5-4
なんで泣いたのだろう――
その問いかけが誰から誰に発せられたものかもわからないまま、彼女はその声を聞いていた。
なんで泣いたのだろう。澄んだ、少女の声が問う。銀髪の、青い瞳の少女。自分によく似た女の子。十歳くらいの少女は、ただ呆けて聞いてくる。
なんで泣いているの?
(……なんで?)
自分に聞いているのだと、それでようやく気付いた。泣いているのは自分だ。なんで泣いているのだろう。
目の前にいる少女と同じ問いかけを、彼女は呟いた。なんで泣いているの?
わからない。そもそも、彼女は泣くのをやめたはずだった。
六年前のあの日、燃え盛る炎は家族を焼いた。
住んでいた家は容易く崩れ、炎と灰の中に、彼女の家族は埋もれて死んだ。その時には泣いた。今のように、延々と。毎日のように、泣き続けた。
そうして今また、泣いている。あれだけ泣き続けたのに、涙の止め方を彼女は知らなかった。いつも夜になると泣いて、泣いて、泣き疲れて、眠る。そんな生活を続けてきたからだ。
そんな彼女に、少女は囁く。
なんで泣いているの? どうしてあなたが泣いてるの?
――全部、あなたのせいなのに。
「…………っ!」
痛みが。
その弾劾に体がきしんで、痛みがレキを夢から醒まさせた。
少女の姿はもうどこにもない。それが幼い頃の自分の姿だと気づいた頃には、レキは先ほど見た夢のことをほとんど思い出せなくなっていた。
曖昧でおぼろげで、その少女と自分がいたということしか思い出せない。
なんで今更昔の自分を思い出したのか、それはわからなかったが。
(……だからどうしたっていうのさ……?)
どうでもいいことなのだろう。それ以外に何も思いつかず、レキは胸中で弱々しく呻いた。
全身が鉛のように重かった。何もしようと思えない。それと同じくらい、何もできると思えない。
息をするのも億劫で、レキは自分の体が自分のものではなくなったような、奇妙な倦怠感を味わっていた。
(……ここは、どこ?)
しばらくして、ようやくそれを思いついた。
辺りは暗い……それで夜だと思った。柔らかいベッドに寝ているらしい。
首だけどうにか動かして辺りを見たが、どうということもないただの部屋だった。
見覚えのない、どこかの部屋。こんな場所に来た記憶はない。
もしかしたら、まだ自分は夢の中にいるのかもしれない。どこからが夢で、どこからが夢じゃないのか。その境界さえ見失って、レキはただ眼を閉じた。
眠ってしまえればいいと思った――もし叶うのなら、そのまま死んでしまえばいいと。
だから唐突に聞こえてきたその声が、死神のものだとレキは一切疑わなかった。
「おはよう。もう夜だけど……気分はどう?」
目を開ければ、やはり死神が顔を覗き込んでいた。
何故その女を死神と思ったか、彼女はすぐにそれに気づいた。
その女は自分と同じ顔をしていたからだ。同じ髪の色、同じ青の瞳……同じ顔の形。
その女をしばし、見とれるように見つめて――
「……ああ、あんたか」
不意に、彼女は全てを思い出していた。
頭をがんがんと刺激する痛みに、記憶がかきまぜられる。不快感だが、それはある意味心地よい感覚でもあった。激しい痛みが、このまま自分を殺してくれると思ったからか。
だが意識の覚醒とともに、痛みは奥へと引いていった。
それに失望すら感じながら、レキはどうにか体を起こした。
それに合わせて女は彼女から距離を取った。椅子から立ち上がり、ベッドの正面へ、彼女に正対するように回り込む。
闇夜に溶け込むようにして立つその女を、不思議と彼女は美しいと感じた――自分の顔を見ても、そう思うことなど全くないのに。
その女と、ベッドの中の自分とを見比べて。出来の悪い皮肉に、彼女はぷっと噴出した。
「……どうしたの?」
それを見咎めてか、不快に女は眉を上げたが。
「ああ、いや。悪い……ふと、思っちゃってさ」
