3-3
ドギーが駆け付けた時には、既に騒動は終わっていた。
政務館前の広場では、領民の姿もまばらになっている。本来ならばこの広場は、何かの行事がなければほとんど人がいない区域だという。それを思えば、今はまだ人がいる方なのだろう。
ニコラエナがここで何を語ったのか。それは辺りに聞き耳を立てていればすぐに分かった。正門前には十人近い門兵が待機しているが、彼らを無言で睨む若者がちらほらと見える。
一時はそれで暴動寸前にまでなったそうだが、今は一応その気配はない。
「……間に合いませんでしたね」
その呟きは、ドギーに遅れてやってきた、エリーが上げたものだった。宿を飛び出したこちらを慌てて追いかけてきたのか、エプロンをつけたままだ。
なんにせよ、ドギーはため息をついた。視線はエリーから離して、正門の方に向ける。そこであの女が演説したという。
この領に恐怖を振りまくカーライル人に、なんら臆することなく。
「仕方ないわ。どうせ間に合わないとは思ってたし。慌てて出てくる必要はなかったかも」
「…………」
「……?」
長引いた無言が気になって、ドギーは再び彼女を見やった。
何か別のものに集中していたのかとも思ったが、そうでもない。彼女の視線はこちらを向いていた。
ぼんやりと、だがどこか悲痛な面持ちで見つめている。
「エリー?」
「あ……すみません。少し、考え事をしてて」
「そう? まあいいわ。戻りましょう」
エリーが頷くのを待って、ドギーは歩き出した。
政務館はフレインのちょうど中心にあるが、エリーの宿は郊外と政務館とのちょうど中間の位置にある。走ればそう時間はかからないだろうが、ドギーは歩くことを選んだ。
人通りの多い道を優先的に選んでいく。理由がないわけでもない。領民の顔を見たかったからだ。あの女が作り出した変化を。
街は騒然となっている。噂の伝播が早いのか、はたまた聞いていた者が多かったのか。聞き耳を立てるまでもなく、そこかしこでニコラエナの名が聞こえてくる……
(亡国の姫が、正義を掲げて悪を打倒する……か)
よくある話、といっていいものかどうか。大昔に、そんな物語を読んだような気がする。あるいは舞台劇だったか。それと同じだとドギーは感じていた。
可哀そうなニコラエナが、巨悪と戦って領民を救う。領民にとっては聞こえのいい話に違いない――あるいは都合のいい話か。
都合のいい救いを与えてくれるお姫様。彼女によって、領民は熱に浮かされている。
(それをわかってしまう私は、きっと部外者に過ぎないんでしょうね……でも)
感じていたのは予感だった。それも、危惧や懸念といった類の。
「どう思う?」
隣を歩くエリーに尋ねた。下手な質問をしたと気付いたのは、口にした後からだった。これでは何を聞いたのかわからない。
言い直そうとして、ドギーはエリーの顔を見やった。
「……?」
そして首をかしげる。隣を歩いているはずのエリーは、だがわずかに遅れていた。はぐれるとまではいかなかったが、それでも奇妙な距離がある。
彼女は浮かない顔をして、やはりドギーのことを見ている……
「エリー」
足を止めて、上の空な少女に呼びかける。
彼女の反応は遅れたうえに、かなり素っ頓狂なものだった。
「え? あ、はい!? えぇと……何の話、でしたっけ?」
「何の話もしてなかったわ。ただ気になったから呼んだだけだけれど……あなた、さっきから変よ? どうかしたの?」
「…………」
今度の沈黙は、さきほど以上に長引いた。その頃にはエリーも足を止めている。
気まずさを感じさせる程度の沈黙を挟んでから、彼女はぽつりと呟いてきた。
「すみません。考え事が……全然、まとまらなくて」
「考え事?」
さっきもそんなことを言っていたのを思い出す。それが悩みだとしたら、踏み込んでいいものかどうか。それがわからず躊躇っている間に、エリーは覚悟を決めていたらしい。
自身の胸に拳を置いて、体を小さくしながら。それでも彼女は切り出した。
「――なんで、助けてくれたんですか」
「……?」
何のことか本気でわからず、ドギーはきょとんとまばたきした。だがすぐに思い出す。宿での件だろう。
結局あの後領騎士は去っていったので、ドギーが何かしたわけでもないのだが。
「別に、大したことをしたわけじゃないわ。どうせ宿の外に出たら、逃げるつもりだったし。見て見ぬふりをした方がよかった?」
