1-2
「――ニコラエナ様がいてくださればなあ」
(…………?)
それがあまりにも奇妙な発言だったので――
身じろぎというには少々派手な音を立てて、彼女は馬車に繋がれた荷車から体を起こした。
御者台の男は誰に聞かせるつもりもない言葉を、空に向かって放っている。
呟きというよりは、愚痴だろう。取り留めもなく、意味もないような。
ぽかんと呆けて、その男の顔を見る。
彼は今、なんと言った?
それを問いただす前に男は気づいて、慌てたように言ってきた。
「ああ、いや、すまん。あんたらに頼んだのにこんなこと言うのは失礼だったな。ただ――」
ただ――なんだと言いたいのか。おそらくは男も考えていなかったに違いない。
言い訳がそれ以上続く前に、彼女はそれを手で制した。どうでもいいことは聞かないに限る。
だからというわけでもなかったが。代わりに彼女はぽつりと訊いた。
「ニコラエナ様って?」
問われて、男は奇妙な顔をした。
知らないのか? と意外そうでもあるし、自慢してやりたいというような表情でもある。
その顔で彼が言ってきたのは、やはり奇妙なことだった。
「ニコラエナ・ファルク・クライス様さ」
「……彼女は死んだはずでしょう? クライスが滅びた日に、彼女の離宮で」
「どうかな。当時から噂はあったよ。“ファーレン王は戦死なされたのではなく、幕臣の愚かな野望により謀殺された。ニコラエナ様は彼らに殺される前に逃げ出したのだ”とかな。俺は、その噂が本当だったと思ってる」
「なぜ?」
手短に問いかける。だが、問いかけずとも男は答えたに違いない。
彼はしたり顔で、にやりと笑ってこう言った。
「本物を見たからさ」
「……本物を?」
意味がわからず、彼女は茫然と男を見た。
そんな彼女を満足そうに見つめて、彼は頷く。
「ああ。あの方は今フレインにおられる。この辺りを荒らす野盗を退治して回ってるんだ。半年前から噂されるようになってね。この辺りじゃ有名な話さ」
この辺りと言われて、彼女は辺りを見回した。
彼が示したのはここではなく、もっと大きな範囲――このフレイン地方のことだったに違いないが。
馬車は今、森の中にある街道を走っている。
バスクアッド森林を半分に裂くこの街道は、フレイン地方の都町フレイン――ややこしいが地方名と同じ名前――と王都を繋ぐ主要な道だ。
目的地はそこまで遠くはないはずだが、手持無沙汰に耐え切れず、彼女は男に問いかけた。
「誰か、本物かどうか確かめたの?」
馬鹿げた質問だったに違いないと思ったのは、振り返った男がぽかんとしたからだった。
「確かめるって?」
「…………」
「噂通りの銀の御髪に、透き通るような青の瞳、息を呑むほど美しいお姿。崇高な意思と確かな実行力。これだけ揃ってれば十分じゃないか?」
他に何が必要なんだ? と男はおどけてみせる。
気に食わないが反論の無意味さを悟って、彼女は憮然と黙り込んだ。
だがそんなこちらの様子に、男が気づいた様子もない。
語る声音は饒舌で、熱がある。
「クライスがカーライルに滅ぼされて、七年は経ったのか。あの時はもう世界の終わりかとも思ったもんだが、まあ俺たちはどうにか生きている。カーライルのお情けでな。だが、だからって限度ってもんがある。ニコラエナ様は、そんな現状を変えるべく立ち上がられたそうだ」
「…………」
「興味ねえか。まあ、旅人にとっちゃあ、そうかもなあ」
沈黙を勘違いして、男は落胆したような声を上げる。
だが実際のところ、彼女は興味がなかったわけではない。
何も言うことを思いつかなかっただけだった。
「にしても、なんだったか。あんた、“ドギー(犬みたいな女)”っつったか?」
訊かれ、彼女――ドギーはわずかに小首を傾げた。
言葉の代わりに“それが何か?”と態度で尋ねる。何を言われるか、予想はついていたが。
案の定、振り向いた彼の顔には不満があった。
