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オルトロス  作者: アマサカナタ
11/33

3-1 負け犬は奪われる

 燃える城。叫ぶ父。泣き出した自分。伸ばされた手。それにしがみつく手。


 ――燃える世界。あの日と同じ――


(また……この夢)


 それが夢だとわかっているから、ドギーはゆっくりと夢から覚めた。

 悪夢の感触は痛みに似ている。七年前のあの日の再演も、慣れてしまえばただそれだけのことだった。もう何度同じ夢を見たのかわからない。それを数えていた時もあった。


(だけど、今ではもう思い出せない。いつやめてしまったんだろう……)


 その夢を見る度に、泣くのをやめたのも。それはちょうど、同じ時だったように思える。

 体はまだ眠りを欲していたが、ドギーはゆっくりと目を開いた。


 エリーの営む宿の一室。広くはないが柔らかいベッドと浴室があり、壁には姿見の鏡もある。部屋を二つも借りるのは忍びなかったのでクラウンとの相室だが、彼の姿はどこにもない。

 それについて思うことは何もなかった。クラウンについては考えるだけ無駄だ。いつの間にかいなくなり、そしていつ帰ってくるかわからない。


 だが必ず帰ってくる……


(……どうせなら、起こしてくれればよかったのに)


 時刻はそろそろ昼過ぎか。少々どころではなく寝すぎだろう。

 二度寝をする気にもなれず、ドギーはベッドからはい出た。


 浴室と同じ場所にある洗面所で顔を洗い、髪を直す。

 その際にふと邪魔に感じて、彼女は着ていた寝間着を脱ぎ捨てた。


 着替えるために鏡の前に立つ。そこにあるのは少々古ぼけ、微妙に曇った鏡だが。

 特にどうという理由もなく、彼女はそこに映る鏡像を見つめていた。


 銀糸のように美しい長髪と、宝石のような青の瞳。かつては誰もがそう言った。

 父譲りのそれらに反して、顔の造りは父とは似ても似つかない。父はそのことを母親譲りだと言って笑っていた。

 母は彼女が生まれた時に死んでしまったから、それを確かめる方法はなかった。

 母の肖像画はどこか偽者じみていて、だからたとえそこに描かれたものが本物そっくりだったとしても、彼女は信じなかったに違いない。


 だから“ニコラエナ”は鏡が好きだった。


(……でも、今は違う)


 鏡が魔物の正体を見破るように。

 そこに映っている女は、かつての幼き姫ではなかった。


 傷んだ短い銀の髪と、憎悪に濁った青の瞳。造作はどこかすねたように歪んでいて、その顔に笑みは似合わない。変貌とはまさしくこれだろう。


 かつての面影をどこかに残しながら、それでも似ても似つかない。


 違いは他にもある。食器と文房具くらいしか持ったことのなかった彼女の指は、今では潰した豆の数だけ歪んでいた。

 体中に走る細かな傷の跡は、クラウンとの戦闘訓練によって刻まれたものだ。


 宮廷からほとんど出ることがなかったお姫様と、今の彼女と。比べても、同じ人間には見えるはずがない。

 だから鏡は嫌いだった。そこに映るのは自分であるはずなのに、自分ではない錯覚がある。

 目の前にいるのは“ニコラエナ”ではない。“ドギー”だ。


 負け犬のように惨めな女。


 ――まだ君は“ニコラエナ”のつもりでいるのか?


「……!」


 幻聴として聞こえてきたクラウンの声に、歯を軋らせる。

 振り払うように彼女は着替えを済ませると、外套を着こんで、部屋の外へと出ていった。


◆×◇×◆


「あ、ドギーさん! おはようございます!」

「……おはよう」


 階下へ下りると、彼女を出迎えたのはエリーの快活な声だった。カウンター奥で、彼女はフライパンを片手に頭を下げてくる。

 彼女に挨拶を返しながら、ドギーは辺りを見回した。

 宿は一階が食堂となっている。昼には少し遅い時刻のはずだが、まだ客の姿がちらほらとあった。


 カウンター席に座りながら、ドギーはぽつりと訊いてみた。


「この時間帯に“おはよう”はおかしいんじゃないかしら」

「そうですか? でもタイミング的には今が“おはよう”ですよね、ドギーさん」

「……まあ、確かにさっきまで寝ていたけれども」


 暗に“起きるのが遅いダメ人間”呼ばわりされたような気がして、ドギーは少し口ごもった。

 実際のところ、悪いのはドギーではなく部屋の方だ。久しぶりに質のいいベッドで寝れたので、つい満喫してしまった。


「とりあえず、簡単に昼食お願いしてもいいかしら。パンとか、軽めのもので」

「わかりました! 少し待っててくださいね」


 元気のいい返事とともに、エリーが調理に移っていく。

 一人残される形になって、ドギーは背後を振り向いた。そこでは仕事休憩といった雰囲気の男たちや、若い男女が気ままに談笑している。

 どうということもない風景だ。こんなものは、街に出ればどこででも見られるに違いない。


 ぼんやりと、その光景を見つめて。


(こんなものよね……普通は)


