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世紀末救世主になれないおっさんは目が死んでる  作者: 海光蛸八
二章 凍てつく視線
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ゴキブリ

 かさかさと音を立てながら、ゴキブリたちはあっという間に壁や天井を覆ってしまった。譲治が初め焚き火の明かりに気が付かなかったのも、この膨大な数のゴキブリがホームを覆っていたためだろう。譲治がライトをかざすと赤黒い甲殻がわずかに光を反射する。


「じょうじ、さん……」


 マコトが震える声で言うと、足元で横たわっていた男が瓦礫の隙間に吸い込まれるように消えていった。この瓦礫の下は、ゴキブリたちの巣だ。


「走れ!」


 譲治が叫ぶと、ゴキブリたちは譲治めがけて一斉に襲い掛かってきた。猛スピードで地面を這い、ひとつの黒い塊となって譲治の体を黒く染め上げる。


「くそ!」


 振り払おうと手足を振るう譲治だったが、黒い波の勢いは止まらない。ジーンズの裾から侵入した数匹が譲治の足に歯を立て、肉を食いちぎる。痛みはわずかだったが、恐怖と嫌悪感で譲治は短く悲鳴を上げた。その声に勢いづけられたように、黒い塊はさらに譲治の体を侵食していく。


 首元まで浸食が進み譲治があきらめかけたところで、白い煙が譲治の体に吹きかけられた。煙を浴びたゴキブリたちは、次々に譲治の体から離れていく。


「大丈夫ですか! ……あっ、ごめんなさいバックから勝手に!」


 肩で息をするマコトの手には緑色のスプレー缶が握られていた。


「ああ、問題ない……気にするな」


 なんでも教えてみるものだ。譲治はそう思いながらマコトの肩を叩き、殺虫剤を受け取ってゴキブリたちに向かって噴射した。効果は十分にあり、譲治の体についていたゴキブリたちは次々に剥がれ落ちた。


 だがこれだけ数がいるととても量が足りない。殺虫剤を右に向ければ左の塊が、左に向ければ右の塊が譲治たちににじり寄る。


「くそ!」

「どうしました!」

「殺虫剤が……!」


 噴射の勢いが弱まっている、中身が残り少ないのだろう。そのまま二人はじりじりと追い詰められ焚き火のすぐ側、ホームの奥まで移動させられていた。譲治は火のついた木材を抜き取ってゴキブリたちに向ける。ほんの少しだがゴキブリたちの勢いが収まる。


「いいか、離れるな!」

「は……あ……!」


 恐怖でぶるぶると震えているマコトに譲治は叫んだ。


「分かったか!」

「は、はい!」


 足元のゴキブリたちに火をかざしながら、譲治はマコトの手をとり全力で階段へ向かって駆け出した。追いかけてくるゴキブリたちのざわめきで、二人の足音がかき消される。譲治が階段に足をかけ、あと少しで踊り場だというところで、マコトとつないでいた手にぐんと重みがかかった。


 振り向くとマコトの足にゴキブリたちが飛びついていた。一瞬のうちにマコトの下半身が黒く染められる。とっさに譲治は黒い塊に火をかざすが、ほとんどひるませることはできなかった。ゴキブリたちはマコトのスーツに歯を立てるが、噛み千切るのに苦労しているようだ。


「立て!」

「重くて……無理です!」


 マコトの足元に目を向けた譲治は全身の肌が粟立つような光景を見た。スーツに噛みついた先頭のゴキブリに別のゴキブリが噛みつき、そのゴキブリに別のゴキブリが噛みつく。それを繰り返して、綱引きのようにマコトをホームに引きずり込もうとしていた。自分の体に牙が食い込み体液が噴き出そうと、胴体が千切れようと、お構いなしにマコトの体を引き込んでいく。


「動けない……!」

「踏ん張れ!」


 譲治はマコトの手を掴み引っ張るが、まるで巨大な手で押さえつけられているように動かない。何匹かのゴキブリはマコトの肩甲骨のあたりまで来ており、鋭い歯をつきたてる。譲治が火をかざし、焼かれてもゴキブリたちは歯を離さない。


「助けて!」

「この野郎……ッ!」


 その時、譲治のリュックのポケットからいくつかの物がこぼれ落ちた。その中のひとつ、燻製肉が階段の下に転がっていった。新たに現れた獲物の匂いに、ゴキブリたちの統率が僅かに乱れ、マコトを押さえつけていた力が緩んだ。その隙に譲治はマコトの体を引き寄せる。


「あっ!」

「行くぞ!」


 譲治はマコトを引き起こし、脇に抱えると改札口まで全力で走った。

 外は大雨になっていたが、構わず二人は飛び出した。


 背後では、何重にも重なった羽音の咆哮が、駅全体を震わせていた。


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