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オルトロス  作者: アマサカナタ
24/33

5-3

(ここは静かね……まるで、世界から隔離されたみたいに)


 それがあまりにも場違いな発想であることはわかっていたが。

 エリーの宿の階段を登りながら、ドギーは他人事のようにそんなことを考えていた。


 今宿には客がいない。宿泊客がいないのはそんなに珍しいことではないそうだが、宿は今休業状態だ。

 今日は食堂も締切にしたそうで、この宿にはほとんど人気がなかった。


 そうでなくとも領民は今、フレインを騒がせる噂と騒動で大忙しだ。


 領騎士の手による郊外の宿の火災――同場所で発生した領民による暴動――路上で惨殺されていた謎の男たち――政務館に突如現れた強盗犯の行方――ニコラエナなる女の消息――

 突如として降って湧いた騒動に、誰も彼もが躍らされている。この宿はそうした騒ぎとは無縁であった。当然といえば当然のことかもしれない。


 騒ぎ立てる者は誰もいないのだから……


(そうでもないか。騒ぎを起こしたのは“私”だものね)


 つまらない否定になったが、それは皮肉だったに違いない。

 そんなことを思う頃には、目的地のすぐそばにまで来ていた。

 扉をノックして、静かに囁く。


「私よ。入ってもいい?」

「あ、はい。どうぞ」


 答える間延びした声を聞いてから、ドギーは一室の扉を開いた。


 ドギーたちの借りた部屋ではないが、間取り自体はほとんど同じだ。招き入れたのはエリーだが、彼女はベッド脇に置かれた椅子からこちらを見返している。

 子供のように真ん丸な目には疲れが見えた。瞼もどこか腫れぼったく、眠っていないのは予想がつく。

 彼女の傍らまで近づいてから、ドギーは呟いた。


「エリー。交替しましょう。あなた、寝てないんでしょう?」

「ああ、いえ。私は大丈夫ですよ。それに寝てないのはドギーさんも一緒でしょ? 眼の隈、すごいことになってますよ」

「私は……自業自得よ。自分のしでかしたことは、自分で責任取らないとね」


だが自分で言いながら、それが空々しい言葉だと気付いていた。


「いえ……責任なんて、全く取れてないわね。あなたはこの件には関係なかったんだもの。あなたに迷惑をかけるべきではなかった」

「迷惑だなんて、そんな――」

「お願い。謝らせて。関係のない事件に、あなたを巻き込んでしまった」


 エリーの言葉を遮って言いながら、ドギーは恥じ入って、目を伏せた。


 彼女を巻き込みたくはなかった。それは本当だ。クラウンはああ言ったが、ドギーは最後の最後まで、彼女の宿に逃げようとは思っていなかった。


 失敗したと思うのは、それでも彼女の宿を目指したことだ。土地勘のなさが災いして、どこに逃げればいいかわからなかった。

 そこを騒ぎで目が覚めたエリーに見つかって……今に至る。


 彼女はドギーを見つけると、全てを悟ったようにドギーの手を引いたのだ。

 彼女の善意に匿われて、自分は今、ここにいる。


(誰も巻き込みたくないから“ドギー”を名乗ってきたのに……これじゃあ、私も同類か)


 自嘲しようにも、それを聞かせる相手がいない。こういう時に黙って愚痴を聞いてくれる男も、今は消息不明だった。

 彼の心配は無用だと、わかってはいる。あの男は誰よりも強い。

 だが感じる寂しさはごまかせず、それが彼女に七年連れ添った男の心配をさせていた。


「……街の方は、どうでしたか?」


 問いかけに、ドギーは顔を上げた。エリーは既にこちらから視線を離している。

 視線を追うまでもなく、彼女が見ているものは見当がついた。窓だ。その外に広がる光景を見つめている。


 既に時刻は正午辺りか。空に昇るいくつかの黒煙を見つめて、彼女は答えた。


「暴動は一応終息したわ。火災の方も騎警のおかげでどうにか収まった。ただ……領民は納得してない。領騎士といさかいを起こしてる人もちらほらといたわ。もしかしたら、また同じ規模の騒ぎが起きるかもしれない」

