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オルトロス  作者: アマサカナタ
22/33

5-1 “ニコラエナ”はもう戻れない

「邪魔だから! とっとと下がれってぇの!!」


 そう叫んで聞くなら野次馬に来たりするはずもない。それはわかっていたのだが。


 火事に集まる野次馬たちに向けて、アルフは声を張り上げていた。


 夜を照らす出火は、郊外にあったという宿からだ。既に家屋は原形を留めておらず、倒壊していた。それだけ火災の規模が大きかったということでもある。

 場末の宿とはいえ、火事は火事だ。近隣住民の心配も分かる。だがそれでも――


「なんでこんなに野次馬が多いんだ。おかしいだろ?」


 それはアルフが言ったのではなく、同じく野次馬を火事場から遠ざけている仲間の呟きだったが。アルフとしてもそれは同じ気持ちだった。この数の多さは異常だ。多すぎる。


 というより、今日はそもそも異常な日だった。その始まりはあの“ニコラエナ”の演説だ。それから領民の異常な一日は始まった。

 ニコラエナの演説に浮足立った領民たちは、はしきりに領騎士の悪を囁き、何個も小さな騒ぎを起こしては騎警に補導された。

 それが終わって夜になり、小休止を迎えたと思ったら、これだ。


「用がない者は下がれ! 野次馬共が。公務の邪魔だ!」


 突然の罵声に、アルフはぎょっと宿から眼を離した。

 野次馬の人垣を強引に割って近づいてくるのは……領騎士だ。歓迎できない四人の来訪者に、アルフはひとまず敬礼した。


 彼らの代表は不愉快な顔を大げさに歪めて、こう訊いてきた。


「火災の様子はどうなっておる?」

「は。現在は鎮火待ちであります。近隣家屋への飛び火の気配はありませんが、一応は警戒のために人員を配置しました。火災の原因はわかっておりません。なにしろ、目撃者が――」

「原因ならわかっておる」

「……は?」


 一瞬、言ってる意味がわからず。好ましい態度ではないとわかっていたが、アルフはそんな声を上げた。

 火災が起きてから今までの間に調査を終えたということだろうか。

 それを説明するためにだろう。四人の領騎士は背後に広がる人だかりへと体を向けた。


「この宿は、反カーライルを掲げた反抗組織の拠点であった!」


 そうして彼らが叫んだ内容は――彼の予想以上に、最悪なものだった。


「調査の結果、宿の主ミハイル・ボダムは犯罪者を匿い、暴力と扇動による国家転覆を画策した! 本件は王権反逆罪により、我らフレイン領騎士団がこの宿を摘発した結果である!」


 言い放つ領騎士は胸を張る。自分たちが正義だと主張するように。

 だが、ざわめき立つ領民を前に、アルフは戦慄で肌が泡立つのを感じていた。


(おいおい、冗談じゃねえぞ……! タイミングが悪すぎんだろうが!)


 以前なら――昨日までなら彼らの態度はそれでもよかった。犯罪者を倒すために火災まで起こしたと主張しても、仕方ないと受け入れられたに違いない。


 だが今は違う。それは何故かと問うまでもない。ニコラエナが悪事を糾弾したからだ。


 領騎士への領民感情は最悪だ。その二つに板挟みにされている騎警だからこそわかる。野次馬たちの中に凶悪な色を浮かべた者たちがいたことに、アルフは気づいていた。

 というより、何故領騎士が気付かないのか理解できなかった。それほどまでに彼らの感情は領民と乖離している。


「え? あ、お、おい――」


 と――不意に聞こえた仲間の声に、アルフは宿の方を見た。

 鎮火の対応をしていた彼が、誰かに呼びかけていたのは間違いない。彼は炎の中を凝視しながら、狼狽えていた。眼を見開いて、震えている……震えている?


 狼狽える同僚は、凝視した炎の先、その一点を指さしていた。その指すら揺れていて、どこを指したのかわかったものではなかったが。


 指よりも、その言葉の方がわかりやすかった。


「あ、あ、あれ……に、ニコラエナ、様の……鎧じゃ――」


 ――瞬間。


 騎警が静止する間もなく、領民の人垣がなだれ込んでくる。領騎士が罵声を浴びせて領民をどうにかしようとしているが、数の暴力は領騎士の言葉をないものにした。


 宿へ向かう領民の波に飲まれながらも、アルフもどうにか振り向いた。


 そうして、それを見つけてしまった。


 確かにそれは鎧だった。炎と木片の中に埋もれ、ひしゃげて原形も留めていなかったが。確かに、それは見覚えのある鎧だった。


 忘れるはずもない。それを見たのは今日の昼だ。誰よりも痛烈に領騎士を糾弾した女の姿を、そう簡単に忘れるはずがない――


「てめ、えら――ニコラエナ様を、ぶっ殺しやがったのか!?」


 誰かの上げた怒号が、領民の怒りに火を点けた。

 事態が広まるにつれて雰囲気は剣呑に尖っていく。人垣の意味が、その直後に変わったのを彼は感じた。領騎士を逃がさぬ包囲へと。


 怒号は続く。火災よりも、その声の群れが大気を揺らす。夜を震わせて、それがまた誰かの耳に届いて。暴動の予感に、彼は恐怖すら覚えていた。

 そこに油を注ぐ、領騎士の声。


「ええい、黙れ貴様ら! 黙らんか! 我々は悪を裁いただけだ! 黙れ屑ども、お前らも裁くぞ! これは反逆罪になる! 黙らんか――」

「黙らせてみろよ! お前らが悪いんだろう! お前らの悪事がばれたらこれか――許されるとでも思ってんのか! カーライル人の屑どもが!」


 押され潰されもみくちゃにされながら、アルフはどうにか包囲の中心を見やった。領騎士は誰も彼もが怒りに怯え、それでも虚勢を張っている。


 だが怒りは際限を知らず、怒号は獣の咆哮のようだった。留まることを知らぬ、憤怒を掲げる獣の群れ。最前線の男は領騎士に掴みかかっている。

 苛烈に敵を攻めたて、糾弾し、時には殴られ、殴り返し――そして。


「黙れ、黙れ、黙れぇぇぇぇぇぇ!」

「……え?」


 その声を聞こえたことが、彼には奇跡のように思えた。何の価値もない奇跡だと。

 最前線の男の声だ。呆然と目を見開いて……自分の腹を、見つめている。


 人垣が、さっと彼らから離れた。誰かが悲鳴を上げようとしたに違いない。引きつった息を吸う音が、確かに耳に届いた。人垣から覗く彼の腹には……剣が刺さっている。


 刺したのは当然、領騎士だ。彼もまた震えている。その顔は、取り返しのつかないことをした恐怖に歪んでいた。

 今まで何人も殺してきた男が、たった一人を殺したことに怯えている。


 ――悲鳴と、怒号。それが長い長い一日の、始まりを告げる合図になった。

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