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オルトロス  作者: アマサカナタ
20/33

4-6

 鮮烈な――あまりにも、ただ鮮烈な女の悲鳴に――



「……この、声――!?」


 ドギーは息を詰まらせて、思わずその場に足を止めてしまった。先行するクラウンも、それに気づいて足を止めているが。


 予想以上に、その悲鳴は長く館を震わせた。何を叫んだのかはわからない。だがこの声の主をドギーは知っていた。

 それだけに、彼女がまだ生きているという安堵と、それ以上の焦燥とに心が逸る。


 領主の政務館。闇夜に紛れて侵入したその玄関ホール。静まり返り灯りも消えたその中で、クラウンの呟きは不気味に響いた。


「まずいな」

「……何が?」


 顔を隠すための仮面を身につけ、その下からの言葉だ。ドギーもまた同じ仮面をしていたため、聞き返す声はくぐもっていたが。


「領騎士の宿舎は同じ敷地内だ。あの叫びが聞こえてたら、領騎士に警戒されるかもな」


 だから俺たちも急がなければならない――彼の言葉は、そこまでは続かなかったが。


 言われるまでもなく、ドギーは即座に駆け出していた。声の方向は見当がつく。道を間違える恐れはなかった。階段を駆け上がる。見つけたそれらしい扉を、彼女は蹴り開けた。


 その部屋は惨憺たる有様だった。


 光量が少ない薄闇に、漂うのは鉄錆びの匂い。

 彼女たちのすぐ目の前に、五人の男たちがいた。壁のように一列に並んだ四人の領騎士と、ジーリーと呼ばれた痩せぎすの男。その足元に転がっている、数多くの死体と生首。


 何がどうなったらこのような殺害現場になるのか、まったく理解はできなかったが。


 二つを、ドギーは視界に納めていた。


 領騎士の足元に転がっている、放心したように呆けた女と。

 デスクに座っている、驚愕に目を見開く壮年の男。


 殺すべき敵がそこにいた。


「仮面の、女……!?」

 誰かが、声を上げた。おそらくは領騎士だ。心の内の冷静な部分は、どうにかそうした些末な情報も抑えてくれる。

 だが既に感情の大半は熱のような何かに支配され、体はそれに合わせて火照っていた。


 両手で袖元のナイフを引き抜く。


(私、は……!!)


 憎き仇敵を正面に見据え、ドギーはその場から飛び出した。


 未だ狼狽える男の一人に右の刃を投じ、その眼窩に穴をあける。手を引いてナイフを引き寄せれば、そこには肉片がこびりついていたが。


(――邪魔をしないで!!)


 叫ばない。心の底で怒号を上げて、ドギーは突撃を敢行する。


 残り四人の人垣が、襲撃と気づいて散開した。一人はその場で刃を構え、残る二人は援護のためか、構えた男から距離を取る。痩せぎすの男は悲鳴を上げて逃げ出していた。


(三人倒すだけでいい。そうすれば私の目的は果たせる……!)


 逃げた男は感情から外し、剣を構えた男にドギーは向き直った。その傍らを風が吹き抜ける。人間大の風だ。残りの二人は彼が相手にするだろう。自分は一人をどうにかすればいい。


 踏み込むドギーの動きに合わせ、その男は前進した。構えた得物は長剣だ。リーチの差で不利なうえ、質量差から受け止めることもできない。先ほどのような不意打ちも効かないだろう。

 ならば一瞬でも隙を作る。接触よりも早く、ドギーは左のナイフを放った。止まるならばそれで良し、止まらなくとも――


 その一撃。男はナイフを最小の見切りでかわしてみせた。

 それを見てドギーも左手を薙ぎ払う。男からしたら突然手を振ったようにしか見えないだろう。だが。


「……!?」


 男が突然驚愕を浮かべ、一瞬行動を遅らせた。

 ドギーが放ったナイフには鋼線が繋がっている。それに触れて、謎の攻撃と錯覚した。実際には攻撃と呼べるほどの威力はない――首にかすらせた後に鋼線を引いて、頸動脈を裂くほどの技量はドギーにはない。


 だが何にしろ、隙は隙だった。その一瞬の停滞に合わせて、ドギーは敵の懐に踏み込む。


 ゼロ距離であれば取り回しの効かない長物は不利だ。逃げようとする領騎士の右手を左手で掴む。接触にぎょっとする男の顔を見ながら――

 ドギーは即座に、右のナイフを男の手首に走らせた。腕から鮮血を拭かせて、男は剣を取りこぼす。


 その程度で人間は殺せない。だがそれでもその男を無力化した。


 わずかに存在していた時間の猶予で、ドギーは辺りを見回した。状況の変化がどうなったのかをそれで知る。クラウンは既に二人の男を昏倒させていた。だけではない。


「貴様ら――何者だ……!!」


 既にデスクから離れ、剣を手に踏み込んできたカラッゾを止めている。領騎士から奪ったのだろう長剣で、鍔迫り合いに持ち込んでいた。


(今加勢に向かえば、私の目的は達成できる……)