「…………」

「領騎士は、この暴動の主犯の逮捕に出張ってきてるわ。昨日の夜、炎上した宿の周りにいた人たちはみんな逮捕されたみたい。だけど、まだ領騎士が戻る気配はない」


 言いながら、彼女は視線を下した。エリーもまた、言葉の先を察してベッドに視線を戻す。


 そこには一人の女が、静かに眠りについていた。長く伸ばされた銀の髪は、傷むということを知らないかのように艶やかに光を反射している。

 歳の程は十六か、十七か。透き通るような青の瞳は、今は瞼に閉ざされて、隠れている。


 女はもう泣いていなかった。規則正しく聞こえてくる寝息の音がなければ、その女は死んでいるように見えたに違いない。


「たぶん、私とこの女を探してる」


 どうにか絞り出すように、呟く。それは自白か、さもなくば懺悔によく似ていた。


 この騒動は全て“ニコラエナ”が引き起こしたのだ。


 この娘が原因を作り、自分がそれをかき乱した。


「……訊かないの? 私と、この女の事」


 エリーは何も聞いてはこない。それがドギーには苦しかった。

 エリーは既に気づいているはずだ。この女こそがニコラエナであることを。そしてその女と瓜二つな自分の不自然さも。

 訊かれれば、ドギーは全てを答えるつもりだった。それしかエリーに報いる方法を思いつかなかった。


 だがエリーは、曖昧に首を振って否定した。


「訊きません。訊けませんよ」

「……どうして?」


 問いかけると、彼女は曖昧に笑って、こう言った。


「だって。恩があるから」

「――――」


 その笑みが、あまりにもらしくなかったからか。ドギーは言い返す言葉を失って、笑う少女を見つめることしかできなかった。


「……ごめんなさい」

 力なく、そう呟く。

 エリーは何も言わず、ただ微笑むだけだった。

 それきり、お互い無言で黙り込む。そうなればほとんど音もなく、表の騒ぎなどまるで嘘かのように時間だけが過ぎていった。


 と。ふとドギーは少女の名を呼んだ。


「……エリー?」


 彼女は変わらずそこにいたが。椅子に座ったまま、うつらうつらと頭が船をこいでいる。

 彼女は二、三度それを繰り返してから、ハッと気づいて目を覚ました。


「あ、あれ? 私、今――」

「エリー。もういいわ。今度は私が彼女を見てるから、あなたは寝てきなさい」

「でも……」

「でもじゃない」


 ぐずるように言う彼女にぴしゃりと返して。ドギーはわずかに頬を持ち上げた。

 不器用で出来損ないなのはわかっていたが。どうにか精一杯微笑んで、彼女に告げる。


「あなたには感謝してる。だからこそ、今は休んで。恩があるというのなら、今は私の言うことを聞いて」

「……………」


 ずるい言い方をした。それはわかっていた。こう言えば彼女は否定できないとわかっていたからだ。

 彼女の思惑をエリーも気づいたに違いない。否定のために、何かを言おうと口を開く。


 だが堪えるように目を伏せた。そうして彼女は、小さく一礼して部屋を出ていった。


 彼女の姿が扉の奥へ消えるのを見送ってから、ドギーは彼女がいた椅子に腰を掛ける。安らかに眠る女を傍らから見つめて、ドギーはその耳元に囁いた。


「いい加減に起きなさい。あなたの役目は、まだ終わってないのよ……」


 聞こえていたはずだ。それでも、ニコラエナはまだ目覚めない……


(いえ……もう二度と、目覚めることなんてないのかもしれない)


 そう思ったのは、彼女の悲鳴を思い出していたからだ。


 あの魂も凍る絶叫を覚えている。それを追いかけて部屋に向かえば、彼女は仲間の死体を前に泣いていた。仲間の生首を見つめて、何もできずにただ泣いていた。

 その顔をドギーは知っている――自分の似姿だからこそ、その顔を見れば彼女の感情が理解できた。


 彼女はあの時、絶望したのだ。


 あの日、父を殺された自分と同じように。


 その時、自分には選択肢が三つあった。ニコラエナとして死ぬか、ただの旅人として生きるか――復讐を誓って惨めに生きるか、だ。


 この娘はどれを選ぶだろうか。気になったのはそれだった。もしもう一度目覚めることがあったとして。この女はもう一度、ニコラエナになれるだろうか……


 と。


「――いや! やめてください!!」

「……!?」


 突如として聞こえた少女の悲鳴に、ドギーは思わず立ち上がった。声の主は間違えようもない。エリーだ。

 切羽づまった、階下からの声。


 声からでは事態の把握などできやしないが。


(まさか、領騎士が……!?)


