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オルトロス  作者: アマサカナタ
19/33

4-5

「申し訳ない。どうにも仕事が終わらなくてね……招待しておいて客人を待たせるのは、無礼だとわかってはいるんだが」


 それがその男のあげた第一声だったことは、正直に言えば意外なことではあった。


 デスクに座るその男を、レキは殺意を隠さず睨みつけた。金髪の、壮年の男をだ。


 元は騎士の将軍だったという通り、鍛え抜かれた体躯に隙はない。書類に判をつくその男の意識が、その実一度もこちらから離れないことを、レキは見抜いていた。


 その男――フレイン地方領主は立ち上がると、キザに一礼して名乗りを上げた。


「まずは夜分遅くにご足労いただいたことに、謝罪を。そして、招待を受けていただいたことに感謝を申し上げる。私がこのフレインの統治を任されている、カラッゾだ」

「…………」


 不愉快も不機嫌も隠さないレキの態度に、カラッゾは苦笑したようだった。それにまた不愉快を感じる。

 好ましい態度でないのはわかっていたが、レキは吐き捨てるように告げた。


「話がしたいって言うから来たんだ。だったらさっさと終わらせてくれないか」

「その前に一つ確認しておきたい。私は君をどう扱えばいい?」

「……?」


 唐突な問いに眉根を寄せる。

 と、カラッゾは言葉を選ぶように慎重に言ってきた。


「君が“ニコラエナ・ファルク・クライス”なら、私は君をそう扱わざるを得なくなる。君がただの“ニコラエナ”なのかどうか、それを確認したい」


 言いながら、彼はレキにもわかるように視線を動かす。

 彼が何を見たのかはすぐに分かった。政務官の執務室には、今三人の人間がいる。自分と、カラッゾと、あともう一人。ジーリーだ。

 彼が何を言いたいのか、それで察した。これは警告だ。


 だがそれを素直に受け取れる気分でもなく、レキは問いかけをそのまま投げ返した。


「知るかよ。どっちだろうが、どうやって証明しろって言うんだ」

「ふむ。なら、今はただのニコラエナとして相手をしていただく。それでよろしいかな」

「勝手にしろよ。仲間を一人殺されて、人質まで取られてるんだ。あたしに否定の権利なんかない」

「……殺されて?」


 聞き慣れぬ単語を聞いたように、カラッゾが顔をしかめて繰り返す。

 その白々しい態度に、レキは犬歯を剥いて軋りあげた。


「とぼけるなよ。見せしめのためにミハイルを殺したんだろうが……!」


 許せないのはそれだ。彼が殺されたのは、他ならぬ自分のせいなのだ。それを命じた男たちを前に、レキの思いは八つ当たりなのかもしれない。

 敵に隙はない。だがこの会談の間に、彼女は己の敵を殺すつもりだった。重心は常に低く構える。いつでも飛び出せる姿勢を気取られぬよう維持しながら、レキは男を睨みつけた。


 だが。


「――ジーリー」


 睨んだ男の形相が変化したことに気づいて、レキは一瞬、たじろいだ。


 カラッゾが何かしたわけではない。彼はわずかにまなじりを上げただけだ。それだけで空気が変質する。呼ばれたジーリーの方を見ると、彼は卑屈な笑みを浮かべていた。

 その男に、感情を殺した冷たい顔で……彼は問う。


「私が命じたのは、彼女の招待だったはずだな? 見せしめとはなんだ?」


 答えるジーリーはにべもない。浮かべた表情はそのままに、彼はしゃあしゃあと嘘をついた。


「さあ? 私は知りませんな。もしかしたら、部下が何かやらかしたのかもしれませんが」

「テメエ――」

「なるほどな」


 自身の叫びと、カラッゾの納得と。二つの声が重なって、だがレキはハッとカラッゾを見た。

 カラッゾに気圧されたわけではない――もっと単純に、カラッゾが動き出したからだった。


「どうやら貴様は、ほとほと私を怒らせるのが好きなようだ」


 彼はその場で抜刀した。スッと聞こえた鞘鳴りの音は一瞬だけで、それだけで技量の高さを感じさせる。

 だが恐ろしいのはそれではない。彼の眼だった。ジーリーから一時たりとも離れない、怒りの瞳。


 それに睨まれて、ジーリーは一瞬、確かに息を途絶させた。


 殺意が目に見えるなら。ふとレキはそんなことを連想した。殺意が目に見えるなら、今この空間はそれで埋まっているに違いない。それほどの濃密な鋭さに、レキは身動きすらできなかった。


