8. 32歳、安いお酒と失恋の歌
『手がかかる子ほど可愛い』と世間では言うけれど、それは後輩にも当てはまるのだと知ったのはこの3ヶ月の間のこと——それまですぐ側にいた佐伯っちがデセールのセクションへ異動してしまってからだ。
この仕事に就いて、10年を超える。入店時期だけで言えばスタッフの半数以上が後輩だが、直接私が面倒を見た後輩は宇部ちゃんと佐伯っち、そして現在指導中の北上くんの3人だ。
要領が良い宇部ちゃんと、もともと才能もある上に努力を怠らず、それがちゃんと身を結んでいる佐伯っち。
二人とも手がかからないどころか、佐伯っちに関してはむしろこちらが沢山の事を気付かされ、どちらが指導しているのか分からなくなってしまうことも多い。
さて、現在指導中の北上くんはと言えば、宇部ちゃんの様に特別要領が良いわけでもなく、佐伯っちの様な努力を積み重ねるタイプでもない。調子の良さと人懐っこさで世渡りしてしまう、大袈裟に言ってしまえば笑顔で全てを有耶無耶にしてしまう、憎めないタイプの子だ。
指先はそれなりに器用だし、物覚えが悪いわけでも仕事が出来ないわけでもない。指示を出した事は求めるレベルで出来ている。
ただ、時々予想外の行動を取るから目が離せないだけで。悪気があるわけでも、手を抜こうとしているわけでもない。一度でも指摘すればすぐさま直るし、それ以降同じ失敗はしない。
周りが当たり前だと思っている知識が少々欠けている傾向にあるせいで突拍子もない事をしでかすだけ、なのだ。
今の私にとって『目の離せない』北上くんはとても有難い存在である。余所見をしている暇なんてない。佐伯っちの抜けた穴は大きいのだ。佐伯っち以上の仕事を私が出来ているか、正直自信がない。ましてや厨房に入りたての北上くんに佐伯っちレベルの仕事を求めるのは無理だ。
とにかく早く一人前に仕事をこなせるようになってもらい、不足分は私と宇部ちゃんで埋めるのが目下の目標である。
手のかかる北上くんのお陰で、私は自分の仕事に集中できている。突拍子なくて呆れる様な行動ですら、慣れればどうって事なくなってくるし、なんだかんだ言いつつも放って置けない。何よりシュンと落ち込んだ姿も、こちらのアドバイスを素直に聞いて頑張っている姿も微笑ましい。
イラッとする事もあるが憎めず、可愛いとすら思えてくる北上くんに私はたくさん助けられている。
言い方は悪いが、ペットに癒されるのとどこか通づるものがあるというか……それを知られたら相当ヘコまれそうなので黙ってはいるけれど。
そういうところを含めて北上くんが『可愛い』と思う。まぁ、相変わらず『アホの子』なんだけれど、そこをひっくるめて可愛いのだから、可愛げのない私としては羨ましくもあったりする。男の子よりも可愛げがないなんて、切なくて涙が出そうだけれどそれが私だ。
いくら手のかかる可愛い後輩がいて気が紛れているとはいえ、私の心が常に穏やかであるかといえば否だ。
不意に佐伯っちが視界に入ってしまった時、彼の隣にはあの子がいて、以前はずっとすぐ側にいた私ですら見た事無いような真剣な表情であの子を見つめていたりなんかしたらもうダメだ。穏やかでいられるはずがない。
佐伯っちの真剣な眼差しが、あの子の仕事に対して向けられたものなのか、あの子へ対する感情によるものなのかはわからない。前者であってほしいが、そうであったとしても彼にあんな真剣な表情をさせているのがあの子なのだと思うと切なくて泣きそうになる。
だからと言って私には泣いている暇なんてないのだ。
涼さんが佐伯っちを褒めている。
羽田さんや関さんまで、料理人よりも菓子職人の方が向いていると佐伯っちを評していた。
それに対して彼は、「夏月ちゃんの教え方が上手だから……」とか「夏月ちゃんと比べたら俺なんてまだまだですから……」と謙遜する。