 だとしたらエリーが危ない。一切躊躇わず、ドギーは部屋の外へと駆け出した。

 階段を何段も飛ばして一気に駆け降り、食堂に一目散に飛び込んで。


 出合い頭の光景に、ドギーはどうすればいいのかわからなくなった。


 そこに領騎士はいなかった。いなかったが――


「エリー、わかってくれ! これがお前の為なんだ――」

「嫌です! ここにはそんな人なんていません! 帰って――帰ってください!」


 そこにはエリーだけでなく、アルフがいた。だが彼は以前会った時の服装ではなく、騎警の制服に身を包み、剣を帯びている。

 いかにも兵士然とした様子で、彼はエリーを諭していた。


「領騎士が俺たちに命令して、銀髪の少女を探させてる。誰彼構わずだ。匿った奴は同罪だって奴らは言ってる。あいつ、ここにいるんだろ。匿うとお前が危ないんだ――」

「だからなんだって言うんですか――私が危なくなる代わりに、ドギーさんが危険な目に合うんでしょう? そんなの、私が認めるわけないじゃないですか! お願いですから、帰ってください! 今日は休業中です、お客さんなんて誰もいません!」


 エリーは今にも泣きだしそうな顔で、それでも怒りに震える声で叫んでいた。その少女にそんな激しい顔ができることを、ドギーは知らなかった。


 だが。彼女らの話の内容は、知らなかったからと済ますわけにはいかなかった。


 領騎士たちはニコラエナの探索のために、強引な手段を選んだのだろう。

 このフレインに銀髪の少女が何人いるか。それはわからない。だがこのまま“ニコラエナ”が見つからないのであれば、あの女の代わりに無関係の人たちが処刑されることになる……


「――潮時ね」


 だからだ。降参のつもりで、ドギーは二人の会話に割って入った。ぎょっと――あるいはハッとした視線が、彼女に集まる。敵意はないことを示すために、両手を挙げた。


「アルフ。ニコラエナなら二階にいるわ。エリーは私が脅迫した。命の危険から、エリーは私とニコラエナを匿わざるを得なかった。彼女は被害者よ。この件には関係ない」

「ドギーさん……どうして……!」


 呆然としたエリーの呟きに、苦笑する。どうしても何もない。こうなった以上は逃げるわけにもいかない。それだけだった。

このままでは彼女も処刑されるかもしれない。だが今なら彼女を無関係にできる。それにアルフも気づいただろう。


 苦渋に顔を歪めて……それでも彼は、職務を果たすことを選んだ。


「事情が呑み込めているのならありがたい。この騒動を納めるために、俺たちは銀髪の女の逮捕を命じられている。君たち自ら出頭してくれるのなら、この宿は無関係に――」

「――ダメ!」


 その足を、エリーが止めさせた。彼の胴にしがみついて。面喰ったのはドギーの方だ。

 アルフもまた、驚いてエリーに困惑のまなざしを向けていたが、気づいた様子はない。必死に叫ぶエリーは、行かせまいと彼を掴むことに集中している。


「お願い、見逃して――私が罰せられるならそれでいいから! ドギーさんたちは連れてかないで! お願い、見逃して……!」

「エリー、お前……」

「アルフさんだって、わかってるんでしょう!?」


 問われ、彼はたじろいだ。ただ愚直で言葉も飾れない、少女のひたむきな問いかけに。

 悲痛な叫びを、エリーは続けた。


「だって、おかしいよ……! あの人たちと戦わなきゃいけなかったのは、本当は私たちじゃない! なのに私たちは何もしなかった。戦ってくれたのはニコラエナ様やドギーさんたちで……私たちはその後ろで、ただ見ていただけだった! 私たちを傷つけてきた人たちに、私たちは何もしてこなかった! それなのに……戦ってくれた人たちを、今度はあの人たちに差し出さなきゃいけないの!?」

「……仕方ないんだ。わずかな犠牲で、フレインの平和が守れるのなら」

「そんなの――そんなのおかしいよ! どうして――」

「俺だって、おかしいってのはわかってるよ!」


 唐突に、アルフは声を爆発させた。その憤怒の向ける先を探すように、視線を逸らして、


「ああそうだ、こんなのはおかしいさ。悪いのは奴らだよ。だけど、だからなんだってんだ! 奴らから領民を守るためには犠牲がいるんだ! だったら――それだったら、俺は……!」


