3-1 負け犬は奪われる
燃える城。叫ぶ父。泣き出した自分。伸ばされた手。それにしがみつく手。
――燃える世界。あの日と同じ――
(また……この夢)
それが夢だとわかっているから、ドギーはゆっくりと夢から覚めた。
悪夢の感触は痛みに似ている。七年前のあの日の再演も、慣れてしまえばただそれだけのことだった。もう何度同じ夢を見たのかわからない。それを数えていた時もあった。
(だけど、今ではもう思い出せない。いつやめてしまったんだろう……)
その夢を見る度に、泣くのをやめたのも。それはちょうど、同じ時だったように思える。
体はまだ眠りを欲していたが、ドギーはゆっくりと目を開いた。
エリーの営む宿の一室。広くはないが柔らかいベッドと浴室があり、壁には姿見の鏡もある。部屋を二つも借りるのは忍びなかったのでクラウンとの相室だが、彼の姿はどこにもない。
それについて思うことは何もなかった。クラウンについては考えるだけ無駄だ。いつの間にかいなくなり、そしていつ帰ってくるかわからない。
だが必ず帰ってくる……
(……どうせなら、起こしてくれればよかったのに)
時刻はそろそろ昼過ぎか。少々どころではなく寝すぎだろう。
二度寝をする気にもなれず、ドギーはベッドからはい出た。
浴室と同じ場所にある洗面所で顔を洗い、髪を直す。
その際にふと邪魔に感じて、彼女は着ていた寝間着を脱ぎ捨てた。
着替えるために鏡の前に立つ。そこにあるのは少々古ぼけ、微妙に曇った鏡だが。
特にどうという理由もなく、彼女はそこに映る鏡像を見つめていた。
銀糸のように美しい長髪と、宝石のような青の瞳。かつては誰もがそう言った。
父譲りのそれらに反して、顔の造りは父とは似ても似つかない。父はそのことを母親譲りだと言って笑っていた。
母は彼女が生まれた時に死んでしまったから、それを確かめる方法はなかった。
母の肖像画はどこか偽者じみていて、だからたとえそこに描かれたものが本物そっくりだったとしても、彼女は信じなかったに違いない。
だから“ニコラエナ”は鏡が好きだった。
(……でも、今は違う)
鏡が魔物の正体を見破るように。
そこに映っている女は、かつての幼き姫ではなかった。
傷んだ短い銀の髪と、憎悪に濁った青の瞳。造作はどこかすねたように歪んでいて、その顔に笑みは似合わない。変貌とはまさしくこれだろう。
かつての面影をどこかに残しながら、それでも似ても似つかない。
違いは他にもある。食器と文房具くらいしか持ったことのなかった彼女の指は、今では潰した豆の数だけ歪んでいた。
体中に走る細かな傷の跡は、クラウンとの戦闘訓練によって刻まれたものだ。
宮廷からほとんど出ることがなかったお姫様と、今の彼女と。比べても、同じ人間には見えるはずがない。
だから鏡は嫌いだった。そこに映るのは自分であるはずなのに、自分ではない錯覚がある。
目の前にいるのは“ニコラエナ”ではない。“ドギー”だ。
負け犬のように惨めな女。
――まだ君は“ニコラエナ”のつもりでいるのか?
「……!」
幻聴として聞こえてきたクラウンの声に、歯を軋らせる。
振り払うように彼女は着替えを済ませると、外套を着こんで、部屋の外へと出ていった。
◆×◇×◆
「あ、ドギーさん! おはようございます!」
「……おはよう」
階下へ下りると、彼女を出迎えたのはエリーの快活な声だった。カウンター奥で、彼女はフライパンを片手に頭を下げてくる。
彼女に挨拶を返しながら、ドギーは辺りを見回した。
宿は一階が食堂となっている。昼には少し遅い時刻のはずだが、まだ客の姿がちらほらとあった。
カウンター席に座りながら、ドギーはぽつりと訊いてみた。
「この時間帯に“おはよう”はおかしいんじゃないかしら」
「そうですか? でもタイミング的には今が“おはよう”ですよね、ドギーさん」
「……まあ、確かにさっきまで寝ていたけれども」
暗に“起きるのが遅いダメ人間”呼ばわりされたような気がして、ドギーは少し口ごもった。
実際のところ、悪いのはドギーではなく部屋の方だ。久しぶりに質のいいベッドで寝れたので、つい満喫してしまった。
「とりあえず、簡単に昼食お願いしてもいいかしら。パンとか、軽めのもので」
「わかりました! 少し待っててくださいね」
元気のいい返事とともに、エリーが調理に移っていく。
一人残される形になって、ドギーは背後を振り向いた。そこでは仕事休憩といった雰囲気の男たちや、若い男女が気ままに談笑している。
どうということもない風景だ。こんなものは、街に出ればどこででも見られるに違いない。
ぼんやりと、その光景を見つめて。
(こんなものよね……普通は)
特に意味もなく、思いついたのがそれだった。