以前は半径2〜3mの空間で一緒に仕事をしていた私と佐伯っち。現在はガラスの扉を隔てていて距離も10m程と以前より遠くなった。物理的な距離は大した事なくても、彼が私を置いてどんどん前に進んでいる様な気がしてならない。
涼さんを尊敬し、涼さんの背中を追うあの子がいて、佐伯っちもあの子に追いつこうと必死だ。
あの子はあの子自身が持つ知識と技術を、惜しむことなく丁寧に、佐伯っちへと教えているのだと彼は言う。
私は佐伯っちを指導していた当時は勿論そんな事出来なかったし、あの子がそうしている事を知った今ですらそんな風には出来ない。
技術は盗むもの、という考えも多少はあるし、それ以前に現在の北上くんはそこまでの段階には至っていない様に思う。だから、まだ基本的なことしか教えていない。
多分、私のやり方だって間違ってはいないのだけれど、相手の未熟さを言い訳に先延ばしにしているだけな気がしてならない。単純に、私には余裕と力量が足りないのだ。そのための努力をしなければならないけれど、焦れば焦るほど空回りをしている。自分なりに頑張っているつもりではあるが、努力が足りないと言われればそれまでだ。分かっているけれど、わかっているんやけど……。
きっとそれが私とあの子との差なのだろうとは思う。
あの子だったらどうするんやろう? と考えると卑屈になってしまう。
嫉妬や羨望にも似たこの感情を、私はどう扱えば良いのだろうか。
***
「佐伯っち、反省会行くで〜?」
彼がデセールへ異動してからも、休前日の仕事終わりに『反省会』と称して飲みに誘っている。声をかければ大抵二つ返事で参加してくれるのだが、今回は少し違った。
「夏月ちゃんも行かない? 反省会という名の飲み会」
「私が行っても良いの?」
「もちろん、みんな喜ぶよ」
目の前でそんなやり取りをされた上、嬉しそうに顔を綻ばせて「よろしくお願いします」なんて頭を下げながら言われてしまっては断るわけにもいかず。
普段無表情に近い子が見せる笑顔というのは本当にずるい。私に向けられた笑顔だというのに、佐伯っちが頰を染めて照れていることが腹立たしい。
もちろんそんな素振りは見せない様に気を付けたつもりだけれど、顔に出ているのではないかと内心ヒヤヒヤもしている。
正直、アルコールが入ったらうまく隠せる自信なんてない。
自分たちの職場がそうであるように、大半の飲食店は遅くたって23:00には閉店しているのだから、仕事終わりに飲みに行ける店なんて限られている。
日付が変わる頃から飲もうと思ったら、早朝までやっている大手の居酒屋チェーン率が高くなる。
少し離れたところに数軒、選択肢があるにはあるが帰りの事を考えると断然近い方がいい。そうすれば必然的に居酒屋チェーンの中から選ぶことになる。という訳で今日は和食系の居酒屋となった。
全席個室又は半個室のその店は、遅い時間ということもあり間違いなく全員同じ部屋へ通されるだろう。
他の店に行ったなら、7名という人数上席が分かれるのは必至だ。席が分かれるのは困る。佐伯っちから誘った以上、面倒見の良い彼があの子の近くに座るのは間違いない。最悪二人掛けの席に案内されてしまったらもうそれは反省会でも何でもなく、下手したらただのデートと化してしまうのではないだろうか。
予想通り広めの個室へと通されたのだが、そこで予想外の発言が飛び出した。
「私、こういう店初めて……帰りに飲むこと少なかったし……桃子さんと行くのはビストロとかバールが多かったから……」
「いやいや、学生時代はこういう店のお世話になるやろ?なのに初めてって、一体どんな店に飲みに行ってたん?」
「私、高校卒業して専門学校に1年しか通っていないので……未成年だったんですよね」
