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オルトロス  作者: アマサカナタ
13/33

3-3

 ドギーが駆け付けた時には、既に騒動は終わっていた。


 政務館前の広場では、領民の姿もまばらになっている。本来ならばこの広場は、何かの行事がなければほとんど人がいない区域だという。それを思えば、今はまだ人がいる方なのだろう。


 ニコラエナがここで何を語ったのか。それは辺りに聞き耳を立てていればすぐに分かった。正門前には十人近い門兵が待機しているが、彼らを無言で睨む若者がちらほらと見える。

 一時はそれで暴動寸前にまでなったそうだが、今は一応その気配はない。


「……間に合いませんでしたね」


 その呟きは、ドギーに遅れてやってきた、エリーが上げたものだった。宿を飛び出したこちらを慌てて追いかけてきたのか、エプロンをつけたままだ。


 なんにせよ、ドギーはため息をついた。視線はエリーから離して、正門の方に向ける。そこであの女が演説したという。

 この領に恐怖を振りまくカーライル人に、なんら臆することなく。


「仕方ないわ。どうせ間に合わないとは思ってたし。慌てて出てくる必要はなかったかも」

「…………」

「……?」


 長引いた無言が気になって、ドギーは再び彼女を見やった。

 何か別のものに集中していたのかとも思ったが、そうでもない。彼女の視線はこちらを向いていた。

 ぼんやりと、だがどこか悲痛な面持ちで見つめている。


「エリー?」

「あ……すみません。少し、考え事をしてて」

「そう? まあいいわ。戻りましょう」


 エリーが頷くのを待って、ドギーは歩き出した。


 政務館はフレインのちょうど中心にあるが、エリーの宿は郊外と政務館とのちょうど中間の位置にある。走ればそう時間はかからないだろうが、ドギーは歩くことを選んだ。


 人通りの多い道を優先的に選んでいく。理由がないわけでもない。領民の顔を見たかったからだ。あの女が作り出した変化を。

 街は騒然となっている。噂の伝播が早いのか、はたまた聞いていた者が多かったのか。聞き耳を立てるまでもなく、そこかしこでニコラエナの名が聞こえてくる……


(亡国の姫が、正義を掲げて悪を打倒する……か)


 よくある話、といっていいものかどうか。大昔に、そんな物語を読んだような気がする。あるいは舞台劇だったか。それと同じだとドギーは感じていた。


 可哀そうなニコラエナが、巨悪と戦って領民を救う。領民にとっては聞こえのいい話に違いない――あるいは都合のいい話か。

 都合のいい救いを与えてくれるお姫様。彼女によって、領民は熱に浮かされている。


(それをわかってしまう私は、きっと部外者に過ぎないんでしょうね……でも)