「……?」
「あたしは、やっぱり偽者だったんだなって」
当然のことだった。そんなこと、今更自分で言うまでもなく。
レキはニコラエナ・ファルク・クライスではない。そんな当たり前のことが、滑稽なほど胸に突き刺さった。
自分がしでかしたことを、覚えている。その結果として、レキは五人を無駄死にさせてしまったのだ。
復讐というお題目を大義で覆い隠して、それが彼らを死に追いやった。
「あんたの言うとおりだったよ。あたしの愚かさが、皆を死なせちまった。あたしの独りよがりな願い事が、皆を殺させたんだ。それの責任も取れさえしない。どうやって取ればいいのかもわからない。あたしは――あたし、は……」
「…………」
「あたしは……失敗したんだ」
そして、全てが終わったのだ。
レキの復讐も……偽者の革命も。失敗し、もう二度とレキは立ち上がれない。涙はもう流れなかった――泣くことですら、もう自分はできないのだろう。
女は無言で彼女を睨む。その眼を見続けることが怖くて、レキはその眼から逃げ出した。
視線を逸らして、うなだれる。その先にあった自分の手を、彼女は見た。
握りしめるほどの力も入らない、震えたままの小さな手のひら。こんな手で、フレインを救おうと思った。それは嘘じゃない。
フレインのために戦おうとした、そのすべてが嘘ではない。
だけど、何の意味もなかった。
――俺たちは、アンタのせいで殺されるんだ!
不意に響いた、仲間の遺言に体が強張る。その声には偽者への、怒りと憎悪があった。
彼の弾劾は正しい。その結果として、彼は死んでしまった。償おうにも、償えない。誰に謝ればいいのかもわからないまま、それでも彼女は辞儀するように頭を伏せた。
それを許さない、声。
「――だからなんだって言いたいの」
ハッと顔を上げれば、その女はまた歩き始めていた。元いた場所へ――レキのベッドの傍らへ。ただしその女は、先ほどのように椅子に座りはしなかった。
高みから見下すように、だが無表情で彼女は言った。
「そうね。確かにあなたは失敗したわね。宿の主人も、あなたの仲間も、確かに彼らに殺された。計画とか予想とかとはまったく違った結果でしょうよ。だからやめますって言うつもり? そんなのが許されると、本当に思ってるの」
そこに一切の容赦はない。その女は冷たい言葉でレキを糾弾した。
「あなたはニコラエナを名乗って、フレインのために闘うと宣言した。それはもう、どうやったところで消えない事実よ。それを、たかが仲間が五人殺された程度で――」
「……たかが?」
その一言を聞きとがめて。レキはキッと女を睨んだ。
「たかがって言ったのか、お前――!」
「そう。たかが五人」
そしてその女の眼光の鋭さに、息が詰まった。
薄闇の中、見下ろす女と目が合う。態度にも顔にも、その女の感情が現れてはいないが。その女の眼だけは……燃えるような怒りを秘めている。
その女はそれを、端的な言葉で突きつけた。
「あなたが既に狂わせただろう人生の数に比べたら、ほんのわずかな数でしかない」
ただそれだけの、単純な言葉に。
今更レキは、打ちのめされたような衝撃を感じていた。
昨日の演説を訊いたのはどれほどだった? それを思い返そうとして、愕然とする。領民へ働きかけたその手ごたえを、昨日は確かに喜んでいた。
その手ごたえに今は……ゾッとする。
「私が独りでやれって言ったのはそういうことよ。クライスの王族なんてお墨付きまでわざわざつけたんだもの。クライスの民なら誰だってあなたの言うことを聞くでしょうよ。あなたはあなたの戦いに、関係ない人まで巻き込んだ。私はそれが許せない」
「…………」
「でもね。それ以上に、今私が許せないのは――」
刹那。
衝撃に、レキは視界がぶれるのを感じた。何の反応も出来ず、激痛にあえぐ。
胸ぐらを掴まれたのだと気付いたのは、女の顔がすぐ目の前にあったからだ。