 だが、彼はうんざりと息を止め、そのまま刃を納めた。

 殺意を霧散させて、命令する。


「あの七人を呼んでこい。今すぐにだ」


 何か一つ間違っていれば、ジーリーは死んでいたに違いない。それをわかっているからか。彼は是非もなく頷いて、駆け出した。急いで部屋を後にする。


 残されて、レキはカラッゾを見やると、彼は疲れたようにデスクに座り込んでいた。手を組んで肘をデスクの上に置き、そこに頭を垂れると、辞儀するように言ってくる。


「すまない。手違いがあったようだ」

「……手違い、だと?」


 たったそれだけだ。それだけの言葉で、この男はミハイルの死を片付けようとしている。

 茶番に消えかけた怒りが再び灯るのを感じて、レキはその男のデスクに身を乗り出し、抗弁した。


「お前らは手違いで人を殺すのか――人を殺しておいて、たったそれだけで済ませるのか!?」

「そうだ、言葉で取り返せるものではない。だが現実は変えられない。だから、というのも変な話だが。起こってしまったことは受け入れるしかないんだ。それがどんなことであれ」

「お前らは……!!」


 勝手な物言いに、レキは我を忘れかけた。


 武器になるなら何でもいい、それを探して彼女はデスクの上を見やった。それを阻むように、カラッゾはレキの鼻先に指を突きつけた。

 まるで凶器でも突きつけられたかのような錯覚に、一瞬レキの思考が止まる。


 その一瞬にねじ込むように、カラッゾは宣言した。


「わかっている。この件に関しての断罪は約束する。私の名においてだ」


 男の目を見返して、レキは黙り込む。それはおそらく、奇妙なことだったに違いない。

 この男は敵だった。それは間違いない。

 だがこの男の噂はレキも知っていた。公明正大なフレイン地方領主。


 だからこそ、レキは躊躇した。この敵を信じていいのかどうか。


 それを判断する前に、聞こえてきた足音があった。


 ジーリーが戻ってきたにしては数が多い。扉を開け入ってきた数は、八人だった。

 ジーリーと……七人の、男たち。彼ら全員に、彼女は見覚えがあった。先日の野盗だ。

 彼らが横一列に整列するのを待って、カラッゾはこう切り出した。


「さて、役者がそろったところで本題に入ろうと思う」


 視線を彼に戻せば、既に彼は立ち上がっている。整列した七人の前に、彼は歩き出した。

 沈黙を味わわせるように黙り込み、彼らをじろと睨みつける。七人を前に、クライス人がカーライル人を睨んでいる。その光景は、今のフレインを思えば異様な光景だった。


 しかもカーライル人は……たった一人のクライス人に、怯えている。


「フェルグ。私が貴様に与えた任務。覚えているか?」


 呼ばれ、男の一人が顔を引きつらせる。七人の中で最も年嵩に見える男だった。宿に捕えていた時に口論したのとはまた別の男だ。


「……は、はい」

「ならばここで、もう一度復唱せよ」


 うろたえた返事に、カラッゾは容赦ない命令を下す。


 それで、この尋問の趣旨を悟った。レキが告発した領騎士の野盗化についてだ。彼らは超法規権限の承認書を持っていた。それを発行したのは当の領主だ。

 その彼が、知っているはずの任務をここで説明せよという。

 フェルグは、だが答えない。沈黙が長引けば長引くほど、彼の頬には冷や汗が伝う。


 やがて観念したのか、男は震える唇を開いた。


「わ……我々領騎士七名は、超法規権限でもってバスクアッド街道にある宿を一時的に徴発。以後宿を拠点として、フレインに訪れる旅人を監視する任を賜りました」

「そうだな。私が貴様らに命じたのは、あくまでも“監視”だ。もし仮に“銀髪の女”を見かけたのなら、即座に報告のために帰還せよとも伝えたはずだな。それを――」


 ギシ――と。


 その音は、今日聞いた物音の中で何よりも不吉な音だった。

 カラッゾが握りしめた、剣の柄がきしんだ音。


「それをどう受け取ったら、領民を殺害せよという命令になった!? 承認証のせいで、私が貴様らに蛮行の許可を与えた形となったのも不愉快だ。貴様らは……私の命令の、いったい何を聞いて凶事に及んだのか!?」


