#2
電脳空間の中に何気なく隠された、いくつもの入口。
そのひとつ、雑居ビルのドアノブに手をかけると、カチリと錠が外れる音がした。もちろん、ただの効果音だ。電脳世界にカギはいらない。私のアバターの存在、すなわちアカウントそのものが扉を開くカギなのだから。私のアカウントは、どこかにあるデータベースと照合され、適切な権限を与えられる。それはつまり、この世界――「ミゼット」が私という存在を「知って」いるということだ。
しかし、この空間には、時折「ミゼット」が「知らない」データが混入する。
プログラムのミス、すなわちバグの産物ならまだいい方だ。作業の際に置き忘れられたデータも、バグの一種と言えるだろう。中には、ごくわずかだけれど、何者かが外部から悪意を持って滑り込ませたデータもある。由来はともあれ、そうしたデータは、たいていの場合、ミゼット内部からの何らかの刺激によって動き出し、ひっそりと悪事を働くのだ。
――私の仕事は、そんな「悪い」プログラムを退治すること。
扉を開けて中に飛び込む。その先に広がっているのは、さっきまで歩いていたのとそっくりな町。けれどそこに人の姿はない。町は静寂に支配されている。
私の服が、派手すぎないキャンディカラーのエフェクトに包まれて、衣擦れのような音と共に、まったくの別物へと変わる。どこかの私立高校みたいなエセ制服から、白とオレンジを基調にした、すっきりしたワンピースに。腰の後ろには、半透明のプラスチックめいた素材でできた大きなリボン。同じ素材はブーツや髪飾りの装飾にも使われている。テーマは「サイバー魔法少女」。気に入ってはいるけど、友達に見せられるかと言われると、「キャラじゃない」って言われそうで少し恥ずかしい。でも、あの住吉透那のアバターだって、半透明のマントを羽織った魔法使いみたいな格好なのだし、これくらいは許容範囲なはずだ、うん。
「ぴぃー!」
可愛らしい鳴き声が耳に届いた。見れば、ぴぴぴ、と鳴きながら飛んでくる一つの影。
「チビ!」
ふかふかの、青い毛玉のような生き物だ。大きくてずんぐりとしたヒヨコのような形をしているけれど、その不器用そうな短い羽は、ちゃんと空を飛べる。私の相棒、チビだ。飛んできたその勢いのまま、頭からぽやんと私の胸に激突。いつも思うんだけど、こいつはわざとやってるんじゃあるまいか。
いや、そんな呑気なことを考えている場合じゃない。
「さっきのメッセージ、本当なのね!? 急がなきゃ!」
「ぴぴっ、ぴぴぃー!」
たぶん「そうだね」と言っている。この毛玉――チビとは一月ほどの付き合いだけど、だんだん言っていることが分かるようになってきた、気がする。
私は片腕でチビを抱いて走り出す。そんなことをしなくても飛んでついてきてくれるけど、ふわふわの感触を一秒でも長く味わいたい、と思ってしまうのは仕方ないことだと思う。
ここは「管理者用エリア」、内部での正式なニックネームは「鏡の国」、通称「裏側」。正体を知らない人たちからは怪しい空間だとウワサされているけど、べつに面白い場所ではないし、一般利用者が恐れているようなのぞき見や盗聴だって、そう簡単にはできない。もちろん管理の都合上、まったく不可能ではないけど、一般人のおしゃべりなんて、警察からの要請でもない限り、人間の管理者がわざわざ覗くことはありえない。会話や行動の記録から、各ユーザーの行動傾向やオススメのサービスを導き出すのは、「ミゼット」というシステムそのものの仕事。たくさんのユーザーの発言を束ねて、流行や株価の予想をするのも、公序良俗に反する発言や無防備な個人情報を見つけて、それらをそっと隠してあげるのも、人間の仕事ではない。
私たち人間の管理者は、法律で言えば憲法みたいなものだ。法律が暴走しないように取り締まるための法律。
現実世界では考えられないほど軽やかな動きで、跳ぶように走る。空いた右手で、空中に二回、8の字を描いた。指先に現れた、魔法陣みたいな光の円盤をタップ。次の瞬間、無人の町がカラフルな色に染め上げられる。サーモグラフィーの映像によく似た、赤から青までのグラデーションが視界いっぱいに貼りついている。可視化されているのはデータの通信量。