 復讐だ。この七年間、それだけを糧に生きてきた。人殺しの術をそのために覚えたのだ。


 何もかもを失って、そして何もかもを捨てて。

 だが。むなしくドギーは悟ってもいた。

 このタイミングではないと。


 もし運命があるのなら、この瞬間にドギーが取るべき行動は決まっていた。


 カラッゾから眼を離し、ドギーは床を見下ろした。そこには虚ろな目をした女がいる。焦点の合わない眼で、涙を流すニコラエナが。

 この騒動に一切反応せず、その女はずっと仲間の首を見つめていた。


 見覚えのある男の顔だ。その顔は、何かを託すかのように安らかに目を閉じている。


「――敵襲! 敵襲だ!! 領騎士は直ちに政務館へ集合せよ! 繰り返す――」


 と――ドギーは舌打ちした。先ほど逃げ出した男の声だ。この部屋の外に出て、悲鳴にも近い叫び声をあげている。時間の猶予はない。躊躇っている時間も。

 断腸の思いで振り切る。ドギーは叫ぶ男の声に負けぬほど大きく、クラウンに叫んだ。


「ニコラエナは確保! 逃げるわ!」

「バルコニーだ!」


 間髪入れずにクラウンの返答。それだけで察して、ドギーは女を担いでバルコニーへと走り出した。


 窓を開ける時間すら惜しい。それがわかっていたから、クラウンが剣を投げて窓を割ることも予想できていた。耳をつんざくガラスの悲鳴。その中を突っ切るように踏み入る。


 湿った夜気が肌に触れる。空は晴天、星明りの空を、遠くの街並みが焼いている。

 火事だった――だがそれ故に好機だと知る。領騎士や騎警はそちらに意識が向いているはずだ。


 バルコニーの限界ぎりぎりまで駆け寄る。その頃にはカラッゾをやり過ごしたクラウンが追いかけてきていた。自分の膂力ではニコラエナを抱えて飛び降りることはできない。

 それがわかっているから、ニコラエナの体をクラウンに預けた。

 そして二人して飛び降りる。二階ほどの高さから。足場を失った永遠とも思える一瞬を終えて、着地する。


 振り向いて頭上を見上げれば、そこにはバルコニーから身を乗り出している仇敵がいる。

 彼と、確かに目が合うのを感じた。仇敵がドギーを見ている。その鉄面皮に感情を隠して。


(覚悟を決めて、待ってなさい。私は必ず、あなたを殺しに戻ってくる……!)


 宣言だ。それを口にはしなかったが。伝わればいいと、心の底からそう念じて。


 ドギーは走り出した。領騎士の出動が重なって、正門は開かれたままだになっている。逃げ出すのに塀を乗り越えるような苦労はしなくてよさそうだった。好機に好機が重なっている。


 だが騎士宿舎から飛び出してくる敵影を認めて舌打ちもした。逃げ出すにしても、追跡されることになる。どうにかして撒く方法を考えなければならない。

 先行していたクラウンが、唐突に正門の前で足を止めた。


「どうやら逃げ切れそうにないな」


 その呟きは、はっきりと聞き取れた。諦観とも観念とも様子は違うが。

 ドギーが追いついてくるのを待って、切り出した。抱えたニコラエナを譲るようにしながら、


「君は彼女を抱えて、このまま逃げろ。場所はエリーの宿でいい。ただし、決して見つかるな」


 相変わらず、口数少なく彼は言う。状況を思えばそれが正しい。だが。

 彼が何を言いたいのか察して、それでもドギーは問いかけていた。


「あなたは、どうするの」


 わかってるんだろ? と、彼は言わなかった。

 代わりの言葉は、それよりももっと彼女の心に踏み込んだものだ。


「決断をした時点で、こうなることはわかっていた。君の目的のために俺を利用しろ。俺はそのためなら何でもする。そういう約束だ」


 それだけだ。それだけを告げて、彼はドギーに背を向けた。

 もう言葉などいらないというように。

 事実、猶予はない。領騎士が敵の姿を認めて、武器を構えて近づいてきている。


(あなた、まさか、死ぬ気で――)

 言おうとした言葉を、彼女はすんでのところで飲み込んだ。そんなことは訊くべきではない。もし本当にそのつもりだったとしても。


 もし言えば、彼はその通りにしただろう――たとえ命令でなくとも、彼女のためになら。


 だから、ドギーは命令を残した。


「必ず帰ってきて。私には……まだ、あなたが必要なの」

「ああ」


 簡素な返答だが。彼が約束を違えることはない。絶対にだ。


 そう信じたから、ドギーはニコラエナを背負いなおすと、無明の闇の中へと走っていった。

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