 黙り込んだまま男たちを、カラッゾは凝視する。レキもまた、同様に彼らを睨みつけていた。領主の命令だと告発したあの件は、結局領騎士の勝手な暴走だったのだ。

 ただの私利私欲のために……何人ものクライス人が殺された。


「つまりはこれが、昼の件の真相だ」


 レキの方を振り向いて。カラッゾは、苦笑によく似た皮肉げな顔で言ってきた。


「私が君を呼んだ理由は、まず一つ目にはこれを君に知らせるため……ひいては領民に謝罪するためだ。この件に関して責任は私にある。相応の償いはしよう」

「……一つ目には?」


 奇妙な物言いに、顔をしかめる。彼は小さく頷いた。

 そして言うよりも先に、行動で示した。


 まず最初に耳に届いたのは、ヒュン、と軽い風を切る音だった。ついでスタ、と歩くような音。それがそれぞれ順番に三回。時間にして三秒か。その程度の時間だった。


 ――その程度の時間で、七人が死んだ。


 悲鳴も何もなかった。ハッと顔を上げた時には、傍らにいた七人の男たちの、首から上は消えていた。噴出した血がジーリーを濡らす。死んだ男たちの顔は、床に落ちていた。


 事態に理解が追いつかないまま、レキは動けず彼を見ていた。

 彼が七人を殺したのだと気付いたのは、それからしばらくしてからだった。立ち尽くす男たちの体が倒れてから。


 呆然とする彼女の目を、その言葉が覚まさせた。


「そして二つ目には、領民に、これを証言してほしかったからだ」

「――ッ!」


 こみあげる嘔吐感を我慢できず、彼女はくずおれて床に胃の中の物を吐き出した。鮮血に塗れた顔が彼女を見ている。光を失った瞳孔が。


 その惨状に、重なる光景があった。レキの忌まわしい記憶。レキの全てはそこで終わった。惨劇の記憶に引きずられて、レキは吐瀉物の上に更に胃液を吐き出した。


 そんな彼女を高みから見下ろして、平然と先を続ける、声。


「君が領民を焚きつけたおかげで、一時は暴動寸前にまでなった。このままの状態が続くなら、フレインはいずれ領民の暴動をきっかけとして混乱状態に陥るだろう。彼らを鎮めるためには、君の声が必要だ。君と和解したという証が欲しい」


 だがレキは、その声を聞いていなかった。

 訊いていたのは自分の声だけだ。内側から外側へと爆発するように膨れ上がる、心の絶叫。押しとどめようとしても、その方法がわからないほどの。


「……おま、えらは――」


 それが弾ければ、もう止まらない


「人の命を! なんだと思ってるんだ!」


 悲鳴のように、彼女は叫んでいた。無駄だとわかってはいても。衝動に逆らえず、レキは男たちを糾弾した。自分が“ニコラエナ”であることも忘れて。


 そしてその瞬間に、レキは自分が間違えたことを悟った。


 呆然と、表情を弛緩させた男が、こちらを見ている。その顔が何を意味するのか、レキにはわからない。だが、自分が致命的な失敗をしたことはわかってしまった。

 彼は――カラッゾは、しわがれたような声音で、こう言った。


「君は……誰だ?」


 なぜバレたのか。それはわからない。

 だがもうそんなことはどうでもよくなっていた。


 先ほどの失言のどこにバレる要素があったのかもわからないが。自分が自暴自棄に陥ったのを自覚しながら、もうレキには何もかもがどうでもよくなっていた。


「ケーネスって村を知ってるか」


 六年前に滅びた村だ。

 カラッゾと、ジーリーの顔を覗き込む。復讐すべき二人の顔に、いったいどんな色が浮かぶのか。

 ジーリーは思い出した様子もない。空惚けているわけでもないだろう。彼は本当に、まったく何も覚えていない。

 カラッゾは。


「…………」


 無言だが、全てを悟ったように目を見開いていた。

 それを見て、レキは仄暗い満足を感じていた。


「知ってるだろう。お前の最初の仕事だもんな。野党に襲われて滅びた村だ。その野盗を捕まえるのがお前らの仕事だったんだよな? ……ハッ。笑わせるよな。ケーネスに野盗がいつ来たってんだ。あの村が野盗に襲われたことなんて、一度だってありゃしない」


