4-7
駆ける背中が闇に消えていくのを見送りながら――
(案外、早いな)
クラウンは、胸中でそう呟いていた。
あの娘とは、彼女が五歳かそこらの頃からの付き合いだ。本当に幼いころから、クラウンはあの危なっかしい少女の面倒を見てきた。
王族というものがどんなものであるかも知らず、戦うという意味も知らず、殺すということの価値も分かっていなかった、少女の頃からだ。
去りゆく背中は、彼が予想していたよりも早く遠ざかっていく。ずっと身近にいたのなら、成長というものは意識できない。ある日唐突に、それはやってくるものなのだ。
あの娘は変わったのだと。それを寂しいことだと思うのは……
(どうかな。それを言うと、彼女は怒るかもしれないな)
あの娘は気位が高い。情緒不安定で、激情家で、そしてなにより優し過ぎる。
それは人として立派なことだが、暗殺者としては欠陥ですらある。彼女はとことん、向いていない。そんな娘に、七年間人殺しの術を教えてきた。どうにか形になるまでにかかった年月が、それだ。
徹底して向いていない――あの娘に争いなどというものは。
(それでも、彼女はこの道を選んでしまった。俺は彼女を止めなかった。ファーレン……お前は俺を恨んでいるか?)
「――貴様。何者だ」
亡霊に捧げた問いかけは、誰何の声にかき消された。
振り向けば、そこにいるのは彼の敵だ。領騎士なるカーライル人の組織。今はあの二人を追おうとしている。数は十を超えるかどうかといったところか。まだ集まってくる気配がある。
「答えよ。貴様は何者だ。ニコラエナとその一党の仲間か?」
その敵に無言を返して。立ちはだかる門番のように、敵を見渡す。
距離は数メートルほど離れている。こちらが迂闊に近づいても、見てから反応できる距離だ。
痩せぎすの男がその包囲の中にいたのなら、ついでに殺しておこうと思ったのだが。彼は包囲から外れて、最も遠い場所からこちらを見ていた。殺すにも手間のかかる位置だ。
諦めて、包囲に視線を戻す。答えぬ彼に苛立って、隊長格のその男は抜刀し、剣を突きつけて唾を飛ばした。
「質問に答える気はないようだな。このままはぐらかすつもりなら容赦はしない。最後通牒だ……答えよ。貴様は何を知っている?」
「何を知っている、か」
答えられるものがあるかというと……ない。
クラウンは笑った。苦笑のためにではない。ただ笑いたいから、そのためだけに彼は笑った。それを自分に訊くということがどういうことか。男たちはわかっていない。
「いいだろう。俺が知っていることを教えてやる」
だからだ。クラウンは静かにそう告げると。
何の素振りも溜めもなく、即座にその場を飛び出した。
自分の体を悪魔に明け渡す。そんな心地で彼は自分を俯瞰する。体を動かすのは悪魔の仕事だ。その間彼は何もせず、ただ遠くから自分を見ている。
隊長格の男に飛びついた。反応が遅れた男の首を指で摘まみ、頸動脈を引きちぎった。人体の急所はその程度で触れられる位置にある。
悲鳴も苦鳴もなく男は死んだ。
その男から剣を奪い、敵を見回して囁いた。
「俺は敵の殺し方しか知らない」
己が得た知識は全て、殺人のために使われる。だからファーレンに重宝された。
邪魔な敵を皆殺す。それが彼の仕事であり、宮廷道化の裏の顔だった。
そして今は、名を捨てた少女の露払いだ。
「う……うぁぁぁぁぁ!」
恐慌に弾かれて、一番若い男が踏み出す。背後に熟練の男が二人続いた。
若造を捨て石にしてでもこちらを殺す布陣だ。一人は若造の背後につき、もう一人はこちらの側面へと走る。若造が殺された後、二方向から攻撃するつもりだろう。
クラウンはそのすべてに受けて立った。
まずは踏み込まない。若造を待ち構えて、突き出された剣の腹を拳で払った。
体を崩されて隙をさらけ出す男の心臓に刃を突き刺す。同時に踏み込んで、体当たり気味に男の体を押し込んだ。
蹴り飛ばして男の体から剣を抜き、後に控えた男の追撃をわずかに遅らせる。
その隙に視線だけで右を見た。二人目の男は上段から振りかぶり、速度を殺さず切りかかってくる。
最少の見切りで、クラウンは半弧を描くように体を引いた。かわされて空を切った剣が、地を叩く前に止まる。
剣が軌道を変えて跳ね上がる、それより前にクラウンは剣を重ねた。
相手に停滞を与え、その隙に彼は片手を伸ばし、掴んだ首の喉仏を潰した。
呼吸を阻害する殺害法は死ぬのに時間がかかる。のたうつ男を蹴飛ばして、クラウンは次を見た。
若造を横に跳ね除けて踏み込んできた男には、剣の一投で足りる。
首の動脈を刃に裂かれて、そのまま男は死んだ。駆け寄ってきた勢いのまま、クラウンの目の前に倒れ込む。
その男の剣を拝借して。
更に続くだろう次に備える。
殺した数と比べて包囲が薄くなったかというと、そんなこともない。何人敵がいるのかは知らないが、ここにいる領騎士が全部ということもなさそうだ。
領騎士を全員を殺すのが、彼の仕事か? それは微妙なところだったが。必要とあらばそれをする。出来ないとは微塵も思わなかった。
手始めに、ここにいる者全てを殺す。造作もない。
だが駆ける音を聞いて、クラウンは警戒を強めた。包囲の外から響く鋭い音だ。領騎士とは練度が違う。
誰が来たかをそれで察した。