「学生時代も未成年だったから…ってどれだけ真面目や!高校卒業したら未成年でも一度は行くやろ? 酒は飲まんにしても、付き合いで……なぁ?」
周りに同意を求めれば皆頷いていたけれど、どうやら彼女は行かなかったそうだ。
話を聞けば成人式も出ておらず、さすがはエスカレーター式の女子校出身なだけあって、同窓会や友人との食事会が居酒屋チェーンなどで開催されるわけもなく、31歳になって初めてこうして利用する運びとなったらしい。
それを面白がった加奈子が、居酒屋メニューを各種注文し、飲んだことがないであろう居酒屋特有のサワーなんかを色々飲ませた結果、軽く酔いが回ってきたようだ。
にこにこと無防備に笑う姿は悔しいけれど非常に可愛らしい。
「夏月ちゃん、彼氏いないの?」
なんの脈絡もなく加奈子が尋ねるが、この質問は加奈子からの洗礼の始まりでもある。佐伯っちはどうやらそれに気付いたらしく、不安そうにあの子の様子を伺っていた。
「じゃ誰かそういう相手いるの?」
「そういう相手……好きな人ですか?」
「いやいや、そんなんじゃ無くて、セフレとか?」
加奈子の口から『セフレ』という言葉が出て来た途端、佐伯っちの表情が険しくなった。
同じタイミングでさりげなく席を移動した北上くんと山田くんは個室の隅で二人仲良く気配を消すことに必死だ。何度も加奈子の餌食となっている彼らは回避する方法をよく心得ている。
「?? 何ですか? それ?」
「はぁ!? 時々エッチする友達、セックスフレンドやで?」
佐伯っちの反応を見ていたら、ついつい彼女に対する口調がキツくなってしまう。
お嬢様だからそんな下品な言葉を知らないのだろうか? それとも、単にそういった会話への免疫がないだけなのだか?
「……そ、そんなのいるわけないじゃないですか!?」
どうやら後者だったらしい。この程度の会話でこんなにも赤面し、動揺した様子からそれは明らかだ。
「え? 普通いるって。どうやって性欲満たすの? あ、特定の相手がいないだけ?」
いやいや、それが普通とは限らないで? といつもなら加奈子に突っ込むところだが今日はあえてそれをしない。彼女を困らせてみたかったのだ。
「宇部ちゃん方式やな、合コン行って引っ掛けるとか?」
「それ、私が見境無いみたいじゃないですか? ちゃんと選んでますから」
別に見境がないと言っている訳ではないし、宇部ちゃんもそれをわかっていて軽口を叩いている。加奈子ほどではないが、宇部ちゃんも恋愛に対しては積極的に行動するタイプのいわゆる『肉食系』である。
「満たすも何も、特にそういう欲求感じたことないです……」
真っ赤な顔で俯きながら反論する姿を心配そうに見つめる佐伯っち。
いくら彼がそんな表情をしたところで加奈子の勢いは止まらない。
「はぁ!? それじゃあダメよ!? あっという間に老けちゃうわよ!! 定期的にエッチしなくちゃ!! 美容のためにも女性ホルモン大事だから!」
「すみません……ついて行けません……」
早々と白旗をあげた彼女に対しても加奈子は御構いなし。
「んで、初体験はいつ?」
逃げられないと察したのか、グラスを空にするペースが速くなってゆく。
皆で集中攻撃をしても可哀想なので、ひとまず話を宇部ちゃんへと振った。
「とりあえず、宇部ちゃんは早過ぎやな」
「15なんて普通ですって。篠山さんが遅いんですよ、21とか……それまで彼氏居なかったんですか? 20過ぎて処女は重たいですよ?」
「女子高女子大だったんやから仕方ないって!」
「いやいや、中学が共学ならチャンスはある!」
「ほら、夏月ちゃん、みんな言ったんやから……じゃあ質問変えようか、今から何年前?」
「高校より前ですか? 後ですか?」
