2-1 禍根、集まる
平穏を苦痛に感じない日はない。
本来であれば、何事もない日々というのは領主としては望ましいことのはずだったが。
カラッゾ・フォン・アルタクロスとしての意識は、常にそう主張する。
平穏は苦痛だ。
それは事件を望んでいるから、というわけではない。もっと根本的な理由で、彼は自分が平和に生きていていい人間だとは思っていなかった。
(つまりは……それが罪を背負うということなのだろうが)
皮肉に思う正午過ぎ。冷徹至極と恐れられるフレイン領主の政務館。
無人の執務室で、彼は吐きだそうとした息を呑みこんだ。責任というものがある。それを思えば、自分は軽々しくため息をつける身分ではない。
あるいは、そう――軽々しくため息をつける罪状ではない。
それを思えば、職務に忙殺される程度の罰は甘んじて受けるべきか。
デスクに置かれた書類の山には際限がない。領営農田の拡充や公共事業の発注、疫病の調査や税制の調整は当然領主の仕事だ。
だがそれだけでこの山ができるはずもない。
泥に埋もれるような心地で、彼は束の間、息を止めた。
山の大多数は領民からの陳情だ。大半は無視してもいいと思える半面、どうでもいいと思える愚痴こそがクリティカルな問題に発展することもある。
六年間、彼はそれと戦ってきた。戦士として生きてきた十数年の中で出会ったどんな敵よりも、よほど手強い敵だと感じる。
何故かといえば、敵が人間なら殺せるからだ。
政治的な問題は殺せない。だから飼い慣らす。問題が息絶えるその日まで。
止めた息を再開して、カラッゾは椅子から立ち上がった。
今日やらねばならぬ仕事に見切りをつけ、バルコニーに続く窓まで歩く。
彼はそこからフレインの街並みを見やった。執務室から覗くこの光景を、彼は六年間見つめてきた。
遠くから見れば平和に見える、この領を。
(そして窓に映る自分の顔を……か)
老け込んだものだ、と苦い思いで確認する。
それが何故苦いかといえば、何年前の自分と比べたかをわかっているからだ。
七年前だ。王を殺し、クライスを滅亡に導いたあの日の自分と。
選択肢はあれしかなかったと言うことはできる。敗戦の損害を少なくするためには、こうするしかなかったのだと。
そう思うたびに、彼はほぞをかんできた。言い訳に過ぎない――それも、自分を正当化するための。
それがわかってしまうから、カラッゾはこの七年間、快の感情によって笑った記憶が一度もなかった。
(いつか、断罪される日が来るのなら――)
と――都合のいい妄想を遮るように、ノックの音が響く。
来訪者の予定はない。だがこんな時に来るだろう人間に、心当たりがないでもなかった。
入れと声をかける。
開いたドアの先にいたのは、どこか卑屈な痩せ男――予想通りの顔だった。それに内心顔を歪める。
予想通りだが……会って面白い顔ではない。
その男。フレイン領騎士団の長、ジーリー・マクギリスは仰々しく一礼した後、手短に言ってきた。手荷物を彼に渡しながら。
「先日の罪人の裏取りについて、報告に参りました」
彼が渡してきたのは封書だった。カラッゾが領騎士団に命令したもので、内容は野盗の犯罪歴の調査だ。
先日とある領民の告発により騎警に逮捕され、その容疑の確認を急がせていた。
調査報告に目を通し、そしてうんざりとする。
報告書を丸めて放り捨て、カラッゾは苛立たしく呟いた。
「カーライル人の野盗か。最近はほとほと目に余るが。これで何件目だ? ……ジーリー」
うわ言のようだが、突きつけた言葉には棘がある。
ジーリーはカーライル人だ。カーライルがフレインを属領とした時に、置き土産としてこの地に残された――それは領騎士全員にも言えることだが。
クライスを監視するために残された彼らだが、今の彼らの上司はクライス人であるカラッゾだ。
それがジーリーにとって不満なのは知っている。
だがそれは億尾にも出さず、ジーリーはにやけ面のまま言ってみせた。
「そうですね……先月も含めれば、四件目かと」
「そうだな。毎月二件ペースでかれこれ半年だ。そのどれもが領騎士や騎警ではなく、領民の手によって逮捕された。こいつもか。いささか……そうだな。不愉快だ」