 特に意味もなく、思いついたのがそれだった。

 そう、こんなものだ。日常というのは。たとえこの街の外で争いが起き、村が焼かれ、野盗がはびこり、その果てに誰が死のうとも。ここにいる限りは関係ない。ここから見える光景だけを見れば、フレインは平和だった。


 だがそうではない。その平和が見せかけだということは誰もが知っている。


(だから、あの女は正義を執行する……)


 昨日の、あの女のことを思い出していた。

 銀髪碧眼の、ドレスメイルに身を包む女。あの女は確かにこう名乗った。今は家名なきニコラエナと。彼女は間違いなく偽者だ。


 だが、とも思う。


 彼女の行いは、ニコラエナが生きていたのならしただろうことではないだろうか。

 クライスという国を取り戻すべく、立ち上がるのではないだろうか。

 領民が苦しめられているのなら、そのために戦うのではないだろうか……


「そういえば、クラウンさんはまだ寝てるんですか?」


 エリーに唐突に話しかけられて、ドギーは物思いからハッと覚めた。聞き逃しかけた質問を、どうにか補完して理解する。彼女が知らないとは思っていなかったが。


「彼なら部屋にはいないわ。どこかに出かけてるみたいだけど」

「食堂では見かけてませんよ? 階段から降りてきたなら、足音でわかるはずですし」

「そう? なら窓から出てったか、気配を消して出てったかしたんでしょう」


 適当に思いついたことを言うが。どちらをやってもおかしくないというのが、ドギーのクラウンに対する評価だった。

 エリーはぽかんとしていたが、彼ならやりかねない。


 そもそもが謎の男だ。正直なところ、ドギーは彼のことをほとんど知らない。

 七年もの時間を一緒に過ごしてわかったことといえば、性格が壊滅していることと、奇妙なことにいろんな知識を持っていること――そして異常なほどに戦闘能力が高いことだけだった。


 彼女が“ドギー”を名乗る前の彼のこととなると、もっと少ない。

 ドギーが知っていたのは、彼は父に仕える宮廷道化だったということ。それだけだった。


 宮廷道化は王個人に雇われる芸能職だ。彼らはその達者な芸と口とで王を楽しませることを生業とする。

 また道化は愚者とも呼ばれ、その愚かさは、神からの啓示を導くこともあったという。それ故、彼らは宮廷に対しあらゆる権限を持たない代わりに、王家に対しいかなる言動も許されていた。


 クラウンに、直接尋ねたことがある。

 彼は宮廷道化について、口数少なくこう語った。


『宮廷道化は、王と友人でいていい唯一の職業だ』


 それだけだ。それ以外に、彼は自分の事を語らなかった。

 七年という歳月を一緒に過ごしてもだ。彼が何を望んでドギーを助けてくれるのかも、何をドギーに望んでいるのかも、彼女にはわからない。


(なんで、あなたは私を助けてくれるの?)


 いつか聞こうと思っていたが、結局聞けなかった問いだ。それがわからない。彼は何も求めない。

 必要なときに必要なことを行うだけのその様は、まるで道具のようだった。彼を利用しかしていない。暗い気持ちにさせるのはそれだった。


 ――と。


 突然、バンと何かが弾けるような音が食堂を震わせた。


(……!?)


