#3
「ミゼット」の町並みは、現実の首都圏を中途半端に模している。正確には、渋谷や新宿、横浜といった主要な町の中心部を六角形に切り取って、それらを敷き詰めたような形をしているのだ。
渋谷エリアの東側は、公園エリアを挟んで浅草エリア。向かうのはその浅草エリアだ。東京スカイツリーと浅草寺を中心に、リアルの町とそうでない町が融合した形で展開されている。
スカイツリーのてっぺんまでジャンプするのは、いくら仮想世界とはいえ怖い。エレベーターで展望台まで行き、そこから屋上へ出る階段を上る。「表側」だとわずかばかりの入場料がかかってしまう施設だけど、「裏側」においては全部タダだ。本当のてっぺんまでは上らずに、四百五十メートルあまりの高さから、周囲に広がる「ミゼット」の世界を見つめる。
六角形のパッチワークのような世界は、エリアによってはっきりと色が違う。公園エリアは緑色、新宿や渋谷は灰色で、遊園地エリアは明るいピンク色。横浜エリアは遠くまで広がる海洋エリアに面している。反対側を見れば、こちらは山並みが世界の果てを縁取っていた。遠くには不自然に白いエリアや、くすんだ灰色のエリアもある。建設中だったり、あえて怪しげなムードを纏わせたエリアだったり。とはいえ、そういったオリジナルのエリアは、一部を除いてあまり賑わってはいない。私だって、友達と遊びに行くなら、他の似たような町じゃなくて渋谷を選ぶ。人がたくさんいる場所というのは、それだけで楽しいものだ。現実世界の私の行動範囲には、あんなにたくさん人がいる場所なんてない。学校だって、休日のイオンだって、見渡す限り人だらけ、なんてことにはならないのだ。その数えきれないほどの人間たちが、みんなそれぞれの目的で、同じ街に遊びに来ている。「それしかないから」イオンに向かう私たちとは違う。彼らは、他にいくらでも選択肢がある中で、渋谷という街を選んだのだ。そう思うと、すれ違いさえ素敵な奇跡に思える。袖振り合うも多生の縁、というやつか。
「綺麗だねえ、チビ」
無人の町も、視界を切り替えれば活発なデータのやりとりに彩られる。ひとつひとつの通信が、その建物を訪れた人の活動を示している。たくさんの人がここにいる。リアルでは何百キロも離れた場所にいる人たちが、小さな六角形の中で袖を触れ合わせている。データのひとつひとつが、誰かの人生の一部。買い物をして、ショーを見て、喋って、笑っている。
「そう言えば、ここもチビが教えてくれたんだっけ」
最初にやって来たときは、スカイツリーの側面をジャンプして登った。チビを追ってきたのだけど、もう二度とやらない、と断言できる。落ちやしないと分かっていたって、あまりにも心臓に悪い。でも、考えてみれば、その恐怖を乗り越えて登ったからこそ、塔の上からの景色が言いようもないほど美しく思えたのかもしれない。
考えてみれば、それまで私は、「ミゼット」の世界を、「美しい」という言葉で形容したことはなかった。楽しい世界。大好きな世界。そして、美しい世界。
「本当に、チビに会えて良かった。あなたは私に、色んなことを教えてくれる」
「ぴぃ?」
不思議そうに首を傾げるチビを、肩の上に乗せる。
チビは怪しいデータのある座標を見つけては私に送ってくるのだが、これがまた、厄介なデータばかり。それらに対処しているうちに、普通の人間が半年や一年かけて積むような、いやそれよりも濃い経験を積み重ねて、私もすっかり優秀な管理者になった気分だ。もちろん最初は上手くいかなかった。逃してしまったデータもあれば、余計なアプリを止めてしまって始末書を書いたこともある。一歩間違えれば大変な事態だ。でも、だからこそ、技術を身につけようと思えた。次はもっと上手くやろうと思えた。
田舎の女子高生である私にも、できることがある。こうして、国民的なSNSである「ミゼット」を、自分の力で守ることができている。
情報技術の世界に、住んでる場所も年齢も関係ない。女だから。子供だから。どうせ田舎から出ることもないから。周りがみんな、そうしているから。こんな生活も、決して嫌いなわけじゃないから。だから、変わる必要なんてない。なりたいもの、素敵なものには憧れるけど、ただそれだけ。――そんな私を変えてくれたのは、間違いなくこのチビなのだ。
「ほんとうに、綺麗……」
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「――同感です」
不意に人の声がして、ハッと私は振り返る。いつの間にか一人の男性が立っていた。ここにいるということは、もちろん同じ管理側の人間に違いない。
「ああ失礼、盗み聞きするつもりはなかったのですが。いつもこちらに?」
「い、いえ、たまに……」
驚いてしどろもどろの私に、男性は優しく微笑みかけてくる。実年齢は分からないが、アバターは三十代後半か、四十代くらいの男性だ。中年というにはまだ早いが、若者と呼べるほどでもない。どこか気取った仕草が、きっちりとスーツを着たアバターに似合っている。
ちょん、と空中をタップする仕草。私のことを調べていたんだ、と気付いたのは、「淡嶋春陽さん」と話しかけられた後のこと。
「最近は大活躍のようですね。ああ、申し遅れました。わたしは杵築朱彦、ミゼットの管理部長をしております」
けっこう偉い人だった!