きっぱりと吐き捨てて、ジーリーの元へと音も静かに歩み寄る。
「騎警の行動を禁じていたそうだな。それも、私に無断でか。被害を思えば看過も出来ん。何か申し開きはあるか」
痩せぎすの敵国人を見下すように見下ろして、言う。殺意すら込めて。
だがジーリーはにべもない。彼はすっ呆けてみせた。
「いったい何のことですかな? 私は騎警には確かにこう命令しました。確たる証拠を見つけてから、容疑を固めて罪人を捕えろと。それで動けなかったのは騎警の怠慢でしょう」
何故私が責められねばならんのです? と。ジーリーは肩をすくめる。
誘われるように、彼も笑った。言い分はもっともだ。冤罪によって処罰される者が生まれる可能性を考慮すれば。
だが……やはり、不愉快だ。
彼は即座にジーリーの胸ぐらを掴みあげた。
「か、カラッゾ様!? 何をなさる――」
「いい加減にしとけよ悪党。さもなくば無能か? それで私を騙せると思ったか」
容赦はしない。狼狽える敵を両腕で宙につるし上げ、下から睨みつける。
「騎警からの陳情が何件か来ている。特定の野盗に対しては手を出すなという指示を受けたとな。貴様が放置させ、結果として領民に捕らえられた野盗の身元を何人か洗ったが、その全てがカーライル人だったというのはどういうことだろうな」
フレインは――いや、元クライス領はそのすべてがカーライルの属領となった。
力関係ではカーライルが絶対的に有利であり、それに逆らうということは死を意味する。
だがカーライル人はそれを勘違いしている。
屈辱とはこのことだ。呼吸が出来ず青ざめていくゲスに告げる。
「クライスは敗戦国だ。いいだろう、それは認めよう。カーライルに傅くのもだ。だが勘違いするな。協定は対等に結ばれた。クライス人とカーライル人に優劣はなく、クライスの民を敗残者と貶めてはならないとな。私がそう結ばせたんだ。それを忘れて怠慢を働くのであれば」
ジーリーを投げ捨てる。
そのまま殺してしまってもよかった。だが、そうはしなかった。いつかは後悔するだろう――予感を覚えながらも、カラッゾはただ言うだけに留めた。
「貴様を殺す。私はクライス人だが、位に関しては貴様より上だ。私が誰かを忘れるな」
痛々しい沈黙を挟んで、カラッゾはジーリーに背を向けた。
一日にわずかしかない休息の時間を不快に過ごしてしまった。この気分のまま、残務の処理にとりかからねばならない。
だがまだジーリーが残っていたことで、彼はデスクの椅子に座るのをやめた。
ジーリーの瞳には憤怒とも憎悪ともつかぬ仄暗い色が見える。だがそれ以外は完璧なまでに仕事用の顔だった。
「もう一件、報告したいことがございます……“ニコラエナ”の件についてですが」
「放っておけ」
カラッゾは即答した。
怪訝に顔をしかめるジーリーに、言葉を付け足す。
「どうせ偽者だ。王統侮辱罪は廃止された以上、処罰しようにも法がない。それに、その“ニコラエナ”なる女がしたのはせいぜい野盗狩りだ。何を理由に罰を与える?」
「カーライルへの反逆行為として告発できませんか」
「治安維持に協力するのが反逆か? だとしたら、この国も長くはないだろうな」
これ以上つまらない話をされる前に、ジーリーに退室を命じた。
彼は一礼すると、足音も静かに去っていった。
ただこう吐き捨てるのも、忘れてはいかなかった。
「祖国を売った賊臣風情が、つけあがりおって」
「…………」
返す言葉もない。不愉快さが彼を苦笑させた。
口さがない者の侮蔑だが、事実ではある。
カラッゾはデスクの椅子に座ると、書類を一枚手に取った。陳情などに紛れ込ませておいた、彼の手の者による一枚の報告書である。
今更読むまでもないことしか書いていない。
だが、とも思う。
(私は七年待ちました……カーライルに敗北を喫してからの七年を。あなたは、どうですか? 私を殺したいほど憎んでいますか? 私を殺して……その先まで歩めるほどに?)
その紙には、こう記されていた――“ニコラエナ、ならびにその一党について”
ニコラエナ・ファルク・クライス。彼は彼女を、ずっと待っていた。
この七年間、ずっと。