 言葉を失って、アルフも、エリーも黙り込む。


 二人の握りしめた拳に、彼女は二人の気持ちを見た気がした。二人の気持ちはきっと一緒だったに違いない。それでも……彼は騎警だ。優先しなければならないものがある。

 それだけのことだ。

 だから、これ以上エリーが無意識に彼を嬲る前に、口を開く。


「……エリー。アルフも。ありがとう」


 その言葉に驚いてか、ばっとエリーは顔を上げる。その顔にはありありと、傷ついた色が覗いていた。

 言葉を聞くまでもない。その顔は「どうして」と問いかけている。

 時間がないのはわかっていた。長引けば長引くほど、エリーが窮地に追い込まれる。騎警は今はアルフ一人だが。もし彼以外にも人が来てしまったら、もうエリーは言い逃れできない。


 そうなればお終いだ。それだけは嫌だったから、ドギーは呟いた。


「もういいのよ。あなたたちが悪いわけじゃないもの。あの子と私があなたたちを巻き込んだだけ。本当は、あなたたちは関係なかった。だからもういいの」

「よくない……よくないですよ……だって私、まだ何の恩も返せてない……! 二回も助けてもらったのに……なのに……!」


 そこが彼女の限界だったらしい。嫌だと首を振る彼女は既に泣いていた。

 堪えていた涙は堤防が決壊したように、大粒の玉としてぽろぽろと頬を伝っていく。そのまま彼女は床にくずおれて、アルフの体から手を離した。


 だが耐えられなかったのはドギーの方だ。苦笑とも微笑ともつかぬ笑みを浮かべながら、それでも直視できずに目を逸らした。

 恩を返すというのなら、その気持ちだけで十分だった。

 自分のために泣いてくれる人間がいるとは思っていなかったから。


「……なんでだ?」


 ぽつりと、ひび割れた声が聞こえてきた。苦痛すら感じさせる、そんな問いかけ。

 どうにか喉の奥から絞り出した、それは悲鳴のような困惑だった。


「なんで、そんなに潔くできる。わかってるんだろ。連れてかれたら殺されるんだぞ。奴らのバカみたいな言い分でだ……なんでそんな簡単に死ねる? 奴らの事情なんかアンタにゃ関係ないだろ。エリーのこともだ! 放っといて、そのまま逃げりゃいいじゃねえか!」


 彼の言葉は支離滅裂だ。それは本人にもわかっていたはずだ。血走った彼の瞳にも、うっすらと涙の色が見えた。

 溢れるほどに多くはない。だが、隠せるほどにも少なくはない……


 なぜ? ドギーはその単語を繰り返した。


 逃げ出すこともできる――それは正しい。領騎士の言い分などどうでもいい。自分は復讐するためにここに来たのだ。そのためには……エリーを見捨てるのが正しい。

 クラウンもきっと、そう言うだろう。理屈で考えればそうなる。


(……でも)


 感情は、どうしたところでその理屈に抗った。ニコラエナを助けるために、復讐の好機を逃した時と同じように。理屈がどうのではない。結局は、感情の問題だった。


「そうね。確かに、どうでもいいことなのかもしれない。それでも……私は、逃げられない」

「どうして!」


 食い下がる彼に、言うべき言葉は一つしかない。

 だから、思わず笑ってしまった。


「――私がそうしたいから」

「…………!」

「それだけよ。本当に……たった、それだけ」


 呟いて。それを最後に、ドギーは目を閉じた。


 何のことはない。今まで通りだった。今まで通り――あの燃える夜の日に、復讐を誓った時のように。結局のところ、自分はそういう風にしか生きられないのだ。

 感情の望むままに……ただ、ワガママに。それは自分の名がまだ別のものだった時から変わらない。変えられなかった。


 沈黙は、永遠のようにも、一瞬だったようにも思える。


「――一日だけだ」


 その言葉に、眼を見開く。と、吐き捨てるように、彼は言った。

「一日だけ、猶予がある。明日の正午。それまでに銀髪の女が見つからず、出頭もしなかったのなら、今日の暴動で逮捕された者は皆処刑される。彼らは……人質だ」

「……それじゃあ?」

「どうにか嘘をついて、この宿のことはごまかす。だから……」


 エリーを死なせたら許さない、か? それとも、エリーを任せた、だったのか。


 その先は告げず、それだけを告げて。彼は去っていった。


 その背をしばし、見送ってから。ドギーは静かに、天井を見上げた。

 ここが正念場だった。逃げられない。


 もう“ニコラエナ”はどこにも。


 だから。


(お父様……)


 亡き父に、祈る。


 そうして彼女は、覚悟を決めた。

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