深刻な問いかけに、だがドギーは気楽に呟いた。いい人ぶるのは嫌いだし、趣味でもない。
こんな話はさっさと終わらせるに限るから、彼女は皮肉げにそう笑った。
だが。
「私のせいで、誰かが傷つくくらいなら……その方がよかった」
予想以上に深刻なエリーの表情に、ドギーは笑みを引っ込めた。改めてエリーを見やれば、彼女は何かを堪えるように、エプロンの裾を握りしめている……
「お客さんだって、皆知らんぷりしてたじゃないですか。恨んでるわけじゃないんです。ドギーさんにも、できればそうしてもらいたかった。ここでは、それが当たり前だから……たぶん、私がお客さんだったら、そうしただろうってわかるから」
「…………」
「変な話、してますよね。でも、私が傷つくのは良いんです。あの人たちは私を目的にしてきたって言ってました。だったらそれは私のせいで。だからあの人たちが何かするなら、それは私がどうにかしないといけなかったんです。なのに……ドギーさんもそう。ニコラエナ様もそう。戦わなきゃいけないのは、本当は私たちなのに……」
失速した言葉にかける言葉があるかというと、ない。
「なんで、助けてくれたんですか」
同じ問いを口にして、うつむいてしまったエリーに。ドギーは無言を返した。
考えがあって行動したわけではない。理由など全く考えなかった。ただ自分がそうしたいと思ったからそうしただけだ。
それは善意ではない。言うなれば、エゴだ。自分の気持ちのためだけに自分は動いたのだ。
それは復讐と同じだ。貴いものでもなければ、感謝されるべきものでもない。
だから、ドギーは肩をすくめた。
「理由があれば、納得できるの?」
「わかりません。でも……あるのなら、聞かなきゃいけないと思ったんです。だから――」
「ないわ」
「……え?」
きょとんとした彼女に苦笑を投げる。
それが少女の求める答えでないことはわかっていたが。
「善意を信じたいのなら、理由があるなんて思わない方がいい。私は別に、あなたを助けたわけじゃないかもしれない。行動には理由があるとするのなら――……」
はたと、彼女は呟く口を止めた。たまたま視界に映ったそれに、目を奪われる形で。
彼女が見たのは、ただの大衆食堂だった。大通りに面していて、よほどの人気店なのか、野外にもテーブルが並んでいる。店は既に満員で、外にいる者の中には席に座れない者もいるが。
見とがめたのは、そこにいる者たちの気配に鬼気迫るものを感じたから――そしてその中心で、男がこう叫んだからだった。
「――ニコラエナ様こそが、俺たちにとっての正義だ!」
テラスから声が唱和する――そうだそうだ――いいぞ――その通りだ、と。
異論をはさむ者は誰もいない。声は外にいる者だけでなく、店の中からもあげられているようだった。
「領騎士なんて大層な名前をつけちゃあいるが、結局奴らは悪党だった! 正義のフリした悪党だ! なんであんな奴らにでかい顔をされなきゃならねえんだ!」
「あの野盗には俺のいとこもやられた! 敵討ちがしたい――」
「昨日の男、失明しちまったってよ。あれが人間のすることかよ、クソッタレ――」
「俺たちも姫様に続くべきだ! 悪には刃向うべきだ――ニコラエナ様がついていてくれる!」
「――ニコラエナ様を王に! 俺たちのクライスを取り戻すべきじゃないのか!」
「…………」
自分は今、どんな顔をしているだろう。
気になったのは、そんなことだった。
あの女の演説にあてられた者たち。彼らを遠くから見つめて。ドギーは知らず知らずのうちに、拳を固めていた。
奥歯を噛み締めた口の中に血の味を感じる。頬の肉を、知らずのうちに噛み千切っていたらしい。
「……? ドギーさん?」
沈黙が長くなりすぎていた。それはわかっていたが。
彼らから目を逸らして、ドギーはぽつりと呟いた。
「行動に理由があるとするのなら……それはもしかしたら、心底おぞましいものかもしれない」
そう。もしかしたら彼女の行動は、全て“王になるため”ということだってあり得るのだ。偽者が王となり、国を復興し、我が物顔で支配する。そのために。
「ドギー……さん?」
深刻ぶりすぎたかもしれない。気づいてドギーは調子を変えた。