 感じていたのは予感だった。それも、危惧や懸念といった類の。


「どう思う?」


 隣を歩くエリーに尋ねた。下手な質問をしたと気付いたのは、口にした後からだった。これでは何を聞いたのかわからない。

 言い直そうとして、ドギーはエリーの顔を見やった。


「……?」


 そして首をかしげる。隣を歩いているはずのエリーは、だがわずかに遅れていた。はぐれるとまではいかなかったが、それでも奇妙な距離がある。


 彼女は浮かない顔をして、やはりドギーのことを見ている……


「エリー」


 足を止めて、上の空な少女に呼びかける。

 彼女の反応は遅れたうえに、かなり素っ頓狂なものだった。


「え? あ、はい!? えぇと……何の話、でしたっけ?」

「何の話もしてなかったわ。ただ気になったから呼んだだけだけれど……あなた、さっきから変よ? どうかしたの?」

「…………」


 今度の沈黙は、さきほど以上に長引いた。その頃にはエリーも足を止めている。

 気まずさを感じさせる程度の沈黙を挟んでから、彼女はぽつりと呟いてきた。


「すみません。考え事が……全然、まとまらなくて」

「考え事?」


 さっきもそんなことを言っていたのを思い出す。それが悩みだとしたら、踏み込んでいいものかどうか。それがわからず躊躇っている間に、エリーは覚悟を決めていたらしい。

 自身の胸に拳を置いて、体を小さくしながら。それでも彼女は切り出した。


「――なんで、助けてくれたんですか」

「……?」


 何のことか本気でわからず、ドギーはきょとんとまばたきした。だがすぐに思い出す。宿での件だろう。

 結局あの後領騎士は去っていったので、ドギーが何かしたわけでもないのだが。


「別に、大したことをしたわけじゃないわ。どうせ宿の外に出たら、逃げるつもりだったし。見て見ぬふりをした方がよかった?」


 深刻な問いかけに、だがドギーは気楽に呟いた。いい人ぶるのは嫌いだし、趣味でもない。

 こんな話はさっさと終わらせるに限るから、彼女は皮肉げにそう笑った。


 だが。


「私のせいで、誰かが傷つくくらいなら……その方がよかった」


 予想以上に深刻なエリーの表情に、ドギーは笑みを引っ込めた。改めてエリーを見やれば、彼女は何かを堪えるように、エプロンの裾を握りしめている……


「お客さんだって、皆知らんぷりしてたじゃないですか。恨んでるわけじゃないんです。ドギーさんにも、できればそうしてもらいたかった。ここでは、それが当たり前だから……たぶん、私がお客さんだったら、そうしただろうってわかるから」

「…………」

「変な話、してますよね。でも、私が傷つくのは良いんです。あの人たちは私を目的にしてきたって言ってました。だったらそれは私のせいで。だからあの人たちが何かするなら、それは私がどうにかしないといけなかったんです。なのに……ドギーさんもそう。ニコラエナ様もそう。戦わなきゃいけないのは、本当は私たちなのに……」


 失速した言葉にかける言葉があるかというと、ない。


「なんで、助けてくれたんですか」


 同じ問いを口にして、うつむいてしまったエリーに。ドギーは無言を返した。


 考えがあって行動したわけではない。理由など全く考えなかった。ただ自分がそうしたいと思ったからそうしただけだ。

 それは善意ではない。言うなれば、エゴだ。自分の気持ちのためだけに自分は動いたのだ。

 それは復讐と同じだ。貴いものでもなければ、感謝されるべきものでもない。


 だから、ドギーは肩をすくめた。


「理由があれば、納得できるの?」

「わかりません。でも……あるのなら、聞かなきゃいけないと思ったんです。だから――」

「ないわ」

「……え?」


 きょとんとした彼女に苦笑を投げる。

 それが少女の求める答えでないことはわかっていたが。


「善意を信じたいのなら、理由があるなんて思わない方がいい。私は別に、あなたを助けたわけじゃないかもしれない。行動には理由があるとするのなら――……」


 はたと、彼女は呟く口を止めた。たまたま視界に映ったそれに、目を奪われる形で。


 彼女が見たのは、ただの大衆食堂だった。大通りに面していて、よほどの人気店なのか、野外にもテーブルが並んでいる。店は既に満員で、外にいる者の中には席に座れない者もいるが。

 見とがめたのは、そこにいる者たちの気配に鬼気迫るものを感じたから――そしてその中心で、男がこう叫んだからだった。


「――ニコラエナ様こそが、俺たちにとっての正義だ!」


 テラスから声が唱和する――そうだそうだ――いいぞ――その通りだ、と。

 異論をはさむ者は誰もいない。声は外にいる者だけでなく、店の中からもあげられているようだった。


「領騎士なんて大層な名前をつけちゃあいるが、結局奴らは悪党だった! 正義のフリした悪党だ! なんであんな奴らにでかい顔をされなきゃならねえんだ!」

「あの野盗には俺のいとこもやられた! 敵討ちがしたい――」

「昨日の男、失明しちまったってよ。あれが人間のすることかよ、クソッタレ――」

「俺たちも姫様に続くべきだ! 悪には刃向うべきだ――ニコラエナ様がついていてくれる!」

「――ニコラエナ様を王に! 俺たちのクライスを取り戻すべきじゃないのか!」

「…………」


 自分は今、どんな顔をしているだろう。

 気になったのは、そんなことだった。


 あの女の演説にあてられた者たち。彼らを遠くから見つめて。ドギーは知らず知らずのうちに、拳を固めていた。

 奥歯を噛み締めた口の中に血の味を感じる。頬の肉を、知らずのうちに噛み千切っていたらしい。


「……? ドギーさん?」


 沈黙が長くなりすぎていた。それはわかっていたが。

 彼らから目を逸らして、ドギーはぽつりと呟いた。


「行動に理由があるとするのなら……それはもしかしたら、心底おぞましいものかもしれない」


 そう。もしかしたら彼女の行動は、全て“王になるため”ということだってあり得るのだ。偽者が王となり、国を復興し、我が物顔で支配する。そのために。


「ドギー……さん?」


 深刻ぶりすぎたかもしれない。気づいてドギーは調子を変えた。


「だからもし理由があると思ったなら、それは聞かないほうがいいわ。おためごかしって、気づくと心底不愉快なものよ? それに、暴力が怖いのは別に悪いことじゃない。恥じ入る必要はないわ。暴力は常に恐れなければならない。戦おうなんて思うべきじゃないわ」