もしかするとこの男性は、私の上司の上司、あるいはそのまた上司くらいにあたる人なのではないだろうか。
「あ、淡嶋春陽です。お、お世話になっております!」
慌てて姿勢を正し、ぺこぺこと頭を下げる私に、杵築さんは優しく笑いかけてくる。思いがけない出会いだ。ふつう、ただの管理者が部長と出会う機会なんてない。それどころか、他の管理者とだって、めったに顔を合わせることはないのだ。
「そうかしこまらなくて結構ですよ。それにしても可愛らしい衣装だ。こんなおじさんが言うとセクハラになるかもしれませんが、大変よくお似合いですよ」
冗談めかして笑う杵築さん。セクハラになるかも、だなんて、都会だとこんな言葉ひとつにも気をつかうのか。酔っぱらうとベタベタ触ってくる近所の男衆も、少しは見習ってほしい。五年くらい前、うちの地区で自動運転車の低速無人運転が許可されてから、消防団の集会だの祭りの準備だの、男衆は何かと理由をつけては酒を飲みまくる。頼むから巻き込まないでほしい。同じ酒なら、手酌でも味は変わらないと思うのだが。
「おや、お若いのに優秀でいらっしゃる。将来はIT技術者に?」
「はい、そのつもりです! 将来的には、その、できれば『ミゼット』に入社できればと……あっ、いえっ、まずは大学に行ってからのつもりですがっ」
「そうですか。見たところ、あなたには素晴らしい適性がおありだ。若い世代は順応が早い。ここでの仕事は、きっと良い経験になるでしょう。……ところで、淡嶋さん」
杵築さんが一歩こちらに近づく。肩の上で、なぜかチビがびくりと身を固くしたような気がした。チビを返せ、と言われるのではないかと不安になり、私は思わずチビを抱きしめる。何だかんだ言っても、不正取得してしまったデータだ。けれど杵築さんの口から語られたのは、まったく違う話だった。
「もし良ければ、もう一つ、別の仕事をお願いできませんか」
「別の、仕事?」
「ええ。お時間があるなら、これから少し説明しますが、いかがですか?」
「はい、ぜひとも……」
どうせ一介の管理者に頼む仕事だから、中身も報酬も大したものではないだろう。それでも、管理部長に私の存在を知ってもらえるのなら、願ってもいないチャンスだ。
本当なら、もっと喜ぶべき場面のはず。
けれど私の言葉が少し歯切れ悪くなってしまったのは、腕の中のチビが、警戒するように羽を逆立てていることに気付いてしまったからかもしれない。
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「どうしたの? チビもびっくりした?」
基本的には、ミゼットの中はいつも青空だ。たまに一部のエリアで、イベントによって天候や時刻が変わるくらい。今いるのはその「一部のエリア」で、空は夕暮れの色をしている。特定のモデルがない、オリジナルのエリア。大きな湖と、その中に点在する島からなるこのエリアは、「ミゼット」における定番のデートスポットだ。カップル同士が鉢合わせしないように、島はひとつのカップルで独り占めできるようになっている。電脳空間でしかできないことだけど、同じ島にいくつカップルが来ても、それぞれが案内されるのはデータ上では別のエリアなのだ。いま私がいる「赤島」も、ログによれば、七組のユーザーが同時に、鉢合わせすることなくこの絶景を眺めている。渋谷の街とは正反対の、静寂というぜいたく。群れたがったり孤独になりたがったり、つくづく人間はわがままだ。
こんなところまで来たのは……どうしてだろう。自分でもよく分からない。「裏側」にいるのだから、一人きりになるために、わざわざこんなところに来る必要もないのに。まるで、何かから逃げているみたい。
膝の上で呑気にうずくまるチビは、ふわふわして気持ちいい。青い羽毛のところどころに混じる、蝶の翅めいた光る部分が、夕陽を浴びてキラキラと輝いている。
杵築さんへの返事は保留している。明日までは待ってくれるそうだ。私の中の理性は、すぐに「はい」と言うべきだと言っていたのだけど、そうできなかったのは動揺ゆえだろう。
「それにしても……信じられないよね。あの社長が……」