一部の象徴的なランドマークを除いて、ミゼット内の建物は、その一棟がひとつの仮想サーバーに相当している。怪しいプログラムが潜むのは、たいてい町の中心を外れた、地味な場所にある建物だ。
目指す地点までの道路を駆け抜ける。腕の中でチビがパタパタと暴れる。
「ぴぃっ、ぴぃっ!」
「えっ、これ?」
目的地にあったのは、真っ赤に染まる大きなビルだった。ずいぶんと活発に動いているように見える。こんなところに、こんなビルはあっただろうか。
頭の髪飾りに手を当てる。プラスチックめいた素材でできたオレンジ色のバレッタは、一瞬のうちに、一メートルくらいある同素材の杖へと変化する。
「ミゼット」のシステムは、私たちのようなバイトに――ウワサによれば、社員のほとんどにも――昔ながらの、直接的なデータ操作を許さない。代わりにあるのがこの空間だ。魔法の杖で建物を建てる呪文を唱えれば、仮想サーバーの構築プログラムが勝手に立ち上がって、この空間には建物が、現実世界のどこかのデータセンターには仮想サーバーが建つ。データセンターに直接指示を送ることはできない。
データの閲覧も同じ。私たちに見られるデータは限られている。杖を振れば、ログデータをおさめた虹色のキューブが出現。中に入った色とりどりのグラフを確かめてみれば、二十時間前から処理量が跳ね上がっているのがわかった。ここに入っているのは「あなたに合った自動車保険を紹介します」という、ミゼット・グループのある企業が製作したアプリだ。とても地味なアプリで、ある時突然データ量が一万倍になるような分野でもない。ならばこれはバグか不正アクセスのどちらかだ。どちらにせよ、放ってはおけない。ビルに見覚えがないわけだ。ログを信じるなら、二十時間前にサーバーが拡張され、ビルの外観も大きく変化している。新しいテナントが入ったという通知も、入るという予告も記録されていないのに。
「ありがとね、チビ」
「ぴぃっ、ぴぃー!」
頭を撫でると、チビは嬉しそうに鳴いて、私の手のひらに頬をこすりつけた。
チビはおそらく、「ミゼット」の異常検知・排除システムの一部だ。この空間で、不正データに侵蝕されそうになっていたAIデータを見つけたのは先月のこと。そのとき、破損してしまっていた外見の代わりに、手元にあった鳥の素体のデータを与えて生まれたのがチビだ。データの正体が分かったら、報告してミゼット社にチビを譲渡するつもりだったが、つい情がわいてしまって思い止まった。だってこの子、めちゃくちゃ可愛いんだもん。「ぴぴぴ」って鳴いて小首をかしげる仕草は最高だし、手触りだってふわっふわ。そばにいてくれるだけでテンションが上がる。こんな仕草は指示していないから、これはきっと、プログラムの挙動と「ミゼット」のシステムが絶妙に噛み合ってしまった末に生まれた、偶発的な可愛さなのだ。
どうせ放っておけば完全に破損していたデータなのだし、私に利用資格がないプログラムなら「ミゼット」が自動で止めてくれるのだから、使えている限りはチビを所有することに問題はない、はず。それに何より、チビがこうやって疑わしい場所を探してきてくれるのは、バイトをする上で実に助かる。少々ズルをしている自覚はあるけれど、結果として実績は出しているのだから、悪いことではないはずだ。
杖の柄についたダイヤルを回せば、杖のモードが変わる。キャンディカラーのエフェクトをばらまいて変形した杖は、虫取り網をイメージしたもの。先ほどより長くなった杖の先に、輪っか状のオブジェがついている。
ビルの外側をぐるりと周り、立ち位置を決めて杖をかざす。ターゲットの座標を特定。杖の柄に現れた新たなボタンとダイヤルを操作し、身振りと呪文を使って対象を指示・確定。
「これでもくらいなさいっ!」
本来のテナントを巻き込まないよう注意しながら、指定した空間から外側への通信を一気に遮断――したはず、なのだが。
「きゃっ!」
バシッ、という効果音と共に杖が弾かれる。同時に、ぞくりと妙な悪寒がした。
――なに、これ?