「だからもし理由があると思ったなら、それは聞かないほうがいいわ。おためごかしって、気づくと心底不愉快なものよ? それに、暴力が怖いのは別に悪いことじゃない。恥じ入る必要はないわ。暴力は常に恐れなければならない。戦おうなんて思うべきじゃないわ」
「でも……」
「この話はこれでおしまい。帰るわよ」
言い切って、ドギーは歩き出した。エリーは何か言いたげな顔をしていたが、何も言わずに後をついてくる。
宿に戻ると、主人もいないのに食堂は満員になっていた。日中の仕事などほっぽり出して集まったのだろう。
あてられた連中ほどではないにしろ、会話の内容はニコラエナ一色だ。予想外の事態にエリーは面喰ったようだが。
「私は部屋に戻るわ」
「え? でも、ごはんは」
「いいわ。ちょっと……食欲なくなっちゃって」
告げて、ドギーは自室を目指した。階段を登って、廊下の先にある自室の扉を開く。
中に入って、彼女はすぐに扉を閉めた。
叶うのならば何でもいい、この喧騒から遠ざかりたかった。ニコラエナを語る者たちの喧騒から。だが扉を閉めても――窓を閉じていても、その熱量は肌に伝わってくる。
もし仮に空気に色があったのなら。ふと連想したのはそれだった。もし空気に色があるのなら。それは赤色に違いない。怒りの色。炎の色。燃えるように、大気を焦がす彼らの激情……
「それだけ、彼らが切実だったということだ」
その呟きにハッとして、彼女は室内を見回した。
入口から死角だった場所に、黒く佇む影がある。いや、実際にそれは影ではなかったのだが。あまりのらしさにそう錯覚した。
壁に背を預け腕を組み、彼は静かに言ってきた。
「領騎士の非道が暴かれた以上は、もう領民も遠慮はすまい。“ニコラエナ”はこの上ないタイミングで彼らを煽ったな。これから何が起こるのか、予想が出来なくなってきた」
「…………」
語る男に無言を返し、ドギーは窓に近寄った。
開けはしなかったが、ガラスに手を当てて外を見る。
街は一目見てそうとわかるほど、色めき立っていた。その騒ぎを作った当の女は、今どこにも見当たらない。彼女は騒ぎを起こすだけ起こして、人知れず姿を消したという。
「亡き者とされていた姫が、領民のために戦うというのは、領民にとって美談だろう。正義を御旗に革命か。扇動家としては上等だ。臆病者も、数が集まれば鬼になる」
「今まで、どこに行っていたの」
滔々と語る彼の声を無視して、ドギーは問いかける。
まるで非難しているようだと気付いたのは、呟いた後だった。
だが彼は気にしたそぶりも見せない。彼は質問を無視して問い返してきた。
「君の目的を、確認しておきたい」
「……私の目的?」
思わず鼻で笑ってしまった。そんなことを今更聞かれるとは思っていなかったのだ。
歪む顔は笑みを作る。皮肉に歪んだはずの顔だが。
窓に映った彼女の顔は、泣き笑いのようにも見えた。
「カラッゾを殺すことよ。そのためだけに、私はこの七年を生きてきた。忘れられるはずもない……」
今でも、まだ夢に見る。七年前のあの日のことをだ。
あの日、自分は何もできなかった。自分が無力であることも知らなかった。王国の姫という立場も知らず、日々をただ安穏と生きてきただけだった。
(もし……もしも今の力を持ったまま、過去に戻れるのなら……)
それはただの妄想だ。それはわかってる。だが、やめることもできない。叶わない願いだとわかっていても。願わずにはいられない――過去を全て、なかったことにできるなら。
その頃には笑みも消えていた。
気分は萎えて、彼女は背後に振り向いた。
「……なんでそんなことを聞くの」
そこに佇む男は、静かにこちらを見返している。
彼は簡潔に、こう返してきた。
「君が集中できてないからさ」
「集中?」
「君は、あの女も殺したいと思っているのか」
「…………」
唐突な質問に、息を詰まらせる。
答えはわかっている――殺したいに決まっている。
だからこそ、彼女は即答できなかった。
(あの女が扇動者になれば、領騎士はそれを許さない。領民が扇動に乗れば、たくさんの血が流れる。たとえ彼女の主張が正しいとしても。どうせなら、そうなる前に……)
それは建前だ。殺さねばならない理由ではあっても、心の底にある本音からは遠い。
だが、既にクラウンはこちらを見透かしている。
彼は更に踏み込んで、ドギーが隠した心の虚まで引きずり出した。