包囲の隙間を縫って、その影はクラウンの前に躍り出た。
その速度は明らかに領騎士よりも早い。踏み込み、小さく牽制の刺突を繰り返す。片手でだ。細剣を用いるようにして強引にリーチの利を得る。だが速度は両手で扱う剣のそれだった。
牽制に混じった本命打だけを剣で払い、距離を詰めるための隙を探す。だが思いのほかそれが難しいことを悟った。
隙だと思わせる誘いがある。それに乗れば自分は死ぬ。
その罠がどんなものか、それは見当もつかなかったが。
(予想以上にやる……か。これは侮っていたな)
仮面の下で苦笑する。負けるとは思わないが、それほど余裕があるわけでもない。
膠着が続けば不利になるのはクラウンの方だ。今は正門に陣取ることで領騎士をせき止めているが、外に出るために正門を通らねばならぬ理由はない。
それに気づかせないほどの脅威であり続けなければ、自分は負ける。
決断というほどの物でもない。だが決めて、クラウンは突き出された一撃に切り上げる軌道を重ねた。
キィン――耳に届く心地よい音。敵は剣を手放さなかったが。それ故に上体が伸び上がり、胴ががら空きになる。
次手が来るなら振り下ろしだ。敵の行動を制限し、クラウンは懐に入り込んだ。
そして次手。
敵は手品のように、空いた左手にナイフを出した。
「――――!!」
予想していなかった一撃を前に、彼は思わず感心した。
剣を地に刺して急制動。同時に仕掛けるスウェイバック。頭上を銀の光がかすめていく。
だがそれで終わりではない。振り下ろしが来る前に、彼は姿勢を崩して飛び退いた。
間一髪のところで距離を取る。相手の必殺をかわした形だが、完全にかわしきれもしなかった。ナイフが顔に引っかかって、仮面はどこかに吹っ飛んでいた。
幸い剣は手放してなかったから、まだこの相手でも戦えるが。
「お前は……!」
驚愕するその男――カラッゾに。
クラウンは気楽に、呟いた。旧友にでも会えばそう挨拶するだろう、その程度の感覚で。
「久しぶりだな。七年ぶりか」
「……!」
当然というべきか。彼は取り合わず、もう一度踏み込んでくる。
ただしカラッゾはもうナイフを捨てていた。今度は片手でもない。刺突、斬撃、切り払い。すべてを織り交ぜてくる。奇襲はなくなったが隙もない。
改めて感じる練度だ。この男はこれまでの人生すべてを剣にかけてきたのだから。
振り下ろされる一撃を――
下方から、耐える形で受け止める。強引に鍔迫り合いの形に持ち込んで、再び彼は膠着させた。そうなれば当然不利なのはこちらだが。
「そうだな、久しぶりだ……! 実に長い七年だった!」
余人が入り込めないこの距離で、カラッゾは軋るように、言ってくる。その顔には笑みすらあった。戦士が浮かべる清い笑みだ。好敵手にまみえたとでもいうような。
「貴様がいるということは、あの方もいるんだろう……! ならばあのレキという少女は、影武者か……!」
「いいや。あの“ニコラエナ”は別口だ。俺たちは関係ない」
「そうか……ならば!」
叫んで刃に力を込める。逆らわず流れを誘導して、クラウンは絡まった剣を弾いた。
この距離は自分の距離ではない。下がるが、動きを読まれた。引くに合わせて距離を詰め、そのたびに眼前を刃が躍る。
剣での勝負はあちらに分がある。意表を突かなければ――
相手の意図を察して、クラウンは地に足を縫い付けた。放たれる刃の軌道をどうにか見切って受け止める。衝撃に、剣を掴む手が悲鳴を上げたが。
彼は話がしたかったに違いない。彼が望む情報を知るのはクラウンだけだからだ。
吐息が触れるほどの距離にまで剣を押し込み――カラッゾは、こう問いかけてきた。
「ニコラエナ様は息災か……?」
答えるのはやぶさかではない。
だが……どう答えればいいか、迷ったのは確かだった。
あの娘は元気だ。あの娘は元気にお前を殺したがってるぞ――最初に口にしようとしたのはそれだった。
そう言われたこの男がどんな反応を示すか。それを知りたかったのも迷わせた一因ではある。
だが、やめた。
「――いないよ」
「……?」
理解できなかったのか。剣を握る手の力が消えた。
いや。理解できたはずだ。そう難しいことを言ったわけではない。理解を拒んだのは彼の心か。だがどうでもいい。
彼は素直に真実を告げた。
「ニコラエナなんて女は、もうどこにもいないよ」
「は……?」
呆然とする男の反応を、彼は予想できていた。何故かと問うまでもない。
野盗狩りの“ニコラエナ”の誕生をこの世で一番喜んだのは、間違いなくこの男だとわかっていた。
それでももう、“ニコラエナ”なる女はいないのだ。
あの娘はそれを選んでしまった。
カラッゾの刃を弾き、クラウンは後退した。彼は追いかけてこない。
男の顔に浮かぶものが何か。それをクラウンは知っている。
絶望だ。
(悪いな。お前を哀れに思う。クライスのために忠誠さえ捨てたお前を)
それを言葉にはしなかった。そのままクラウンはカラッゾに背を向けて、正門の外へ駈け出した。
領騎士は既に、別ルートからあの娘を捜索しに出ている。足止めはもう意味がない。各個撃破に切り替えた。もうここにいる意味はない。
最後に一度だけ、クラウンは背後を振り向いた。
カラッゾは追ってこなかった。