 ケーネスは何の変哲もない村だった。辺境とされるフレインの中でもさらに辺境に存在し、地元民以外の誰からも見放されたような、そんな寂れた村だった。


 なのにケーネスは滅ぼされた。カラッゾとジーリー。領主と領騎士の手によって。


 何故かといえば答えは簡単だ。そこに“ニコラエナ”がいたからだ。

 亡国の姫を匿ったことから反逆の罪を問われ、反論の機会も与えられないまま虐殺された。


「あたしはケーネスの、最後の生き残りだ。それがどういう意味か分かるだろ――お前らは、見当違いの罪であたしの村を壊したんだ! あの村にいたのはニコラエナじゃない……あの村にいたのはあたしだったんだ!」


 そう。それが“ニコラエナ”の生存をレキが知った理由だった。


 その対価にレキは全てを失った。父を殺され、逃げ遅れた母と弟は炎に巻かれた。燃える村はただの屠殺場だった。誰も彼もが殺されて、何もかもが業火に焼かれた。


 恥も外聞もかなぐり捨てて。その男二人を嘲笑うためだけに、名乗りを上げた。


「あたしはレキ――レキ・アルバーナ! いわれなき罪科で焼かれたケーネスのために――お前らに復讐するために……そのためだけに、あたしは今まで生きてきた!」


 だから“ニコラエナ”を名乗ったのだ。自らの罪業でもって彼らに報いる、そのためだけに。

 だがそれも終わりだ。すべてご破算だった。


 疲れ切った心地で、レキはカラッゾを見やった。憎むべき仇を。彼は無言でこちらを見つめ返している。ひび割れた無表情――奇妙にも、そう感じる顔で。

 完璧に隠しきった動揺を……だがその眼だけは、隠しきれていない。


「会見は終了だ。私は私の目的を果たした」


 その顔で、彼は呟いた。


「……ジーリー。彼女とその仲間に手出しは無用だ。丁重に、とは言わん。だが――」

「――いいえ、カラッゾ様」


 その言葉を遮って。


「まだです。まだ……私の用件が終わっておりません」

「貴様の用件だと?」

 変化があったとすれば、この時だった。


 風向きが変わったような、奇妙な。だが室内に風があるはずもない。

 ハッと、レキは窓の方を振り向いた。そこには闇がある……見通せぬはずの夜の闇が。


 その闇の中に、赤色が見えた。空を焦がすような……禍々しい赤色が。


「火事……!?」

「言ったでしょう? 見せしめだと」


 ばっと視線を戻せば、ジーリーは頬を吊り上げ笑っている。


「ジーリー? 貴様……」


 今度こそ、限界だったに違いない。放火は当然重罪だ。即刻死刑が確定する。それが組織的なものであれば、関わった者全ても罪を免れない。


 だが大見得を切る形で、ジーリーは大げさな物言いでカラッゾを止めた。


「おっと。カラッゾ様。あなたも動かないでいただきたい。確かに私の身分はあなたより下だ。ですが……私に与えられた権能は、状況によってはあなたを上回る。たとえば、今のように」

「……カーライル人を殺したからか?」

「いいえ。領騎士を、ですよ。私の報告次第では、あなたの首を飛ばすことも不可能ではない。まだ彼らの罪状が広まっていないのでね。フレインをカーライルの完全な占領下に置きたくないのなら、今は黙っていただきたい」

「…………」


 カラッゾの沈黙は、決して長いものではなかった。数秒を数えるほどの、そんなわずかな時間だ。その間にどれだけの葛藤があったのかはわからないが。


 形勢の不利を悟って、彼は黙ることを選んだ。無言でデスクに戻る。

 それを最後まで――下卑た笑顔で――見送ってから。

 ジーリーは切り出した。皮肉げで小馬鹿にした物言いで。


「さて、ニコラエナ様。あなたを無事に返すのはやぶさかではないのですが……あなたには、持ち帰っていただきたいものがあります」

「持ち帰るもの?」

「見せしめに必要なものとはなんでしょうか? 私はそれが、三つあると考えています。まずは、見せしめとして殺される生贄。これは当然必要だ。戒めるためにはその前例を示さねばならない。二つ目には、より凄惨で残酷な殺し方。戒めるべき対象に抱かせる恐怖は、大きければ大きいほどよい……さて。では、もう一つはなんでしょう」