気持ち悪い。五感のどれにも異常はないけれど、まるで体内にぬめっとしたものが流し込まれた気分だ。こんなの初めて。いったいどんなデータがこんな異常知覚を生み出したのか分からないけれど、とにかく、何らかのカウンタープログラムが仕掛けられていたのだろう。続いて通信量が急速に減少。私のプログラムによる動きではない。証拠隠滅をはかっているのか。
「ぴいーっ!」
チビが窓の一つを指し示す。言わんとするところを理解し、私は杖を回転させると、輪っかがついていない方の端で窓を叩き割る。力まかせの行動に見えるかもしれないけど、モードの切り替えや適切な座標の選択は、けっこう職人めいた技術だ。なまじデータを生で見られないだけに、五感で感じ取れる範囲から、必要な情報を予測する腕が要る。杖を窓から突っ込み、ふたたび発動させれば、ぴーん、と涼やかな効果音が響いて室内が青く凍り付いた。
そうしてプログラムの一部を強制停止させたまま、操作ウィンドウを開いて状況を確認。腰のリボンに手を当てれば、リボンはポーチに変形する。中からツールをいくつか引っぱり出して、カウンタープログラムにさらにカウンターを仕掛け、対象の座標を孤立状態にした。この手の対抗ツールなら、必要になるたび作っているから、気がつけば山ほど貯まっている。
「よし、これでおしまい!」
孤立させたプログラムを強制停止させ、そのまま圧縮して、解析システムに送りつければ仕事は終わりだ。あとは向こうが精査して、それなりの対応をしてくれる。あれが悪意あるプログラムだったら、けっこうな報酬が出るだろう。あんな不気味なカウンタープログラムが仕掛けてあるくらいだから、偶然の産物ではないのは間違いないし。
「ナイスファイトだったよ、チビ! さすが私の相棒!」
「ぴぴっ、ぴぃっ」
ぎゅっと抱きしめると、チビも上機嫌な様子で羽をばたつかせる。
ツールをポーチの中に戻す。マーキングをするための針状の道具、伏せたお椀のような形の警報ツールなどなど、見た目からでは何だかよく分からないアイテムばかり。とはいえ、見た目が乱雑なのは仕方ない。私はモデリングデータも自作するたちで、あれこれストックしておいて必要な時はそこから選ぶようにしているのだけれど、ちょうど機能に見合うデータがない時もある。ならば後から作ろうとしたところで、私のセンスでは思った通りのデザインが作れるとは限らない。中国拳法のようなヌンチャクを作るつもりが、途中で何かを間違えて、どう見てもただの菜箸になってしまったこともある。
ポーチをリボンに、杖をバレッタに戻した私は、ぴょん、と大きくジャンプして、隣のビルの屋上へ。視界を通常モードに戻せば、そこには一回り小さくなったビルがある。「表側」から見れば、突然の模様替えが起きたように感じられるだろうけれど、それはこの「ミゼット」の中ではよく起きることだ。特にこういう、あまり人通りの多くない場所では、テナントの追加や離脱も多い。そう考えれば、一般のユーザーに不安を与える可能性もなく、綺麗に処理ができたのではあるまいか。
「もっと高いところに行ってみようか、チビ」
もしかしたら、また別の怪しいデータが見つかるかもしれない。チビを抱いたまま、私はビルからビルへと屋上を飛び歩く。ブーツに仕込んだプログラムが、私に人間離れしたジャンプ力を与えているのだ。ちなみにこのジャンプ力は、「表側」では設定できない。だからこんな風に飛び歩けるのは、私が普通の人よりも強い権限を持っている「裏側」だけ。この移動が、私はけっこう好きだ。チビみたいに細かい機動はできないけれど、小さい頃にアニメで見た忍者みたいで、なんだかウキウキする。
「そうだ、あそこはどう?」
遠くに見えるスカイツリーを指さすと、ぴいっ、とチビが楽しそうに鳴いた。
いつも人のいない場所だから、きっと今日も独り占めだろう――そう考えながら、私は109の屋上を蹴った。