そう、こんなものだ。日常というのは。たとえこの街の外で争いが起き、村が焼かれ、野盗がはびこり、その果てに誰が死のうとも。ここにいる限りは関係ない。ここから見える光景だけを見れば、フレインは平和だった。
だがそうではない。その平和が見せかけだということは誰もが知っている。
(だから、あの女は正義を執行する……)
昨日の、あの女のことを思い出していた。
銀髪碧眼の、ドレスメイルに身を包む女。あの女は確かにこう名乗った。今は家名なきニコラエナと。彼女は間違いなく偽者だ。
だが、とも思う。
彼女の行いは、ニコラエナが生きていたのならしただろうことではないだろうか。
クライスという国を取り戻すべく、立ち上がるのではないだろうか。
領民が苦しめられているのなら、そのために戦うのではないだろうか……
「そういえば、クラウンさんはまだ寝てるんですか?」
エリーに唐突に話しかけられて、ドギーは物思いからハッと覚めた。聞き逃しかけた質問を、どうにか補完して理解する。彼女が知らないとは思っていなかったが。
「彼なら部屋にはいないわ。どこかに出かけてるみたいだけど」
「食堂では見かけてませんよ? 階段から降りてきたなら、足音でわかるはずですし」
「そう? なら窓から出てったか、気配を消して出てったかしたんでしょう」
適当に思いついたことを言うが。どちらをやってもおかしくないというのが、ドギーのクラウンに対する評価だった。
エリーはぽかんとしていたが、彼ならやりかねない。
そもそもが謎の男だ。正直なところ、ドギーは彼のことをほとんど知らない。
七年もの時間を一緒に過ごしてわかったことといえば、性格が壊滅していることと、奇妙なことにいろんな知識を持っていること――そして異常なほどに戦闘能力が高いことだけだった。
彼女が“ドギー”を名乗る前の彼のこととなると、もっと少ない。
ドギーが知っていたのは、彼は父に仕える宮廷道化だったということ。それだけだった。
宮廷道化は王個人に雇われる芸能職だ。彼らはその達者な芸と口とで王を楽しませることを生業とする。
また道化は愚者とも呼ばれ、その愚かさは、神からの啓示を導くこともあったという。それ故、彼らは宮廷に対しあらゆる権限を持たない代わりに、王家に対しいかなる言動も許されていた。
クラウンに、直接尋ねたことがある。
彼は宮廷道化について、口数少なくこう語った。
『宮廷道化は、王と友人でいていい唯一の職業だ』
それだけだ。それ以外に、彼は自分の事を語らなかった。
七年という歳月を一緒に過ごしてもだ。彼が何を望んでドギーを助けてくれるのかも、何をドギーに望んでいるのかも、彼女にはわからない。
(なんで、あなたは私を助けてくれるの?)
いつか聞こうと思っていたが、結局聞けなかった問いだ。それがわからない。彼は何も求めない。
必要なときに必要なことを行うだけのその様は、まるで道具のようだった。彼を利用しかしていない。暗い気持ちにさせるのはそれだった。
――と。
突然、バンと何かが弾けるような音が食堂を震わせた。
(……!?)
訓練が身に着けさせた反射で、ドギーは椅子から立ち上がった。
外套の袖に仕込んだナイフを一挙動で掴み、音の方角を――背後を睨む。乱暴に扉を開けた音だと理解したのはその後だ。
「――よお。かわいい店主がいる食堂ってな、ここか?」
その声に――あるいはその服装に。客たちがどよめきを上げた。
騎士服を着込んだ男が二人。それで相手が誰かを悟った。
領騎士だ。彼らの登場から急速に、食堂の空気が濁る。それを味わうためにか、彼らはにやにやと辺りを見回した。
「辺鄙なとこにあるくせに、いい店じゃねえか。わざわざ領騎士様が来てやったんだ。店主はどいつだ?」
「あ、わ、私です。よ……ようこそおいでくださいました」
対するエリーの声音は固い。おずおず答えると、領騎士二人はじろりと彼女を見やった。
「へえ、あんたがかい。随分と……楽しめそうじゃねえか。サービスしてくれよ。なあ」
なめまわすように上から下を見つめ、そしてわざと舌なめずりさえしてみせる。エリーの顔に明らかに怯えが走るのを見て、ドギーはナイフの柄に手を添え直した。
彼らは他の客には目もくれずカウンター席に――エリーのすぐ目の前に座る。ただし一人は席には座らず、腰の剣に手を置いて、カウンターに身を乗り出している。
見せびらかすようにちらつかせながら、剣を握る男は笑った。明らかに悪意のある顔で言う。
「メニューはあんのか? あるなら全部出してくれよ。こいつと俺の分で、二人前ずつだ」
「ぜ、全部ですか? そうなると、他のお客様にお出しする分がなくなってしまいます」