「でも……」

「この話はこれでおしまい。帰るわよ」


 言い切って、ドギーは歩き出した。エリーは何か言いたげな顔をしていたが、何も言わずに後をついてくる。


 宿に戻ると、主人もいないのに食堂は満員になっていた。日中の仕事などほっぽり出して集まったのだろう。

 あてられた連中ほどではないにしろ、会話の内容はニコラエナ一色だ。予想外の事態にエリーは面喰ったようだが。


「私は部屋に戻るわ」

「え? でも、ごはんは」

「いいわ。ちょっと……食欲なくなっちゃって」


 告げて、ドギーは自室を目指した。階段を登って、廊下の先にある自室の扉を開く。


 中に入って、彼女はすぐに扉を閉めた。


 叶うのならば何でもいい、この喧騒から遠ざかりたかった。ニコラエナを語る者たちの喧騒から。だが扉を閉めても――窓を閉じていても、その熱量は肌に伝わってくる。


 もし仮に空気に色があったのなら。ふと連想したのはそれだった。もし空気に色があるのなら。それは赤色に違いない。怒りの色。炎の色。燃えるように、大気を焦がす彼らの激情……


「それだけ、彼らが切実だったということだ」


 その呟きにハッとして、彼女は室内を見回した。

 入口から死角だった場所に、黒く佇む影がある。いや、実際にそれは影ではなかったのだが。あまりのらしさにそう錯覚した。


 壁に背を預け腕を組み、彼は静かに言ってきた。


「領騎士の非道が暴かれた以上は、もう領民も遠慮はすまい。“ニコラエナ”はこの上ないタイミングで彼らを煽ったな。これから何が起こるのか、予想が出来なくなってきた」

「…………」


 語る男に無言を返し、ドギーは窓に近寄った。

 開けはしなかったが、ガラスに手を当てて外を見る。


 街は一目見てそうとわかるほど、色めき立っていた。その騒ぎを作った当の女は、今どこにも見当たらない。彼女は騒ぎを起こすだけ起こして、人知れず姿を消したという。


「亡き者とされていた姫が、領民のために戦うというのは、領民にとって美談だろう。正義を御旗に革命か。扇動家としては上等だ。臆病者も、数が集まれば鬼になる」

「今まで、どこに行っていたの」


 滔々と語る彼の声を無視して、ドギーは問いかける。

 まるで非難しているようだと気付いたのは、呟いた後だった。


 だが彼は気にしたそぶりも見せない。彼は質問を無視して問い返してきた。


「君の目的を、確認しておきたい」

「……私の目的?」


 思わず鼻で笑ってしまった。そんなことを今更聞かれるとは思っていなかったのだ。

 歪む顔は笑みを作る。皮肉に歪んだはずの顔だが。


 窓に映った彼女の顔は、泣き笑いのようにも見えた。


「カラッゾを殺すことよ。そのためだけに、私はこの七年を生きてきた。忘れられるはずもない……」


 今でも、まだ夢に見る。七年前のあの日のことをだ。

 あの日、自分は何もできなかった。自分が無力であることも知らなかった。王国の姫という立場も知らず、日々をただ安穏と生きてきただけだった。


(もし……もしも今の力を持ったまま、過去に戻れるのなら……)


 それはただの妄想だ。それはわかってる。だが、やめることもできない。叶わない願いだとわかっていても。願わずにはいられない――過去を全て、なかったことにできるなら。

 その頃には笑みも消えていた。


 気分は萎えて、彼女は背後に振り向いた。


「……なんでそんなことを聞くの」


 そこに佇む男は、静かにこちらを見返している。

 彼は簡潔に、こう返してきた。


「君が集中できてないからさ」

「集中?」

「君は、あの女も殺したいと思っているのか」

「…………」


 唐突な質問に、息を詰まらせる。

 答えはわかっている――殺したいに決まっている。


 だからこそ、彼女は即答できなかった。


(あの女が扇動者になれば、領騎士はそれを許さない。領民が扇動に乗れば、たくさんの血が流れる。たとえ彼女の主張が正しいとしても。どうせなら、そうなる前に……)


