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オルトロス  作者: アマサカナタ
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プロローグ

「――王よ……どうか、お覚悟を……」


 それを言い出したのがその男でなければ、おそらく王は鼻で笑ったに違いない。

 そして剣を突きつけてきたのがその男でなければ、覚悟も決めなかったに違いない――


 この国の姫のためにと建てられた、小さな離宮。

 戦場へと赴くことになった王が、束の間を別れを告げようと訪れた今日こそが、クライスという国の終わりだった。


 謁見の間などと大層な名の付けられた空間で、王は娘を背後にかばいながら、裏切り者を見据えている。

 その表情には諦観じみた覚悟が浮かんでいた。既に決められた筋書きを突き付けられた演者。その顔だ。


 それはこの国の王として生きてきた男の浮かべる表情としては、奇妙なものだったに違いないが。

 一方の裏切り者――クライスの騎士として名高き勇将、カラッゾ・フォン・アルタクロスとその配下たちが浮かべてい表情もまた、奇妙なものだった。

 その顔は苦悩で歪んでいた――かけがえのないものを自らの手で壊すような、そんな苦悩に歪んでいた。


 それらを暗殺者は、王の隣から見ていた。

 暗殺者が待っていたのは、命令だった。王からの命令。

 敵を殺せというただそれだけの――そして、いつも通りの。

 だが待ちわびたはずの命令は、予想を裏切って静かに囁かれた。


「娘を守れ。生き延びよ」

「…………」


 しばし、暗殺者は無言で王を見つめた。だが王はこちらを見はしない。

 視線は威嚇するように、眼前の敵を見据えて離れない……

 暗殺者は無感動な声で、だがいつものように王に尋ねた。


「“死ぬまで殺せ”とは、言わないのか」

「言わぬ。ニコラエナをお前に託す」


 決然と、王は別れを口にする。

 それで言うべき言葉はなくなった。


 唯一の友であり無二の主君をこの瞬間、彼は見捨てる。躊躇いはなかった。

 そんなものを彼は知らない。

 命令は下された。それが全てだ。

 それが全てだった。


「……お父様?」


 間の抜けた、少女の――姫の呟き。彼女は状況をまだ理解できていない。問いかける声には怯えがあった。

 剣を王に構える男たちに対してか? 彼女はどんな言葉を期待して、何を問うた?

 きっと、少女もわかっていなかったに違いない。

 それが別れの言葉になることが、彼には悲しかった。


 無言で少女の体を肩に担ぐ。この国の姫だというのに、だが扱いはぞんざいになった。

 抱きかかえては戦えない。少女はその扱いに悲鳴を上げたが、気にしてはいられなかった。

 王が、最後に娘を見る。


「不出来な父を、許せ」


 静かな後悔が、親子の別れの言葉となった。


 瞬間、彼は駆け出した。

 逃げ出そうとしていることはわかっていたはずだ。

 それでも敵兵に反応させない。それほどの緩急で行動を開始する。

 袖に隠した投剣を引き抜き、包囲の一つに投げつける。

 カラッゾならそれでも反応しただろう一撃を、その男は最後まで気づけなかった。

 眼球に投剣が突き刺さり、悲鳴を上げる。


 崩れた包囲に体を滑り込ませて抜ける。

 それでも敵は王国騎士軍。そのまま追撃されればひとたまりもないだろう。

 だが、彼は恐れはしなかった。


「我が名はファーレン――ファーレン・ファルク・クライス! クライス王国の第十四代国王である!!」


 永遠とも思えるその隙を、王が作ると彼にはわかっていたからだ。


「敵国カーライルに魂を売ったうつけどもよ! この期に及んで遠慮はいらぬ! 覚悟ある者は我が首を挙げよ! 無礼講だ――かかってくるがいい!!」


 怒号と踏み込みざまの一撃。一刀の元に兵が死に、包囲を戦慄が支配する。

 気高き王は、臣下に裏切られてなお傲然と人心を支配する。

 王の血に生まれ王として生きた、その男は死の淵にあってなお王だった。


 恐れと畏怖に呑まれたその隙に、彼は疾駆する。王を一瞥すらしない。

 ただ冷たく口の中で告げる。


(娘のためにここで死ぬか。ファーレン……お前は間違いなく無駄死にだ)

「お父様!? いや、いやぁぁあぁぁ!」


 少女の悲痛は無視して、彼はその部屋から飛び出した。姫が逃げる――逃がすな、捕まえろ――追いかけてくる敵の声、それさえも置き去りにして彼は走る。


断末魔の声を残して、彼は謁見の間を飛び出した。

 敵が追いかけてくる気配はまだない。すぐに誰かが追いかけてくるだろうが、だが暗殺者は構わなかった。

 捕まるはずはない。自分には立ちはだかる敵をことごとく殺す術がある。


 だが、彼は虚しく認めてもいた。この問いかけからは逃げられない。敵から逃げることはできても。

 この少女の悲痛な叫びからは。


「戻りなさい、クラウン――戻って! これは命令よ! お父様を助けて! あなたなら出来るでしょ!? お父様の友達なんでしょ!?」


 姫の叫びは止まらない。悲鳴は――あるいはその呪いは留まることを知らず、ただ彼の耳を苛んだ。

 今日この日、この娘は全てを失う。王族としての生も、唯一の家族も。


 彼は娘を哀れんだ。この娘は全てを失って……それでも、生きていかねばならない。

 それが孤児となるこの娘を絶望させるとわかっていても、彼にはもう戻る道もなかった。

 だから、残酷に呟いた。


「君の父は今日、ここで死ぬ。君が逃げる時間を稼ぐためにだ」

「……!」


 少女の絶句に合わせる形で、彼は足を止めた。

 敵がいたからではない。その先に炎が――離宮を燃やす赤色が見えたからだった。


 煙と熱気とを肌で感じる。確実に王を殺すために、誰かが火を放ったのだろう。

 その激しい火勢は彼に終わりを思わせた。クライスという国の一つの終わりを。

 その炎の音の中にあってなお。


「なんで、あなたは助けてくれないの……」


 その嘆きが、耳朶を震わせた。

 火中に踏み入りながら、彼は告げるべき言葉を選んだ。

 だが選ぶべき言葉もなく、彼はただ短く告げた。


「それが奴の望みだからだ」


 理解できるだろうか。この幼い少女に。

 おそらくは、まだ理解できないだろう。それでも伝えなければならない。

 伝えなければ、この弱い少女は泣き続けるしかないだろう。

 延々と何故と問いかけながら、この日と炎に怯えるだろう。


 炎の中で、彼は少女を床に下した。

 彼女の前に膝を突き、その眼を正面から見据える。


「悔しいと思うのなら、忘れるな。憎いと思うなら憎み続けろ。忘れたいと思うならそれもいい……今はまだ、わからないかもしれない。だが、ニコラエナ。いつかは君が決めるんだ」


 ファーレンは彼に、娘を託すと言った。だが彼は暗殺者だ。

 ファーレンが望んだだろう平穏を、この娘に与えることはできない。

 それを悲しく思う。

 それでも、彼は娘に伝えなければならなかった。


「ニコラエナ。君が選ぶんだ。全てを忘れて生きていくのか……」


 少女の双肩に手をかけた。

 青く澄んだ少女の瞳は、今は涙に揺れている。

 その目を正面から見据え、彼は呟いた。


「――負け犬のように惨めに生きて。それでも父の仇を取るか」

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