こうして周りが喋った以上、あの子の性格上だんまりを決め込むのも気が引けるだろう。
佐伯っちには睨まれたけれど構わない。
あぁ、腹立たしいけれど面白い。そんなに夏月ちゃんの事が好きなんやね、って佐伯っちの顔を見ていたらわかる。
苦しくて、悔しくて、悲しくもあるけれど、私では引き出せないたくさんの表情を見られる機会などなかなかないのだから……。
自分でも趣味が悪いとは思う。アルコールのせいで気が大きくなっているのかもしれない。ついつい煽ってしまう私がいた。
「夏月ちゃんに限って後はないやろ? 絶対モテたで、この子。」
「初めての彼氏はいくつの時?」
「18です……」
質問を変えたせいで答えやすくなったのか、恥ずかしそうに答えてくれた。相変わらず心配そうに見守る佐伯っちの心をもっとかき乱したくなってしまった。彼だって気になっているはず。
「初めての彼氏が18って……いやぁ、そんなわけないやろ?」
「高校までずっと女子校だったんで……」
「じゃあ18かぁ」
「……でもその人とはしてません」
「んじゃいつなん?」
「その次の彼氏?」
「その先にも後にも……お付き合いした方はいません……18の時の人もきちんとお付き合いしたとは言えませんけど」
一体どんな恋愛をしてきたのだろう。こんなに容姿にも恵まれているというのに。
ふと浮かんできた疑念を期待半分カマをかける目的半分でさらに煽る。
「え!?? まさか…未だに…!? そしたら天然記念物やで?!」
「流石にそれはないですっ!! 一応経験はありますから!!」
案の定まんまと引っかかったので、更に畳み掛ける。
こんなにガードの堅い子が彼氏以外の相手としたなんて意外だ。
きっと彼も内心驚いているに違いない。
「お、ついに言ったで? いつやー? はけぇ! 吐いて楽になるんや!!」
「……26です」
「えー? 遅くないですか? すごく意外です!!」
顔を真っ赤にした彼女は、蚊の鳴くような声で恥ずかしそうに答えた。宇部ちゃんがすかさず口にした感想は皆の心の代弁といっても過言ではないだろう。
となれば、気になるのはその相手だ。
26という事は、パティスリーがオープンした年だ。
「んで彼氏じゃないって誰? まさか佐藤くん?」
「それはないやろー? あはは!」
「それは全力で否定します。あんな人が初めてとか生きていけません。1度もないですから」
加奈子に佐藤の名を出された事が余程嫌だったのだろう。今までの様子からは一変し、強い口調で彼女は否定した。
違うとわかっているのにその名を出す加奈子も酷いが、相手から返答を引き出すためあえてやっているのだ。
「ははっ! 殴ってでも逃げて正解だよー、佐藤くん、あんまり良くなかったし? 彼自身は自信満々だったからその気にさせといたけどね!」
「……え? 加奈子さん??」
そりゃあ驚くだろう。私だって驚いたし、佐伯っちに至ってはドン引きだった。彼女が驚かないわけがない。
「夏月ちゃん、気にしないで良いで? 加奈子、酒入ると欲望に忠実やねん。他にも何人か喰ってるしなぁ」
「私としては、涼くんとか佐伯っちに抱かれたいんだけど、涼くんには桃子ちゃんいるし、佐伯っちには全力で拒否され続けてるから……北上辺りで手を打つしかないかな?」
チラリと佐伯っちと北上くんの方へ視線を向けた彼女。
名前を出された途端、びくりと肩を揺らした佐伯っちと北上くん。山田くんは空気と同化することに必死だ。
「それより、誰なんですか?」
ターゲットを彼女へと戻した宇部ちゃんの発言に、北上くんはホッとした表情を見せたが、佐伯っちは相変わらず心配そうに彼女を見つめている。
「そうや、夏月ちゃんの話や。加奈子の話はどうでも良いねん」
「……ずっと、好きだった人」
「え? その後どうなったん?」