「“取られた”のが、そんなに悔しかったのか?」
「…………」
黙り込んだのは図星だったから、ではない。確かに彼の言葉は真実だったが。
彼女を黙らせたのは、ただ純粋な怒りだった。
それをわざわざ聞いた彼への。
それでも冷静な部分が、彼女にカーテンを閉ざさせた。これからする話は、誰にも聞かれてはならない。
「悔しかったか、ですって?」
カーテンで日差しを隠し、その影の中で彼女は笑った。
あまりにも不格好だと自分でもわかってしまうほど、それは不出来な笑みだった。
「ええ、当然でしょう。妬ましくてたまらない。私はドギー。“負け犬のように惨めな女”。クライスの姫だった私は死んだ。もう二度と“ニコラエナ”を名乗れない……なのにあの女は、私の目の前で“ニコラエナ”を名乗った。領民の前でそう名乗り、あまつさえ認められさえした……これが屈辱でなくて、なんだというの?」
「名乗れないなどということはない。君が望むなら、君はいつだってニコラエナになれた。選ばなかったのは君自身だ」
「――人殺しが! どうして姫を名乗れるというの!」
そこが限界だった。とうとうこらえきれず、彼女は泣き叫ぶように声を荒らげた。
「何が選択よ……目の前でお父様を殺されて、いったい何を選べたと言うの。復讐以外の、いったい何を! どれだけ取り繕ったって――どれだけ押し隠したって、この思いは消えてくれないの。あいつを殺したい、あいつを八つ裂きにしたいって――それだけを考えて生きてきた。そんな女が、どうして今更姫を名乗れるの!?」
「宮廷というのは、君が思うほど綺麗な場所じゃない。人を殺したことのない王族などいない」
「そう。だから私の殺意は許される? そんなわけないじゃない。私はもう、取り返しがつかない場所にいるのよ……」
言葉は失速して、最後にはかすれ声に化ける。
――そう、取り返しがつかない。彼女にはそれがわかっていた。
まだこの手を血に汚したことはないが。取り返しがつかないのは心の方だった。この手が血に染まってなかろうと、心は既に血まみれだった。
家族も、姫としての生活も。安寧も、すべて失った。人並みの人生も、女らしい生き方も、王族としての使命も、何もかもすべて捨て去った。
そうまでして、仇をかみ殺す牙が欲しかった。そうすることしか彼女は選べなかった。
復讐だ。父を殺した怨敵を殺す、それしか自分には残されていなかった。
それに気づいた時には遅い。その時には、自分は“ニコラエナ”ではなくなっていた。
自分からやめたのだ。泣くことしかできない哀れな姫であることを。
憎悪に歪んだ顔を伏せる。漏れ出た声には悲嘆があった。
「後悔してるわけじゃないの。“こっち”を選んだのは私だから。それでも……あの頃に戻りたいと思うのは、間違ってるの?」
七年前のあの日。追憶のたびに思い出す光景は、いつだってそれだった。
燃える世界と、殺された父と。あの日の惨劇以外を、もう彼女は思い出せない。全ては炎に焼かれて、跡形もなく消えてしまった。
それでも、戻りたい。戻れるのならば――もう一度、父に会えるのならば……
徹底して現実的な冷たい声音が、ドギーの気持ちを凍てつかせた。
「彼女を殺しても、君に戻れる場所はない。わかってるんだろう」
言われるまでもないことだった。あの女を殺しても、父が帰ってくるわけではない。
ドギーは闇に佇む男を見つめた。父の友人であり、かつては宮廷道化として父に仕えた男を。
彼はいつものように超然と、無感動に告げてくるだけだ。
「“ニコラエナ”になりたいというのなら、それはそれで構わない。君はしたいことを言えばいい。君が決めたなら、俺はやる。それがなんであろうとだ」
わかっている。それを疑ったことはない。だからこそ……彼は自分に決断を迫る。
彼を悪魔のように思うのは、そういう時だ。
道を示し、道に化け、時には道を切り開く。
――だが、決して導いてくれはしない。
「カラッゾって、どんな奴なの」
ドギーは、悪魔のような男に問いかけた。
馬鹿げた話だと思った――殺したい相手のことを、自分は何一つ知らないのだ。素性も、性格も。ドギーは敵の顔しか知らない。
それだけを糧に憎悪を繋いできた。
「エリーが言ってたの。領主としてカラッゾが来るまでは、領騎士の悪行はもっとひどかったって。今まではお父様を殺して、私腹を肥やした悪い奴だとしか思ってなかった」