 訓練が身に着けさせた反射で、ドギーは椅子から立ち上がった。

 外套の袖に仕込んだナイフを一挙動で掴み、音の方角を――背後を睨む。乱暴に扉を開けた音だと理解したのはその後だ。


「――よお。かわいい店主がいる食堂ってな、ここか?」


 その声に――あるいはその服装に。客たちがどよめきを上げた。


 騎士服を着込んだ男が二人。それで相手が誰かを悟った。

 領騎士だ。彼らの登場から急速に、食堂の空気が濁る。それを味わうためにか、彼らはにやにやと辺りを見回した。


「辺鄙なとこにあるくせに、いい店じゃねえか。わざわざ領騎士様が来てやったんだ。店主はどいつだ?」

「あ、わ、私です。よ……ようこそおいでくださいました」


 対するエリーの声音は固い。おずおず答えると、領騎士二人はじろりと彼女を見やった。


「へえ、あんたがかい。随分と……楽しめそうじゃねえか。サービスしてくれよ。なあ」


 なめまわすように上から下を見つめ、そしてわざと舌なめずりさえしてみせる。エリーの顔に明らかに怯えが走るのを見て、ドギーはナイフの柄に手を添え直した。


 彼らは他の客には目もくれずカウンター席に――エリーのすぐ目の前に座る。ただし一人は席には座らず、腰の剣に手を置いて、カウンターに身を乗り出している。

 見せびらかすようにちらつかせながら、剣を握る男は笑った。明らかに悪意のある顔で言う。


「メニューはあんのか? あるなら全部出してくれよ。こいつと俺の分で、二人前ずつだ」

「ぜ、全部ですか? そうなると、他のお客様にお出しする分がなくなってしまいます」

「別にいいじゃねえかよ、他の客なんて。俺たちよりも客のが大事だって? 俺たちだって客だろ。早い者勝ちだろうよ」

「申し訳ございません。ですが、ご遠慮願えませんか――」

「――遠慮? 誰に言ってんだテメエ?」


 即座に男は激昂した。座っていた男が、椅子を蹴飛ばして立ち上がる。

 距離が近ければエリーの胸ぐらを掴んだかもしれない。それほどの勢いで、だが彼は拳をカウンターに叩きつけた。


「俺たちは領騎士だぞ。テメエラの代わりにテメエラの生活を守ってやってんだ。その俺たちの頼みが聞けないってのか?」

「ご、ごめんなさい! わ、わかり、ました。料理に、取りかからせていただきます」


 暴力に免疫がないのか、エリーはわかりやすく動揺している。本当にそうするつもりなのだろう、彼女は小走りに材料を取りに後ろに下がった――ところを。


「いいや、待てよ」


 剣の男が静止する。彼は下卑た笑顔を浮かべ、半分ほど鞘から剣を抜いた。その鈍い輝きを見せびらかしながら、言ってくる。


「正直に言うとな。飯なんてどうだっていいんだ。サービスの方を期待してんだからよ」

「……え?」

「わかんねえかな。サービスだよ。宿で女に要求するサービスなんて一つしかねえだろ?」


 それがどういう意味か、エリーは気づいただろうか。

 気づいていないような気もする――が、仮に気づいていたとしても、選択肢は変わらないだろう。逃げ道はない。


 束の間、ドギーは視線を彼女たちから離した。客の様子を伺うが、うんざりとため息をつく。食事もそぞろに、席を立つ者がちらほらと見えた。

 顔には関わりたくないと書いてある。誰も助けようとは思ってすらいない顔だ。


 視線を戻せば、顔面蒼白なエリーを剣の方の男が口説いている――


「ここは宿なんだろ? ちょうどいいじゃねえか。部屋が空いてねえなら追い出せよ。なあに、俺たちが必要だってわかれば勝手にどくさ。だからよ。遊ぼうじゃねえか。なあ」


 その辺りで。


「――悪いけど、彼女には先客がいるの。他を当たってくれない?」


 こらえきれず、ドギーは口を挟んだ。

 ぎょっとした視線が集まるのを感じる。その大半はエリーや客たちのものであり、意味は……“どうして”辺りだろうか。


 領騎士二人はぎょっとはしなかったが、意表は突かれたらしい。丸くした目に不快を混ぜて、こちらを見る。


 そしてドギーの姿を確認すると、途端にその相好を崩した。

 二人して下卑た笑顔を浮かべて、言ってくる。


「へえ。だったら、てめえが遊んでくれるんだよな?」


 ゲスの顔をそれぞれ見やって。ドギーは微笑んだ。

 ナイフを握る手には自然、力が入る。遊びに付き合う気など毛頭ない。心底不愉快だ。


 思わずしゃしゃり出てしまったが――


(……本当に、わかってるのかしらね?)


 つい自問する。思い出すのはやはり、クラウンの言葉だ。目的を思えば目立つべきではないと、この前釘を刺された。領騎士を相手には特に。

 だが。


「……仕方ないわね。いいわ、その誘い、乗ってあげる」

「ドギーさん、ダメ――」


 止めようとするエリーは手で静止して、彼女は呟く。


「ただ、ここじゃ嫌よ。遊ぶならそういう場所で。知ってるんでしょ? 都合がいい場所」

「はっは。ノリがいい女は嫌いじゃねえよ。ついてきな」


 手振りで示し、男は先を行く。隙だらけの背中を見せてだ。女というのはこういう時、便利だ。相手は女を自分より弱いものとして考える。

 抵抗されてもどうにかできると。その隙を見つけて、倒す。算段は行き当たりばったりで、計画性もなく、どうしようもなかったが。


 それでも覚悟だけは決めて、ドギーは後を追う――


(二人までならどうにかできる。無防備なうちに一人倒して、後は一対一……)


 と。


 ――再び、バンと衝撃音。

 愕然と音のほうを見やれば――宿の入り口に、一人の男が見える。


(援軍……!?)


 現れたのは、やはり領騎士だ。ずさんな計画が崩れたのを感じて、ドギーは愕然とするが。

 様子がおかしい。慌てて走ってきたのか、彼は肩で息をしていた。ぜぇはぁと今にも倒れそうな呼吸音を響かせて、仲間二人を睨んでいる。


 彼は息も絶え絶えのままに口を開いた。


「お、お前ら、こんなところにいたのか……」

「おう、ラッド。見ろよ、いい女を捕まえた。これから遊ぶんだ、お前も――」

「そんなことしてる場合じゃねえよ!」


 だが彼はそんな冗談に取り合わない。彼は息を整えもせず、必死の形相で声を上げた。


「大変だ! 大変なんだよ――お前ら、何してんだ! 暢気に女漁ってる場合じゃねえ!」

「なんだよ、どうしたってんだ。ガルド小隊長が馬車にでも引かれたか――」


 その声すらも遮って。

 彼は一際大きく、焦燥と共に絶叫した。


「帰還命令だ――ニコラエナが、領騎士にケンカ売ってるって!」

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