「明らかに嘘だってわかる偽名を名乗るの、やめてくんねえか。あんたを信じたいのはやまやまなんだが、すんげえ不安になる。本当に信じていいんだよな?」
彼の言い分はもっともだ。
普通に考えれば狂人だ――犬みたいな女などと名乗る人間は。
だが涼しい顔して、彼女は大げさに肩をすくめた。
「それを言うのも、今更だと思わない?」
「逃亡中の犯罪者だってんなら、逮捕しなきゃならねえんだ。俺の仕事は言ったよな?」
「わかってるわ。お仕事ズルけてる“騎警”のアルフ、でしょ」
「その言い方、メチャクチャ棘を感じるぜ」
思わず半眼で彼――アルフがうめく。そんな彼に、ドギーはクスと笑ってみせた。
「大丈夫よ。別に、私は悪いことなんてしてないもの」
「…………」
彼は無言のままだったが、顔はこう言っていた。
“それが納得できねえから訊いたんだよ”。
そこでまた、話が途切れる。アルフも視線を目的地に続く前方へと向ける。
しばらく無言で、馬車は森の中の街道を走る
が。
「――そろそろかな」
「……!?」
唐突に混じった新しい声に、アルフは驚いたようだった。バッと振り向いてくる。
それにつられてというわけでもなかったが、ドギーも声の方を見やった。
黒髪黒目の、長身痩躯。黒尽くめの青年が、音もなく立ち上がっている。
彼はぼんやりとした顔で、森の先に続く道を見つめていた。
先ほどからずっとドギーの隣に座っていたのだが、アルフからは忘れられていたらしい。
街を出てから一言も喋らなかったせいというのもあるが、彼は時折、人の意識から忽然と消える。
影が薄いというわけでなく、そういう技術だそうだが。
何が限界か――二人の駄弁りを聞くことではないだろう、たぶん――悟って、ドギーはため息をついた。
彼は口数が少なすぎる。
ドギーは言葉を補足した。
「馬車、止めて。そろそろ音で警戒されるかもしれない。ここから先は歩いて行くわ」
言い切る前に連れ――クラウンは荷台から飛び降りていた。
馬車はボロの荷車を引きずっているため、急いでいても速度は遅く危険もないが。
止まるまで待てないというのは、いかにもこの男らしかった。
馬車が止まってから、ドギーも荷台から飛び降りた。
御者台に近づいて、呟く。
「仕事の確認をするわ。私たちは、野盗に誘拐された少女を連れ戻す。野盗の居場所はこの先にある宿で間違いないのよね?」
「ああ。あの宿が連中の拠点にされてるのは、この辺りじゃ有名な話でね。なのに領騎士団は俺たちを――騎警を動かさない。むしろ徹底して無視しろとまで命じてる」
「人が死んでるって話もあるのに?」
「ああ。噂じゃ、奴らは野盗のフリをした領騎士で、だから奴らは無視させてるんだって言われてる。本当かもな。奴らならそういうこともやりかねない」
アルフは苛立たしく吐き捨てる。そこにある怒りを隠そうともしない。
そして落ち込むように顔を伏せると、こう付け足した。
「すまねえな。本当は、俺が行くべきなんだけどな」
「構わないわ。その分報酬はもらうし。面倒は根無し草に任せればいい」
だから自分たちが雇われたのだ。
肩をすくめると、彼はもう一度「すまねえ」と頭を下げた。
無力に顔を曇らせるアルフに、ドギーは気楽に告げた。
「一時間待って、それでも私たちが帰ってこなかったら……その時は、死んだと思って帰って」
「……エリーがか?」
言われてドギーは苦笑した。エリーとはさらわれた少女の名前らしいが。
言葉が足りなかったのを自覚して、ドギーは首を横に振った。
「私たちが、よ。もしその子が死んじゃってても、遺体を置き去りにはできないでしょ?」
シニカルに微笑んで、ドギーは歩き出した。
遺体は必要だ。たとえ死に目に会えなかったとしても。
死者と別れを済ませるのなら。
(それが出来なかったから……私の想いは膿んでいるわけね)
クラウンは既に先を歩いている。無用な考えは振り払い、ドギーは彼の背を追った。