6-6
呆然と古い名で呼ぶ仇敵に、ドギーは思わず苦笑してしまった。
ニコラエナ。ニコラエナ・ファルク・クライス。ただそうというだけの名前。
確かに、かつてそれは自分のものだった。七年前まで自分は、確かにクライス王国のお姫様だった。何も知らずに安穏と、ただ生きていた頃の名前だ。
今は違う名前があって、“ニコラエナ”なる女は別にいる。それはもう、彼女の名前ではなかった。
だから、ドギーは笑ってそれを否定した。
「人違いよ」
愕然と見開かれたその眼は、ありありとこう語っている――嘘だ、と。
カラッゾは彼女が“ニコラエナ”であると確信している。それは正しい。思い知ってほしいとさえ思う。
だが、もうその名前は違うのだ。
同じ笑みのまま、付け足した。
「ニコラエナなら、今頃あそこで戦ってるんでしょう。それはもう、私の名前じゃない」
「…………」
沈黙は、予想よりははるかに長かった。
狼狽えて、問いかけてくると思った時間を、だが彼は無言で見つめてくるだけで。
窓の外から聞こえてくる喧騒だけが、今そこにある全ての音だった。
広場では、ニコラエナ達が自分たちの未来のために戦っている。遠くからでも争う姿はよく見えた。完全武装の領騎士を、ニコラエナと何十人もの男たちが包囲している。
その光景を、ドギーは遠くから見つめていた。
距離ではない。彼女に遠いと感じさせたのは、彼らが見ているものと、自分が見ているものがハッキリと違うことだった。
(彼らは前を見ている。未来を。けれど、私は過去を見ている……この七年間、ずっと。私は……私の過去に区切りをつけるためだけに、この七年を生きてきた)
その違いが、ドギーには眩しくて、彼女からは遠かった。
こんな生き方しかできない自分を、父は草葉の陰で嘆いているに違いない……
「あなたは……」
ぽつりと聞こえた呟きに、ドギーは視線を戻した。その時には既に、彼の驚愕は消えている。
その顔は不思議と、希望を抱いているようにも――その逆に、全てに絶望してしまったかのようにも見える。
一つだけ言えるのは、それが奇妙な、見たこともない表情ということだった。
その顔で、彼は同じ言葉を繰り返した。
「申し訳ありません。私は……あなたのために、ここで殺されるわけにはいかないのです」
今度は何も、言い返したりはしなかった。
わかっているつもりだった。彼がここで死ぬことの方が、都合が悪いということは。そして彼が潔く死ぬつもりであることも。
この男は全てを失ったのだ。既にこの男に戦う理由はない。見逃しても構わない。どうせ、彼は死ぬつもりなのだから。
それは考えるまでもなくわかっていた。わかっていたが。
「――一度始めたら、もう止まれないの」
それはあの女に――ニコラエナに告げた言葉だった。
偽者であろうと、あの女は“ニコラエナ”を始めてしまった。それと同じように。
ドギーもまた、もう立ち止まることはできなくなっていた。
彼女はここまで来てしまった。理性は無意味だと叫んでいても、心はそれを納得しない。
二つのナイフを引き抜き、構えた。
カラッゾも、答えるように刃を抜いている。
もう言葉は必要ない。互いに譲れぬものがある。これはただそれだけのことだからだ。
それでも最後に、彼女は厳かに告げた。
「カラッゾ・フォン・アルタクロス。私はドギー。負け犬のように惨めな女。父ファーレンを殺した、あなたを死んでも許さない」
「――受けて立ちましょう」
答える声を、聞くが早いか。彼女は駆け出した。
剣のリーチにナイフで立ち向かう術はない。待つ構えを見せたカラッゾに、ドギーは左のナイフを放った。
牽制の一撃だが、敵はナイフに鋼線が巻き付いているのを知っている。軌道を見切って鋼線の範囲からも抜けると、カラッゾは滑るようにして移動する。フェイントを混ぜた奇妙な歩法だが恐ろしく速い。
開いた左手に投剣を滑り込ませながら、ドギーもまた受けには回らない。
飛び出す相手の動きに合わせて彼女も踏み込んだ。先に敵の間合いに入るのはこちらだ。策がいる――敵よりも速く攻撃するためには。
左から右に腕を振り下して投剣を放つ。その動作に連動して、鋼線によってナイフの軌道を変えた。強く引いて、後頭部にナイフの柄をかすらせようとする。
致命打ではなく動揺を誘う手だが、ばれていた。腕の動きから変化するナイフの軌道を見切り、投剣だけを叩き落して踏み込んでくる。その動きは、ナイフが戻ってくるよりも早い。
踏み込まれ、一瞬の――永遠とも思える交錯。
その距離は敵の間合いだった。
下段から振り上げる一撃は容赦なく速い。何十年を剣とともに生きた男の一撃、その軌道にドギーはナイフを滑らせた。
剣筋は綺麗であればあるほど予測を裏切らない。受け止めることはせずに迎合し、弾いて軌道を逸らした。
その隙に、ドギーは更に踏み込んだ。触れ合うほどの距離にあって、だが一撃はしない――する余裕すらなくもう一歩前へ――カラッゾを通り過ぎるように跳ぶ。
背後に触れた風の感触で、彼が追撃していたことを悟った。踊るようなハーフステップで。
彼は既に振り向いて、こちらを捉えている。ドギーもまた。その場で舞うように回転した。
一挙動で右のナイフを放ち左のナイフを回収する。追おうとするカラッゾの動きをそれで阻害し、その隙にドギーは二つの投剣を引き抜いた。垂直に振り下ろし、頭部と足とを時間差で狙う。
既にナイフを払うために足を止めていた男は、それを避けることができない――
だから男は投剣二つの軌道を見切って、一振りでそれを叩き落した。
耳を打つ金属音が二つ。反射神経が尋常ではない。アルタクロス家が騎士の家系であることを思い出す。戦闘能力は本物だ。
たとえここ数年、現役を退いていたとしても。
(だけど……!!)