 それは建前だ。殺さねばならない理由ではあっても、心の底にある本音からは遠い。

 だが、既にクラウンはこちらを見透かしている。


 彼は更に踏み込んで、ドギーが隠した心の虚まで引きずり出した。


「“取られた”のが、そんなに悔しかったのか?」

「…………」


 黙り込んだのは図星だったから、ではない。確かに彼の言葉は真実だったが。

 彼女を黙らせたのは、ただ純粋な怒りだった。


 それをわざわざ聞いた彼への。


 それでも冷静な部分が、彼女にカーテンを閉ざさせた。これからする話は、誰にも聞かれてはならない。


「悔しかったか、ですって?」


 カーテンで日差しを隠し、その影の中で彼女は笑った。

 あまりにも不格好だと自分でもわかってしまうほど、それは不出来な笑みだった。


「ええ、当然でしょう。妬ましくてたまらない。私はドギー。“負け犬のように惨めな女”。クライスの姫だった私は死んだ。もう二度と“ニコラエナ”を名乗れない……なのにあの女は、私の目の前で“ニコラエナ”を名乗った。領民の前でそう名乗り、あまつさえ認められさえした……これが屈辱でなくて、なんだというの?」

「名乗れないなどということはない。君が望むなら、君はいつだってニコラエナになれた。選ばなかったのは君自身だ」

「――人殺しが! どうして姫を名乗れるというの!」


 そこが限界だった。とうとうこらえきれず、彼女は泣き叫ぶように声を荒らげた。


「何が選択よ……目の前でお父様を殺されて、いったい何を選べたと言うの。復讐以外の、いったい何を! どれだけ取り繕ったって――どれだけ押し隠したって、この思いは消えてくれないの。あいつを殺したい、あいつを八つ裂きにしたいって――それだけを考えて生きてきた。そんな女が、どうして今更姫を名乗れるの!?」

「宮廷というのは、君が思うほど綺麗な場所じゃない。人を殺したことのない王族などいない」

「そう。だから私の殺意は許される? そんなわけないじゃない。私はもう、取り返しがつかない場所にいるのよ……」


 言葉は失速して、最後にはかすれ声に化ける。


 ――そう、取り返しがつかない。彼女にはそれがわかっていた。


 まだこの手を血に汚したことはないが。取り返しがつかないのは心の方だった。この手が血に染まってなかろうと、心は既に血まみれだった。


 家族も、姫としての生活も。安寧も、すべて失った。人並みの人生も、女らしい生き方も、王族としての使命も、何もかもすべて捨て去った。

 そうまでして、仇をかみ殺す牙が欲しかった。そうすることしか彼女は選べなかった。


 復讐だ。父を殺した怨敵を殺す、それしか自分には残されていなかった。

それに気づいた時には遅い。その時には、自分は“ニコラエナ”ではなくなっていた。


 自分からやめたのだ。泣くことしかできない哀れな姫であることを。


 憎悪に歪んだ顔を伏せる。漏れ出た声には悲嘆があった。


「後悔してるわけじゃないの。“こっち”を選んだのは私だから。それでも……あの頃に戻りたいと思うのは、間違ってるの?」


 七年前のあの日。追憶のたびに思い出す光景は、いつだってそれだった。


 燃える世界と、殺された父と。あの日の惨劇以外を、もう彼女は思い出せない。全ては炎に焼かれて、跡形もなく消えてしまった。


 それでも、戻りたい。戻れるのならば――もう一度、父に会えるのならば……

 徹底して現実的な冷たい声音が、ドギーの気持ちを凍てつかせた。


「彼女を殺しても、君に戻れる場所はない。わかってるんだろう」


 言われるまでもないことだった。あの女を殺しても、父が帰ってくるわけではない。

 ドギーは闇に佇む男を見つめた。父の友人であり、かつては宮廷道化として父に仕えた男を。

 彼はいつものように超然と、無感動に告げてくるだけだ。


「“ニコラエナ”になりたいというのなら、それはそれで構わない。君はしたいことを言えばいい。君が決めたなら、俺はやる。それがなんであろうとだ」


 わかっている。それを疑ったことはない。だからこそ……彼は自分に決断を迫る。

 彼を悪魔のように思うのは、そういう時だ。

 道を示し、道に化け、時には道を切り開く。


 ――だが、決して導いてくれはしない。


「カラッゾって、どんな奴なの」


 ドギーは、悪魔のような男に問いかけた。


 馬鹿げた話だと思った――殺したい相手のことを、自分は何一つ知らないのだ。素性も、性格も。ドギーは敵の顔しか知らない。

 それだけを糧に憎悪を繋いできた。


「エリーが言ってたの。領主としてカラッゾが来るまでは、領騎士の悪行はもっとひどかったって。今まではお父様を殺して、私腹を肥やした悪い奴だとしか思ってなかった」


 今までのイメージと、エリーの語った領主としてのカラッゾは矛盾する。もし彼が悪党だったのなら、ドギーはこんなことを聞かなかった。


 今まで聞かなかったから答えなかっただけか。彼はすらすらと、書物から一文を読み上げるように言ってきた。


「経歴くらいは君も知っているだろう。騎士の名門の家系に生まれ、若くして将軍の地位にまで上り詰めた。優秀で、高潔な男だったとされる。俺から見た彼の評価は……そうだな。極めて正しい人間だ」