今までのイメージと、エリーの語った領主としてのカラッゾは矛盾する。もし彼が悪党だったのなら、ドギーはこんなことを聞かなかった。
今まで聞かなかったから答えなかっただけか。彼はすらすらと、書物から一文を読み上げるように言ってきた。
「経歴くらいは君も知っているだろう。騎士の名門の家系に生まれ、若くして将軍の地位にまで上り詰めた。優秀で、高潔な男だったとされる。俺から見た彼の評価は……そうだな。極めて正しい人間だ」
「極めて、正しい?」
思わず繰り返した言葉を、彼は首肯する。
「そうだ。正しすぎるくらい、正しい人間だ。十人を救うためなら九人を見殺しにできる。百人を救うためなら九十九人を自らの手で殺せる。そういう男だよ。その責任を自ら背負うことを躊躇わない。その愚直さ故に、ファーレンは彼を重宝した」
「……そんな人が何故、お父様を裏切ったの」
問いかけながら。既にドギーは、答えが予想できていた。
聞きたくないと、心は言う。だがクラウンはそんな彼女の痛みには気づかず、あるいは知らないふりをして、何の変哲もないことのように、言った。
「君の父親の首をカーライルに売ることで、彼は停戦協定と講和条約を結んだ。王権と引き換えに、彼は人民への被害を最小限に抑えた。裏切り者の汚名を着ることもわかっていただろう……カーライルの思惑によって、ファーレンは戦死になったが」
「…………」
「ベルクハイル砦とレイゲングラード平原。二つの敗戦で、クライスの敗北は明確だった。カラッゾがあの選択をしなかったのなら、クライスはもっと悲惨な形で滅んでいたさ。ファーレンも彼が裏切った時点で、彼の選択と、その正しさを察していただろう。奴は抵抗こそしたが、本気ではなかった。殺されるつもりで奴は殺された」
「なんで、そんなことがわかるの」
その物言いは、父を侮辱してすらいる。だがクラウンにとってはそれが真実なのだろう。
彼は静かに、だがこう言い切った。
「――俺に、奴を殺せとも、私を助けろとも言わなかった」
言葉としてはそれだけだ。だが。
闇に溶け込む彼の瞳に、初めて感情らしい揺らめきが見えた。
それで伝わるものもある――この男は今、言葉以上に雄弁に、鎮痛に想いを語ったのだ。
それがわかってしまったから。ドギーは何も言えなかった。
その間に、彼はすっと目を閉じる。
瞳の感情を闇に隠して、彼は無機質な声で呟いた。
「ファーレンの間違いは一つだけだ。君を逃がしたこと。君の幸福が、奴にとっては命より重かった。君を逃がさなければ、お飾りだろうと君は姫のままで、たとえ属国であろうとクライスの形は残っただろうにな」
「……」
「それで、どうする?」
問われ、ドギーもまた同じように目を閉じた。
無明の闇の中に自分を溶かして、それを俯瞰から見つめる。頭の中をまっさらにして、それでも残るものがあることを、彼女は知っていた。
だから、彼女は静かに告げた。
「私の目的は変わらない。私は……父の仇を討つの」
宣言だ。そうして続ける。
「これから何をすべきかを教えて」
それを待っていたに違いない。壁に預けていた背中を離し、クラウンは言ってくる。
「さっきも言ったが、これから何が起こるかは予想できない。彼女が領民を煽ったせいで、領騎士も彼らを抑えることが出来なくなった。この後で彼女がもう一度領民を煽れば、大規模な暴動に発展する可能性もある。逆に領騎士が先制して、領民の締め付けを強化する可能性も」
「…………」
「予想ができない状態で、暗殺の計画を立てるのは得策じゃあない」
だから、と彼は続ける。
「確実を期すなら、待つことだ。どうせ近日中に事は動く。なんなら早めてもいい」
「……どういう意味?」
問われ、彼は懐から取り出した一枚の紙を宙に放り投げた。
紙はひらひらと宙を漂い、ドギーの足元に落ちる。
視線だけでそれを確かめて、彼女は眉根を寄せた。
「……地図?」
政務館を中心にした、フレインの地図だ。大通りなどのストリートを主に記した、大雑把なもののようだが。
彼が出かけていた理由はこれだろう。それはわかるが。
(……?)
郊外と思しき隅に奇妙な強調線を見つけて、ドギーは訝しむように彼を見た。
視線で問うと、道化は闇の中、その双眸を陰らせて、言った。
「――ニコラエナを消すんだ」