見つけた隙に、ドギーは体を滑り込ませた。
左のナイフを放つが狙いはカラッゾではない。投剣を叩き落した剣が上がる先、そのわずか上にナイフを走らせる。剣の軌道上に置かれた鋼線は――触れた刃を起点として剣に絡みつく。
武器を無力化してドギーは踏み込んだ。
弾かれて落ちていた右のナイフを拾い、体を跳ね上げる。
真下から真上へ。がら空きの心臓への突き刺す一撃。
――その一瞬。カラッゾは絡め取られた剣から手を離した。
「……!?」
こちらの次撃を読み、動きを合わせてくる。彼はナイフを手で払うと、ドギーのみぞおちに拳を突き刺した。
突き抜ける衝撃が彼女の呼吸を止める。その痛みに逆らわず、彼女はそのまま吹き飛ばされることで距離を取った。
合わせて放ったナイフの鋼線で、進路を阻むことで次撃を阻止し、敵から離れる。
その鋼線を、彼は剣で一撃した。いつの間に彼が剣を拾ったのか、彼女はそれを見ていなかったが。鋼鉄の糸が容易くぷつんと音を立てて切断される。
糸を失って、ナイフは的外れの場所に飛んだ。
居場所だけを入れ替えて、最初と同じ距離で、睨み合う。
武器を一本失って、先ほどよりも不利な状況。左のナイフを手繰り寄せて、みぞおちの痛みに喘ぎながら、ドギーは顔を上げた。
戦闘能力が尋常ではない。剣に全てを捧げてきた男の強みを思い知る。クラウンとはまた違う強さだった。
彼の能力は全てが殺人のためにある。この男の力は、それとは違う。彼の力は、戦うためのものだった。
目の前の敵を薙ぎ払う、そのための正道な強さだった。
勝てないかもしれない――それを思い知らされる。
それでも、ドギーはナイフを構え直した。身じろぎして、外套に残された投剣の数を確認する。残りはもう二本しかない。投剣は細身の非力さを補う工夫だが、数がなければ意味がない。
(それでも……それでも、私はやり遂げる。誰の為でもない……私のために!)
ナイフを失った右手に投剣二刀を渡して、息を整える。
彼は律儀に、そこで待っていた。襲い掛かる猶予はあったはずだが。また感情の読めない奇妙な顔をして、彼女を見ている。
何度か、彼は口を開こうとしていた。だが言葉にはならず、閉じては、開いてを繰り返す。
彼が何かを言いたかったのは間違いない。だが、彼は結局何も言わなかった。何も言わず――構えたこちらを見て、今度は自分から踏み込んでくる。
今度は、ドギーは待ち構えた。もう使える武器がほとんどない。どうしたところで相手の方が強くて、速い。なら、
(攻撃を避けて……その一瞬で、止めを刺す!)
踏み込んでくる敵。剣は上段、刺突の構え。踏み込みの一歩に合わせ、ドギーもまた敵へ踏み出した。
身をよじり、刃の軌道から逃れる――
そして訪れた衝撃に、ドギーは意識を失いかけた。
何をされたのかがわからない。ただ痛みと衝撃に吹き飛ばされ、気絶しかけたことだけはわかっていた。
物理的な一撃に飛ばされて、背中から倒れ込んだのは間違いない。肺から空気が漏れ、彼女は窒息を味わった。
息が止まり、痛みにあえぎ、それでも、彼女は自分が気絶しないよう、痛みにすがって意識を保たせた。床に倒れ込んでいる。痛みは頭と腹からだ。二発殴られた? それとも蹴られたのか? それもわからない。
意識があっても、体は痛みに動かない。吐き気にすら似た全身の気だるさに、彼女はそれでも床を探した。平衡感覚が狂っている。
自分が今、どんな状態にあるのかがわからない……
(私じゃ、ダメなの……?)