聞かされた話は、正直にわかには信じがたいものだった。信じられない、というよりは、信じたくない話。
――住吉透那は、一ヶ月ほど前から行方をくらませている。
それだけでも驚いたし、そんなことを私に話してもいいのかと聞いてしまったけれど、杵築さんは「いずれ知れることです」と言っていた。確かに最近メディアに出て来ないとは思っていたけど、まさかいなくなっていたなんて。
「それで会社は大丈夫なんですか?」
「今のミゼットはもう、ベンチャーだった頃とは違いますからね。現状のサービスを維持するだけなら、トップの指示がなくても回ります」
技術屋である住吉透那は、経営にはあまり興味がなかったのだと杵築さんは続けた。そうなのかもしれない。たとえばミゼット・グループに保険会社が連なっているのは、彼ではなく、他の誰かが立てた戦略によるものだろう。インタビューを読む限り、住吉透那が思い描いているのは、もっと純粋で、商業性の薄い世界だ。
もしかすると彼は、そんな今の「ミゼット」が嫌になってしまったのかもしれない。
だから。
杵築さんの言葉を、頭の中で反芻する。
「彼は、この『ミゼット』のすべてを――破壊してしまうつもりです」
呑み込めない顔の私に対して、杵築さんはさらに言葉を重ねた。
「先ほど淡嶋さんが隔離したプログラムも、彼が作ったものです。ああした怪しげなプログラムが、『ミゼット』のあちこちに紛れ込んでいるのですよ」
どんどん報告が増えているんです、と杵築さんは言う。
「あのプログラムに、妙な気配を感じませんでしたか? 気配、なんて言い方はおかしいかもしれませんが、ヘッドギアからの入力がないのに、気分が悪くなるような感覚はありませんでしたか? 各管理者も『そんなはずはない』と思ったのか、なかなか報告に含めてこなかったので、事態の把握が遅れてしまったんですよ」
私が感じたあの気持ち悪さは、気のせいじゃない?
馬鹿な。ヘッドギアの安全性については、ものすごく厳しい基準があるはずだ。五感以外に影響を与えることは困難、というのが触れ込みのはず。
「常識で考えれば、その通りです。だが彼は、残念ながら天才だ。彼はこの『ミゼット』内で、特殊なデータを入力することによって、人の心を操ることに成功しました」
心を操ると言っても、気分を悪くしたり、あるいは逆に良くしたり、という程度のもの。とはいえ、さっき私が感じた不快感は、はっきりそこに存在していた。あれがもし強力になったら? あるいは、同じくらいの快感を与えられてしまったら? 気持ち良くなるのは一見すると悪くないように見えるけれど、ドラッグのようなものだと思えば恐ろしい。
「彼がその気になれば、すべてのユーザーに対して影響を与えることはたやすい。現在の『ミゼット』にどれだけの現役ユーザーがいるかご存知ですか? 宣伝に使っている企業、支店を出している企業がどれだけあるかはご存知で?」
アクティブユーザーは、およそ六割くらいだったっけ。中高生に限れば八割を超えるはず。そしてそれは、ヘッドギアの普及率とほぼ変わらない。ヘッドギアによる電脳空間にこれだけしっかり対応したSNSは他にほとんどないし、スタバをはじめ、さまざまな大企業が出店しているという事実も普及に一役かっている。
「それだけの人間の精神が、彼の人質になっているようなものです。目的は分かりませんが、彼がひとたび動けば大変なことになる。もちろん、すぐに『ミゼット』は停止するでしょう。それが社会にどれだけの影響を与えるかは、お分かりになるはずです」
ですから、と杵築さんは私に頼んだ。
「データの発信元を突き止めてください。彼がどこから何をしているとしても、これまでの解析結果から判断する限り、データ発信のための拠点は『ミゼット』内にあるはずです」
「ねえチビ、どう思う?」
「ぴぴぃ……」
杵築さんに会ったときから、チビはなんだか大人しい。他の人間に会うことなんて滅多にないから、驚いてしまったのかもしれない。
「杵築さんの言ってること、本当なのかな。本当に、社長は『ミゼット』を壊してしまうつもりなのかな。SNSも、会社も、何もかも……そうまでして、何がしたいんだろう」