彼女の青く燃える瞳が、殺意すらあらわにレキを射抜く。
「あなたが、自分のしでかしたことの責任すら取らないで逃げ出そうとしてることよ」
感情に、静かな声は揺れていた。憤怒にも、憎悪にも似た激情に。
そうして女はレキを突き放す。拘束を解いて、女はレキから離れていった。彼女は窓へと歩いていく――カーテンで閉ざされた、窓まで。
冷たく、鋭く。彼女は告げた。
「見なさい。これがあなたのしでかした結果よ」
そしてカーテンを開け放つ。
闇夜に輝く月が見えた。中途半端に欠けた三日月が、まるで笑うように彼女を見ている。天候は晴天だ。薄闇を、月と星の光とが照らしている。見慣れたフレインの、夜の街並みを。
だが。
「……え?」
レキは絶句した。言葉を失って、ただ窓の先に広がる光景を凝視していた。
並ぶ家屋の合間から、空まで続く煙が見える……一つや二つどころではなく。十をわずかに超えるほど。
火災にしては奇妙だった。全ての煙に距離がある。それはつまり、今日だけでそれだけの火事が発生したことになる。意味がわからなかった。
「どういう、ことだ……これ。いったい、何が――」
「全部あなたのせいよ」
ぼそりと置かれたその言葉に、レキはその女を見た。月明かりに照らされたその女を。
彼女は、今はレキを見ていない。悲痛とも悲嘆ともつかぬ眼差しで、窓の外を見つめていた。
「あなたが寝ている間に、領騎士に対する暴動が起きたの。一件目は昨日の夜。あなたのいた宿の辺りで、“ニコラエナを殺された”と思い込んだ領民と、領騎士が争った。二件目以降は、ニコラエナを探し始めた領騎士と領民とで。結果はごらんのとおり」
それでも声だけは、変わらず彼女を刺すように鋭かった。
「これがあなたのしでかしたこと。領民を煽って、領騎士と争わせた」
「……うそ」
「嘘じゃない。あなたにはそんなつもりはなかったかもしれないけれど。だとしたらそれはあなたの罪なの。考えなしに王族が言葉を発すれば、どうなるか……」
言いながら、その女はカーテンを閉めた。そうして彼女はここと外とを隔離する。
だが目に焼き付いた光景は、レキの脳から消えてくれなかった。
たかが五人――そう言った女の声が脳裏に響く。暴動と言ったか? 火事になるほどの争いだったのなら、それには何人参加した? 誰もが無傷で済んだはずがない。
その騒ぎの中で、いったい何人が――
「ぅ、え、ぉぇ……!」
考えれば考えるほど、何かが押しつぶすようにのしかかる。
その重みに耐えきれず、レキは胃の中の物を吐き出そうとした。処理できない感情が気持ち悪い。だが吐き出す物は何もない。
楽にもなれず、吐き気も消えず、レキはその場に身を折った。
「わかるでしょう? あなたが取るべき責任の重さが」
その声は、ゾッとするほど近くから聞こえてきた。
自分とよく似た容姿の女の声。だが今更になってこんなことに気づく――この女と自分とは、声だけは全く似ていない。
その声に底冷えするほどの冷たさを乗せて、彼女は囁いた。
「始めたのがあなたなら、終わらせるのもあなたにしかできない」
「無理、だ。あたしには、そんなの……!」
否定の言葉は上ずって、きっと滑稽に聞こえたに違いない。だがレキにはそれ以上の言葉はなかった。
無理だ。だって、あたしにはできない。あたしに責任なんて取れるはずがない。
出来ると思っていた。昨日までは確かに、自分にそれが出来ると信じていた。根拠のない自信だったとしても、それをやり遂げるだけの力があるのだと。
でもそんなものはなかった。思い知らされて、レキにはもう立つ力もない。カイネの言葉が――遺言代わりの呪詛の言葉が、頭にこびりついて離れない。
無理だった。気づけばレキは泣いていた。もう泣くこともないと思っていたのに。涙を流して、その女に許しを請った。