痛みに視界が、ぐにゃぐにゃに歪んでいた。
壊れてしまったような世界の中で、ドギーは初めて、父に向かって懇願した。助けて、と。父を探すように手を伸ばす。だが、何も掴めない。
掴めるはずもない……
「――それで、終わりなのですか」
――耳朶を打つ。父を殺した、男の声。
「憎いからここまで来たんでしょう。私を殺すためだけに、この七年間を全て捧げて。それなのに、あなたはもう終わりなのですか。死んでも許さないと言ったでしょう。それも全て、嘘なのですか?」
黙れ、と呟いたが。声にはならなかった。
「立ちなさい。私はあなたから全てを奪った! それでもまだ、私は無傷でここにいる――それがあなたの望みですか。私に殴られて無様に折れる、それがあなたの復讐ですか!」
(だま、れ――)
この男を黙らせなければならない。そのためには立ち上がらなければならない。震える指で、床を探す。絨毯のような感触に、ドギーはそれを握りしめた。
右手で掴み、這いずるように左手を伸ばす――ナイフを掴むために。
「立ちなさい! でなければ――何のために、あなたは私の前に来た!?」
(――黙れ――!!)
殺意をもう一度得るために。掴んで――彼女は立ち上がった。
震える足に体が揺れる。口の中が切れたのか、血の味が滲んだ。朦朧とした意識をどうにかつなぎ合わせ、ドギーはその敵を正面から見据えた。
体はもう、ろくに動かない。限界が近いのはわかっていた。だから全神経を注いで、今倒れないことだけに集中する。
傷みに悶え眠りにつきたい衝動を、意思だけで彼女は叩き伏せた。
父の仇はそこにいる。変わらぬ距離から、彼女を見ている。惨めにもがく、負け犬の女を。
カラッゾ・フォン・アルタクロス。憎き敵の名を噛み締める。
その男を殺すためだけに、今まで生きた九年を捨てた。
その男を殺すためだけに、これまで七年間を生きた。
その男を殺すためだけに、自分の名前さえ捨てた……
(私は、ドギー……私、は――)
ドギーは踏み出した。
最初よりも明らかに遅く、だが意識だけははるかに鋭く。
同じように、男はまた待ち受けている。上段に構える、刺突の体制。
避けられないのはわかっていた。その一撃を放たれていたのなら。だが彼女は何一つ構いはしなかった。死の突撃のその最中、ドギーはナイフすら捨てた。
捨てるように、カラッゾに投げつけて――ただ、彼女は走る。
突き出された剣に、投げたナイフが軽く触れた。それがわずかに――剣の軌道をずらす。
頬に突風を感じた。一筋の鋭い風を。
だがドギーは見ていなかった。
今この瞬間に自分は死んだのかもしれない。もしそうだったとしても、彼女は何も考えていなかった。
真っ白に染まった頭の中には、二つのようで、たった一つの回答がある。
自分は今、相手の懐にいる。そして。
(私は“ドギー”――!!)
――あなたを殺す、そのためだけに生まれた猟犬――
その場で全身を跳ね上げた。
獣のように下から上へ。まさしく犬のように跳びかかる。ドギーは敵にしがみついた。
突然の攻撃ですらない行動に、カラッゾは一瞬だがたじろいだ。
これでもう逃がさない。
だから、ドギーは。
――仇の首に、獣のごとく食らいついた。
「――――っ!?」
声にならない絶叫は、耳ではなく口で感じた。
皮膚が裂け、肉をちぎる度、ドギーはその感触を味わった。血の味も。だがそれは決しておぞましいものではなく、心地よいものだと彼女は信じて疑わなかった。
全身をぬらりと赤い色が濡らしていく。だがそれだけだ。
獣は食らいついたなら、殺しきるまで離さない。
(お父様……お父様……!)
この瞬間を、七年も待った。ただこの一瞬を。
ただこの絶叫を聞くためだけの数秒を。そのためだけに七年も待った。
断末魔も、遺言も、何一つ許さない。牙を突き立てるこの瞬間を。
七年間の全ての終わりを、ドギーは血にまみれて感じていた。
力を失った、カラッゾの体が倒れていく。だがもう離れるほどの力もなく、ドギーはカラッゾと一緒に倒れ込んだ。
痛みは感じなかった――まるで、誰かが彼女を受け止めたかのように。
そしてもう、二度と……動かない。
ゆっくりと、ドギーはカラッゾの首から顔を離した。
血まみれの男の顔を――死に顔を、見つめる。
驚愕か、恐怖か。怒りでも別に構わない。何でもよかった。最後に悪感情を抱かせられたのなら。父の仇に最後に与えた物を思えば。
だが。予想していたものと違って、その男は目を閉じていた。
「……あなたは、ずるいわ」
安らかに目を閉じて……受け入れるように。
わかっていた。彼は自分から死を受け入れた。最期の一撃を、彼がわざと外したのだと。
それがドギーにはわかっていたから。
「あなたは、ずるいわ……一人だけ、最後に満足して死ぬなんて……!」
あふれる涙を止めることも出来ず、彼女は彼の体の上にくずおれて嗚咽した。




