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(……都合のいい話よね)
ニコラエナの部屋を出て――最初に脳裏に浮かんできた言葉が、それだった。
都合のいい話としか言いようがない。本物のニコラエナが、偽物のニコラエナを責め立てていたのだから。
本来自分が担うべき苦労を、自分は全て彼女に背負わせたのだ。
許されないことをしているのは彼女ではない。本当に許されないのは自分の方だった。
(くだらないワガママ、か)
彼女を傷つけた、自分の言葉を思い出す。
ひどい話だ。それを言うのなら、復讐のために王族を名乗らないことだってくだらないワガママだ。
自嘲を浮かべて、ドギーはすぐそばの壁にもたれかかった。自分の力だけで立っているのが辛かった。
だが一度背中を預ければもう力も入らず、彼女はずるずると床に座り込んだ。
膝を抱えて、小さくなる。
惨めな気分だった。あの娘は高潔だ。たとえ嘘があったとしても、悪を倒すために立ち上がったのだから。
対する自分はどうだろう? あの娘を怒鳴る資格があっただろうか。あの娘に逃げ出すななどと言う資格があっただろうか。
(……そんなものはない。わかってるんでしょう?)
惨めな気持ちにさせるのはそれだった。自分は彼女の善意に付け込んだのだ。彼女の思いを踏みにじり、利用している。
気落ちして、ドギーは膝に頭をうずめて囁いた。
「……卑しい女よね、私」
「誰も彼もがそんなものだろう」
相槌は唐突に訪れたが、ドギーは顔を上げる気にもなれなかった。
聞き慣れた声だ。間違えるはずもない。心配はしていなかった――というのは嘘だとしても。
彼はいつもの淡々とした口調で、いつものように言ってきた。
「領騎士の方針が変わったようだ。明日の処刑は実行される。彼女をおびき寄せるために」
「…………そう」
それを聞いて、ドギーは静かに息を吐いた。もうできることはないのだと、彼女はそれをため息とともに認めた。もう待つしかできることはない。
だから、というわけでもなかったのかもしれないが。いつか聞こうと思っていたことを、ドギーは今更思い出していた。この七年間聞こうとして、結局今の今まで聞けなかったことだ。
ドギーは、それを聞くのは今しかないと思った。何故そう思ったのかはわからないが。
選ぶほどの言葉もなく、ドギーは率直にそれを聞いた。
「どうして、あなたは私を助けてくれるの?」
あの燃えた城で、父は彼に命令した。娘を守れと。以来、彼はそれを続けている。彼は見返りを求めなかった。対価として得るものは何もないのに、それでも自分を助けてくれる。
もう“ニコラエナ”ではない自分をだ。
もうファーレンの娘ではない……自分をだ。
彼女はわずかに顔を上げた。元宮廷道化のその男は、当然のように彼女の目の前に立っている。
「君は、そういうことを訊いてこないものだと思っていた。弱気か?」
「訊きたくなったの。私にも……確かめたいときくらいある」
言いながら、彼女は彼を見上げた。距離にして五十センチほどか。その距離を隔てて、彼はドギーを見下ろしている。
今にして思えば、この距離をそれ以上彼が詰めたことはなかったかもしれない。
七年経っても、距離の変わらない隔てりがある。それを近いとは思えない。踏み込めばすぐ縮まるはずの距離だとしても。
手を伸ばせば触れられるはずの、だがあまりに遠く離れた距離。
その先から。彼は囁くように言ってきた。
「理由なんてない。俺がそうしたいからそうしている。それだけだ」
「“それだけ”で命を懸けられるはずがない。私にだってそれくらいわかる。なんで――」
「――俺に“なんで”とは聞くな」
遮って、彼は否定した。
その声が何かおかしかったわけではない。声量も、声質も。なんら普段と変わらない、それはただの彼の声だった。
だがそれでも感じた奇妙な違和感に、ドギーは改めて彼を見た。
そこには変わらず、読み取れるはずのない無表情があるだけだ――
「君の父親にも同じことを言った。俺になんで、とは聞くな。そんなもの、俺にも答えられない。俺がしたいからそうしている、それ以上を俺は言葉に出来ない」
いや……本当に読み取れないか? その顔は本当にいつもと同じか?
笑わない頬。喋る以外に開かれることのない唇。冷たく光る、闇のように深い黒の瞳……
ふと、彼女はその顔を知っているような気がした。それがどこで見た顔なのかも。
あの世界が焼けた日。あの時には、彼女は理解も出来ずに呆然と彼を見ていただけだった。
その顔は――確かにあの日、彼が見せた顔だった。
「あの日、俺は君に選べと言った。そうして君は“こちら”を選んだ。ならば俺はそれを叶える。俺の命を懸けてでも」
「…………」
「そうすることしか、俺にはできない」
それはただ、それだけの言葉だったに違いない。
だが、初めてドギーは彼の心境を見抜いた気がした。
確かめるように、問いかける。
「……責任を感じてる?」
「どうかな。そうかもしれない。俺が促さなければ、君は違う道を選んだかもしれない」
それがまるで、懺悔のように聞こえてしまったから――
彼女は、ぷっと吹きだしてしまった。この男にそんなものは似合わない。なんせ、悪魔のような男だ。
悪魔も、そして道化も。きっと神には祈るまい。
だから、彼女はこう呟いた。
「……ありがとう」
告げて、彼女は頭を伏せた。
どう言えばいいのか――胸の内に生まれたその思いは、どうにも言葉にできそうになかった。だからそれは形にはせず、ドギーはその場で目を閉じた。
疲れを思い出したのだ。結局、今日は一睡もしていない。クラウンが帰ってきたことで気が緩んでしまった。もう、起きていられないだろう……
眠ってしまう前に。彼女はこれだけ、呟いた。
「……明日はお願いね」
「ああ。君を見届ける」