「そんな責任、取れるわけない。あたしには、無理だ。それに、だって、あたしは――」
それを言う前に。
その女はレキの胸ぐらを掴んで、締め上げた。
そのまま力でもって、彼女の体を持ち上げる。
真下からかち上げるように視線で睨み、彼女は凄んで、こう言った。
「“偽者だから”なんて言い訳、あなたには絶対に許さない」
その声だけ――いや、その声から――初めて、女の声は激しかった。
「偽物? 失敗? 知ったことじゃないわ。そりゃそうよ、誰にだって責任なんか取れるはずがない――他人の人生の責任なんて、未だかつて、誰も取ったことなんてないわよ! それでもあなたはやらなきゃいけないの。一度始めてしまったのなら、もう誰にも止められない。くだらないワガママで、あなたがそれを始めてしまった!」
女の怒りはどこまでも的確で、容赦なくレキの心をえぐった。言い返すこともできない。彼女の言葉は全て正論で、全てが彼女を弾劾する言葉だった。
「黙って独りで戦ってるだけならまだよかった。黙って敵と殺し合うだけなら! 名乗ればこうなるのはわかってた。だから今まで“ニコラエナ”は名乗らなかった――名乗れば、彼らを死なせてしまうってわかってたから!! それでもあなたは名乗ってしまった――名乗って、自分は正義だと喧伝までして! だったらもう、最後までやり遂げるしかないじゃない!」
「でも! でも、あたしは……」
口をついて出た声は、もはや言い訳にもなりはしない。偽者だから。震える唇は、だがそれを言葉にはしてくれなかった。
その女の言葉に耐え切れず、レキは目を閉じて逃げ出した。
許されないのはわかっていた。それを言うのも――それをしてしまったことも。それに気づいてしまえば、もうレキには耐えられない。
消えてしまいたいと思った。今すぐこのまま、どこかに消えてしまいたいと思った。それか……許されるのなら、この女に殺されたいと。レキにはもう戦うだけの力がない。逃げ出すことしかもう、頭の中にはなかった。
その頭が、最低な案を閃いた。
(だったら……あんたが……)
だが、言えなかった。言わなかったのかもしれない。最低な自分の最悪な発想に、レキは死にたくなっていた。
自分はもっと、清らかでまともな人間だと思っていた。それが、これだ。最低の人間だった。ゲスだと思ったジーリーさえ、もう彼女は笑えない。
ふとその女が黙り込んだのに気づいて、レキは眼を開けた。女は……何かを耐えるように、その唇を引き結んでいる。胸ぐらを掴む手に……もう力は入っていない。
優しく物を置くように、そっと手を離して。その女は、寂しく呟いた。
「……私は、あなたの代わりにはなれない」
「――っ!」
息が詰まった。それはレキが言おうとした、最悪な発想そのものだったから。
気づかれていたことに、レキはもうどうすればいいのかわからなかった。
その間も、女の言葉は続く……
「私がしたいことには、“ニコラエナ”が邪魔なの。私は“ニコラエナ”を名乗れない。あなたのために、代わってあげることはできない。ごめんなさい」
「……あんたは……」
自分は何を言おうとしたのだろう。そこまで呟いて、レキにはそれがわからなくなった。
彼女は頬を緩めると、囁くようにこう言った。
「やめたいのなら、やめてもいい。あなたがただの娘に戻りたいのなら。本当は、それを責める権利は私にはないの」
優しい微笑みだった。優しくで、寂しくて……どこか物悲しい。
初めて見たかもしれない。この女の、そんな笑みは。何故その女がそんな風に笑うのか。レキにはそれがわからなかった。
その笑みは、彼女が背を向けたから見えなくなった。
話は終わりだと、そう告げるように、歩き出す。
「刻限は明日の正午まで。それまでに決めなさい……あなたが後悔しない道を」
声にだけ微笑みの残滓を残して、彼女は部屋から出ていった。