「別にいいじゃねえかよ、他の客なんて。俺たちよりも客のが大事だって? 俺たちだって客だろ。早い者勝ちだろうよ」
「申し訳ございません。ですが、ご遠慮願えませんか――」
「――遠慮? 誰に言ってんだテメエ?」
即座に男は激昂した。座っていた男が、椅子を蹴飛ばして立ち上がる。
距離が近ければエリーの胸ぐらを掴んだかもしれない。それほどの勢いで、だが彼は拳をカウンターに叩きつけた。
「俺たちは領騎士だぞ。テメエラの代わりにテメエラの生活を守ってやってんだ。その俺たちの頼みが聞けないってのか?」
「ご、ごめんなさい! わ、わかり、ました。料理に、取りかからせていただきます」
暴力に免疫がないのか、エリーはわかりやすく動揺している。本当にそうするつもりなのだろう、彼女は小走りに材料を取りに後ろに下がった――ところを。
「いいや、待てよ」
剣の男が静止する。彼は下卑た笑顔を浮かべ、半分ほど鞘から剣を抜いた。その鈍い輝きを見せびらかしながら、言ってくる。
「正直に言うとな。飯なんてどうだっていいんだ。サービスの方を期待してんだからよ」
「……え?」
「わかんねえかな。サービスだよ。宿で女に要求するサービスなんて一つしかねえだろ?」
それがどういう意味か、エリーは気づいただろうか。
気づいていないような気もする――が、仮に気づいていたとしても、選択肢は変わらないだろう。逃げ道はない。
束の間、ドギーは視線を彼女たちから離した。客の様子を伺うが、うんざりとため息をつく。食事もそぞろに、席を立つ者がちらほらと見えた。
顔には関わりたくないと書いてある。誰も助けようとは思ってすらいない顔だ。
視線を戻せば、顔面蒼白なエリーを剣の方の男が口説いている――
「ここは宿なんだろ? ちょうどいいじゃねえか。部屋が空いてねえなら追い出せよ。なあに、俺たちが必要だってわかれば勝手にどくさ。だからよ。遊ぼうじゃねえか。なあ」
その辺りで。
「――悪いけど、彼女には先客がいるの。他を当たってくれない?」
こらえきれず、ドギーは口を挟んだ。
ぎょっとした視線が集まるのを感じる。その大半はエリーや客たちのものであり、意味は……“どうして”辺りだろうか。
領騎士二人はぎょっとはしなかったが、意表は突かれたらしい。丸くした目に不快を混ぜて、こちらを見る。
そしてドギーの姿を確認すると、途端にその相好を崩した。
二人して下卑た笑顔を浮かべて、言ってくる。
「へえ。だったら、てめえが遊んでくれるんだよな?」
ゲスの顔をそれぞれ見やって。ドギーは微笑んだ。
ナイフを握る手には自然、力が入る。遊びに付き合う気など毛頭ない。心底不愉快だ。
思わずしゃしゃり出てしまったが――
(……本当に、わかってるのかしらね?)
つい自問する。思い出すのはやはり、クラウンの言葉だ。目的を思えば目立つべきではないと、この前釘を刺された。領騎士を相手には特に。
だが。
「……仕方ないわね。いいわ、その誘い、乗ってあげる」
「ドギーさん、ダメ――」
止めようとするエリーは手で静止して、彼女は呟く。
「ただ、ここじゃ嫌よ。遊ぶならそういう場所で。知ってるんでしょ? 都合がいい場所」
「はっは。ノリがいい女は嫌いじゃねえよ。ついてきな」
手振りで示し、男は先を行く。隙だらけの背中を見せてだ。女というのはこういう時、便利だ。相手は女を自分より弱いものとして考える。
抵抗されてもどうにかできると。その隙を見つけて、倒す。算段は行き当たりばったりで、計画性もなく、どうしようもなかったが。
それでも覚悟だけは決めて、ドギーは後を追う――
(二人までならどうにかできる。無防備なうちに一人倒して、後は一対一……)
と。
――再び、バンと衝撃音。
愕然と音のほうを見やれば――宿の入り口に、一人の男が見える。
(援軍……!?)
現れたのは、やはり領騎士だ。ずさんな計画が崩れたのを感じて、ドギーは愕然とするが。
様子がおかしい。慌てて走ってきたのか、彼は肩で息をしていた。ぜぇはぁと今にも倒れそうな呼吸音を響かせて、仲間二人を睨んでいる。
彼は息も絶え絶えのままに口を開いた。
「お、お前ら、こんなところにいたのか……」
「おう、ラッド。見ろよ、いい女を捕まえた。これから遊ぶんだ、お前も――」
「そんなことしてる場合じゃねえよ!」
だが彼はそんな冗談に取り合わない。彼は息を整えもせず、必死の形相で声を上げた。
「大変だ! 大変なんだよ――お前ら、何してんだ! 暢気に女漁ってる場合じゃねえ!」
「なんだよ、どうしたってんだ。ガルド小隊長が馬車にでも引かれたか――」
その声すらも遮って。
彼は一際大きく、焦燥と共に絶叫した。
「帰還命令だ――ニコラエナが、領騎士にケンカ売ってるって!」




