと、相手をいたぶるような眼で。
その姿が、人波の中に消えるまで見送ってから。
ようやく、ドギーは口を開いた。
「エリー。彼らはもう行ったわ」
「え? あ……ご、ごめんなさい! その、すみませんでした……」
掴んでいた手をパッと離して、慌てて頭を下げてくる。掴まれた手には、あざほどではないにしろ、赤く跡が残っていた。
それを彼女からは見えない位置に隠しながら、辺りを見回す。
人だかりは騎士の退散とともに解消し始めていた。恐怖と不満を呟く者、若者に近寄り安否を調べる者、知らんぷりをして歩き出す者。反応は様々だが、彼らは皆一様に怯えていた。
エリーだけではない。ここにいた全ての者が、彼らを心から恐れていた。
ぽつりと、ドギーはエリーに問いかけた。
「なんで、止めたの?」
責めるつもりはまったくない。そんな気にはなれなかった。特にエリーの顔を見れば。彼女は善意でドギーを止めたのだ。
問いかけた声よりも小さくか細い声で、エリーは答えた。
「あの人たちに逆らっちゃダメなんです。あの人たちは、私たちを殺していい権利を持っているから……」
「権利?」
理解できずに繰り返す。
カーライルとの停戦協定にも、その後に結ばれた講和条約にも、そんな条項は存在しないはずだった。カーライル人に殺戮の権利を与えるなどという条項は。
だがエリーは心の底から怯えていた。彼女はそれを信じて、ドギーを止めたのだ。
「私たちは、敗戦国の人間なんです。彼らは戦勝国の人間で……領騎士に逆らうと、どんな理由でも反逆罪に問われてしまう。私たちの意思がどうかなんて関係ない。あの人たちは……」
沈痛な呟きは一度、そこで途切れた。言葉が続かなかったのもあるだろうし、言葉を続けたくなかったのもあるだろう。
だからエリーがもう一度口を開いた時、話の向きは変わっていた。
「……領主様が来るまでは、もっとひどかったんです」
「……?」
「クライスが戦争から負けた直後に、あの人たちはフレインに来ました。その頃は……少しでもあの人たちの気分を害すると、それだけで人が殺されたんです。刃向った人は殺されて、助けようとした人も殺されて。たくさんの人が、理不尽に亡くなったんです……私の、父も」
怪訝に、自然と眉根が寄る。
ドギーが知るフレイン地方領主はそんな男ではない。彼女が語ったのは、本当にカラッゾ・フォン・アルタクロスのことか?
それを確かめようとする欲求は強かったが、今それをする気にもなれなかった。
ドギーは曖昧に首を振って、エリーに呟いた。
「……ごめんなさい。訊くべきじゃなかった」
「いえ、こちらこそ、すみませんでした。もっと早く、話しておくべきでした」
彼女はもう一度、ぺこりと頭を下げた。
健気な娘だ、とドギーは思う。言葉にこそしなかったが。ドギーは心の内で感謝を告げた。彼女が止めていなければ、自分は容易く死地に踏み込んでいたに違いない。
「そろそろ、行きましょうか」
エリーの声に頷いて、ドギーたちは歩き出した。言葉はない。
自然と、先行するエリーを追いかける形になった。
と、後ろにいるだろうクラウンが、彼女以外には聞こえないだろう声量で、囁いてくる。
「――何故奴らを止めようとした?」
彼ほど上手ではなかったが、ドギーも彼にしか聞こえぬ囁きを返した。
「止めちゃいけなかった? あなたは私を止めなかったじゃない」
「エリーが止めたから俺は動かなかった。彼女が止めなければ、俺が止めていた」
「……どうして?」
問いには答えずに、逆に訊く。
別に、真面目に問いかけたわけではない。戯言を挟んだのは、答えたくなかったからだった。
だが彼はそこまで察していたに違いない。
彼はこう言ってきた。
「カラッゾを殺すなら、目立つのは避けるべきだ。それはわかってるんだろ」
「そうね。だから無視するのが正しかった。あなたの言いたいことはわかる。ただ……奴らを許せないと思うのは、そんなに悪いこと?」
クラウンの返答は、彼にしては珍しく、ほんのわずかだけ遅れた。
半秒にも満たないほどの、ほんのわずか。その奇妙な沈黙を挟んで、彼はそれを呟いた。
「――まだ君は“ニコラエナ”のつもりでいるのか?」
「……!?」
肋骨の隙間から心臓を刺す激痛に、ドギーは息を詰まらせた。
驚愕か、怒りか、狼狽か。痛みとともに現れた思いが何なのかもわからずに、ハッと背後を振り向いた。
だがそこに、彼の姿はなかった。
死角を通っていったのだと気付いた頃には、彼はドギーの先を行っていた。内緒話ができる距離よりも遠ざかっている。
彼がどんなつもりでそれを言ったのか。それを確かめる機会を失って。だが止まり続けることも出来ず、ドギーは二人を追いかけた。