「ぴっ?」
チビが顔を上げて、不思議そうにこちらを見る。つぶらな瞳が愛らしい。
「社会への影響? 壊れてしまってすぐは大変だろうけど、きっとまた別の会社ができてしまうんだわ。『ミゼット』の上っ面だけを真似するなら、社長みたいな技術力がなくても、じゅうぶん誤魔化せるもの」
管理者にさえデータを隠蔽してみせる「ミゼット」のシステムは、社長の技術力と発想力によって実現されている。彼がいなければ、少なくともこの「裏側」の世界は存在しなかっただろう。わざわざリソースを割いてこんなエリアを作らなくても、普通に画面からアクセスして管理できるようにしておけばいい。いくらヘッドギアが普及したと言っても、ディスプレイとキーボードが駆逐されたわけじゃないのだ。住吉社長みたいに、ほぼ全ての仕事をヘッドギア越しにこなしてしまう人もいるけど。でもインタビューによれば、プログラムコードを書くときには、彼も仮想空間にキーボードを生み出しているらしい。私が魔法で悪いプログラムを片付けたように、ある程度までのプログラムならキーボードがなくても組める時代だけど、高度なことをするには「かゆいところに手が届かない」と社長は言っている。
でも、そうやって中身をプログラムコードとして理解し、書き換えているのは、住吉社長だけ。大きな会社としては考えられないことだけど、もともとミゼット社が小さなベンチャー企業であったことと、住吉社長が天才だったことが幸い――あるいは災い――して、「ミゼット」のシステムはその中心に、巨大な未知空間を抱えたまま稼働している。
そう。だからこそ、社長は、社長だけは、「ミゼット」を思いのままに操ることができる。
誰も知らない内側から、ひっそりと。
そして誰も、それを止めることはできない。
「私は……どうしたいのかな」
よく、分からない。
私は「ミゼット」が好きだ。このままであってほしい。いつまでも陽の沈まない、この空間みたいに。でも、住吉社長のことも好きだ。尊敬している。だから、彼がこの世界を犠牲にしてまで何かをしようとしているのであれば、それが社会的には悪いことだとしても、彼の気持ちを否定したくはない。彼は、飽きたおもちゃを意味もなくゴミ箱に投げ捨てるような人じゃない。彼がそういう人ならきっと、もっと早い段階で、「ミゼット」を見捨てているはずだ。そんな彼が、今になって何かをしようとしているのだから、それにはきっと意味がある。
「ぴぴぴ!」
しっかりしろ、とでも言うように、チビが私の頭を突っつく。ぐりぐりと頭を押し付けてくる。ふわふわの感触。ああ、そうか、「ミゼット」がなくなったら、チビとも会えなくなってしまうのか。それは……ちょっと、悲しいかも。
「社長はいま、どこにいるんだろうね」
これまで見聞きしてきた、住吉透那に関するたくさんの記事や動画を思い浮かべながら、私は空を見上げる。
あちこちの記事で、住吉透那のプロフィールは語られている。生まれは東京。幼少時にアメリカのカリフォルニア州に渡り、そこで天才児としての教育を受ける。飛び級を重ねて十四歳で大学に入学し、在学中に「ミゼット」の原形となるシステムを開発。いまの私と変わらない年齢だ。ミゼット社の設立は、大学卒業後の十八歳。二十歳のときに日本に帰国し、以降、東京を拠点に活動している。現在二十三歳。
東京なんて、カリフォルニアと同じくらい、私にとっては遠い場所だ。「ミゼット」の中では渋谷や浅草を闊歩する私だけど、本物の東京なんてたった一度しか見たことがない。それだって、ナビを頼りに歩いただけ。海外にだって出たことはない。
身を隠すなら、知っているところだろうか。それとも全然知らないところ? 経歴を考えれば、アメリカに渡っていてもおかしくはない。
「チビ。私、データの発信元を探すよ。きっとできる。だから、手伝って!」
見つけたあとどうするのかは、まだ決められない。でも、まず動かなければ、未来を選ぶことさえできないのだ。
私は杵築さんから渡された過去の攻撃記録を広げ、その分析を始めた。