 知るわけがない。だが漠然とした不安を感じてはいた。この話の成り行きだ。

 彼の言葉が、いったいどこに行きつくのか。それは少しずつ蓄積し大きくなる、ある種の恐怖でもあった。


「我々がどれだけ恐ろしい存在か。それを広める証言者です」


 予感していたのかもしれない。告げて、ジーリーは部屋の外へと号令を出した。

 ぞろぞろと、数人の男たちが荷物を抱えて入ってくる。黒い布の男たちかとも思ったが、違った。彼らは領騎士として正装している。


 その彼らが抱えていたものは。


 それは人に見えた――だが人とも思えなかった。


 何故かといえば、一切動きを見せなかったからだ。全身には赤色の線が走っている。それが何かは分からないが、彼女には魚のエラに見えた。赤黒い断面が露出している。

 その周りには赤い液体が付着していた。こんな人間は見たことがない。


 だからまったく別の何かだと思った。いや、思いたかった。


「あなたに見せびらかそうと思って、持ってこさせました。これが何か、わかりますか?」


 ジーリーが呟くまでは。そう信じていた。

 ジーリーはその何かの一つに蹴りを入れる。位置を直して、レキにもわかるように。


 その男はレキにも見えるように、それの、顔を――


「あなたの仲間たちだそうです」


 レキは絶叫した。

 震えて、ただ絶叫した。何を口走ったのかもわからない。悲鳴だったのかもしれない。罵倒だったのかも。

 自分が何を叫んでいるのかもわからないまま、レキはただ絶叫し、悲鳴を上げ、支離滅裂な言葉と共に突撃した。


(――殺してやる――)


 それしかもう思いつかない。そのための言葉しか思いつかない。震える手、震える指を男に伸ばす。掴んで、握り潰す。それ以外の行動を彼女は忘れた。


 そして衝撃に、彼女の息が止まった。動きも。痛みに見やると……腹部に、剣の鞘が刺さっている。奇妙な光景だと思った。刃ではないのだから、刺さるはずもない……


 剣の鞘で殴られたのだと気づいた頃には、レキはジーリーの足元に倒れこんでいた。見下ろす男は、笑っている。見下すようにレキを高みから。


「なんで、殺した――」


 忘れていた言葉を、痛みが思い出させた。動かない体を引きずって、眩む視界に敵を映して、


「こいつらが、何をしたって言うんだ……! なんで、殺したりなんか――」

「――アンタのせいだろ」


 聞き覚えのない声が、怒るレキの言葉を奪った。

 いや。聞き覚えならあった。知らなかったのはその声音だ。その男がレキにそんな声音をぶつけてきたことは一度もなかった。だから知らなかった。


 言葉を失って、レキはそれを呟いた男を見た。死んだと思っていた仲間の一人が、彼女を見ている。

 じっと……仄暗い陰をその目に宿らせて。


「アンタが本物だと思ったから俺たちは戦ってきた。アンタがフレインを救いたいって、そう言ったから俺たちはアンタについていったんだ。それが……復讐だと? 俺たちは、体のいいピエロじゃねえか」

「……カイ、ネ?」


 震える唇は、仲間だった男の名を呼ぶ。

 だが彼の目はもう、仲間を見る目ではなかった。愕然と、レキはその目に見覚えがあること思い出していた。彼が敵を見る目だった。


「アンタのワガママで俺たちは死ぬんだ。嘘吐きが……俺たちは誰のために戦った!? 何のために戦ってきたんだ!? 全部ぶち壊しだ。クソッタレ……クソッタレ!」

「……なん、で……?」


 それが誰の声だったのか。それすらレキにはわからなかった。消え入りそうに小さな声は、誰にも聞こえないほどに弱々しく響いて、消えた。何の意味もない言葉になった。

 カイネが、怒りのあまりに叫ぶ――


「――俺たちは、アンタのせいで殺されるんだ!」


 それが遺言になった。

 ただ、レキはその瞬間を見ていなかった。風を切る音が聞こえてきて、それっきり。何かが床に落ちて、レキの目の前に転がってくる。

 人の顔だった。


「……可愛そうに」


 ジーリーの呟きを、レキは聞いていなかった。

 もう何もわからない。何も考えることも、何もすることもできない。何も考えられないのだから、何を聞いても意味がない。


 彼は何かを続けている。だが、それが鼓膜を震わせても、頭の中には入ってこない。


「ニコラ、エ、ナ……さま……」

 と。聞こえてきた声があった。息も絶え絶えな、男の。その声は死体が上げていた。ジーリーがギョッと、その死体を見る。

 レキもまた、その死体を見ていた。

 フラック。


「私は、あなたを、しん、じ――」

 今度は、見ていた。ジーリーがゆっくりとフラックの元に歩いて行って、フラックの首を撥ねるのを。

 一瞬だった。

 たった一瞬で、もうフラックは動かなくなった。


 死。仲間の死。


 レキは悲鳴を上げた。

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