「極めて、正しい?」


 思わず繰り返した言葉を、彼は首肯する。


「そうだ。正しすぎるくらい、正しい人間だ。十人を救うためなら九人を見殺しにできる。百人を救うためなら九十九人を自らの手で殺せる。そういう男だよ。その責任を自ら背負うことを躊躇わない。その愚直さ故に、ファーレンは彼を重宝した」

「……そんな人が何故、お父様を裏切ったの」


 問いかけながら。既にドギーは、答えが予想できていた。

 聞きたくないと、心は言う。だがクラウンはそんな彼女の痛みには気づかず、あるいは知らないふりをして、何の変哲もないことのように、言った。


「君の父親の首をカーライルに売ることで、彼は停戦協定と講和条約を結んだ。王権と引き換えに、彼は人民への被害を最小限に抑えた。裏切り者の汚名を着ることもわかっていただろう……カーライルの思惑によって、ファーレンは戦死になったが」

「…………」

「ベルクハイル砦とレイゲングラード平原。二つの敗戦で、クライスの敗北は明確だった。カラッゾがあの選択をしなかったのなら、クライスはもっと悲惨な形で滅んでいたさ。ファーレンも彼が裏切った時点で、彼の選択と、その正しさを察していただろう。奴は抵抗こそしたが、本気ではなかった。殺されるつもりで奴は殺された」

「なんで、そんなことがわかるの」


 その物言いは、父を侮辱してすらいる。だがクラウンにとってはそれが真実なのだろう。

 彼は静かに、だがこう言い切った。


「――俺に、奴を殺せとも、私を助けろとも言わなかった」


 言葉としてはそれだけだ。だが。


 闇に溶け込む彼の瞳に、初めて感情らしい揺らめきが見えた。


 それで伝わるものもある――この男は今、言葉以上に雄弁に、鎮痛に想いを語ったのだ。

 それがわかってしまったから。ドギーは何も言えなかった。


 その間に、彼はすっと目を閉じる。

 瞳の感情を闇に隠して、彼は無機質な声で呟いた。


「ファーレンの間違いは一つだけだ。君を逃がしたこと。君の幸福が、奴にとっては命より重かった。君を逃がさなければ、お飾りだろうと君は姫のままで、たとえ属国であろうとクライスの形は残っただろうにな」

「……」

「それで、どうする?」


 問われ、ドギーもまた同じように目を閉じた。

 無明の闇の中に自分を溶かして、それを俯瞰から見つめる。頭の中をまっさらにして、それでも残るものがあることを、彼女は知っていた。


 だから、彼女は静かに告げた。


「私の目的は変わらない。私は……父の仇を討つの」


 宣言だ。そうして続ける。


「これから何をすべきかを教えて」


 それを待っていたに違いない。壁に預けていた背中を離し、クラウンは言ってくる。


「さっきも言ったが、これから何が起こるかは予想できない。彼女が領民を煽ったせいで、領騎士も彼らを抑えることが出来なくなった。この後で彼女がもう一度領民を煽れば、大規模な暴動に発展する可能性もある。逆に領騎士が先制して、領民の締め付けを強化する可能性も」

「…………」

「予想ができない状態で、暗殺の計画を立てるのは得策じゃあない」


 だから、と彼は続ける。


「確実を期すなら、待つことだ。どうせ近日中に事は動く。なんなら早めてもいい」

「……どういう意味?」


 問われ、彼は懐から取り出した一枚の紙を宙に放り投げた。

 紙はひらひらと宙を漂い、ドギーの足元に落ちる。

 視線だけでそれを確かめて、彼女は眉根を寄せた。


「……地図?」


 政務館を中心にした、フレインの地図だ。大通りなどのストリートを主に記した、大雑把なもののようだが。

 彼が出かけていた理由はこれだろう。それはわかるが。


(……?)

 郊外と思しき隅に奇妙な強調線を見つけて、ドギーは訝しむように彼を見た。

 視線で問うと、道化は闇の中、その双眸を陰らせて、言った。


「――ニコラエナを消すんだ」

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