「1度きりでその後会っていないので……」
今にも泣きそうになりながらも、無理やり笑おうとする彼女。
やり過ぎてしまったかも知れない、そう思った途端自己嫌悪に襲われる。
私にだって思い出したら辛くて泣いてしまう恋があったというのに、私は面白半分で彼女にとってのそれを引きずり出して踏みにじってしまった。
それどころか尚も続く加奈子の質問攻めを止めることすら出来なかった私は最低だ。
***
気がつけば、カラオケに行く話になっていた。珍しく佐伯っちが「カラオケに行きたい」と言い出したらしい。だというのに、言い出した本人の姿がない。
探せばすぐに見つかったので声をかける。
「佐伯っち行くで〜!」
「すみません、先に行ってて下さい。夏月ちゃんトイレに行ってて……俺、後から連れて行くんで」
「ちゃんと来るんやで〜、2人で消えたら許さへんからな〜!」
冗談めかして言ったつもりだが、上手く笑えていたのだろうか。
佐伯っちの落ち着かない様子から、彼女がトイレからなかなか出てこない事を察したが、自分がペースを速めさせる原因を作った後ろめたさから、どんな顔をして介抱すればいいのかわからない。癪ではあるがその役割を望んでいるであろう佐伯っちへと委ね、先にカラオケ店へと向かう事にした。
居酒屋チェーン初体験のあの子にとっては飲み慣れない安い酒。悪酔いしてしまったのだろう。
「あのガードの堅い佐伯くんが骨抜きにされてるなんてね」
耳元で加奈子が囁く。一瞬私の気持ちを悟られてしまったのかとヒヤッとしたが、そうではないらしくホッとする。
加奈子があの子を質問責めにしていたのも、どうやら私と同じで佐伯っちの反応を楽しんでいたかららしい。
「昔店に来た彼女とは随分系統が違うわよね」
「そうですね。だけど、元カノさんよりも夏月さんの方が佐伯さんにはお似合いじゃないですか? ビジュアル的にも性格的にも。ほんわり穏やかな家庭を築けそうっていうか」
「とはいえ、脈はなさそうだけどね」
「加奈子さんもやっぱりそう思います?」
「どう考えてもそうでしょ? 夏月ちゃん、初めてを捧げた人が今でも好きなんでしょうね。佐伯くんなんて眼中にないんじゃない?」
「佐伯さん、気の毒ですね……夏月さんに振られたら、帰国した商談王子に是非慰めてもらいたいですよね……私は王子に慰められている佐伯さんを影からで良いので見守りたい……」
「宇部ちゃん、気持ちは分かるけど、欲望ダダ漏れ。品がないからやめなさい」
「品がないって、それ加奈子が言うん? 思いっきしブーメランやで?」
「篠山、あんたにとってもブーメランよ? 宇部ちゃん、私だって2人の絡みは見たいけれど、王子はダメよ」
「ですよねー。佐伯さん不倫になっちゃいますもんね」
「そうなのよ、同性でもそこに愛があったら不倫になっちゃうわ。王子は今や既婚者だもの」
「……きっと今頃フランスで……子どももいるんでしょうね。王子の子は可愛いんだろうなぁ……綺麗な奥さんと可愛い子がいたら、いくら相手が佐伯さんでも……」
「いやいや、それ以前の問題やし! 佐伯っちは絶対ノンケやで? そんな事より、誰か歌ったらええやん?」
宇部ちゃんが未だに佐伯っち×商談王子のカップリングを推してくるとは思わなかった。
加奈子の言う通り、王子は渡仏して件の女性と結婚し、子どもがいたっておかしくない。佐伯っちに対しても失礼だが、王子とお相手に対しては尚更失礼だ。
とりあえず北上・山田ペアにマイクを押し付け、数曲歌ってもらったところで二人はやって来た。どういうわけか二人して泣きだしそうな顔をしている。
カラオケでも注文したビールを煽るように飲む佐伯っちと、酔っているせいか違う理由があるのかわからないが、心ここに在らずといった表情で烏龍茶を飲む夏月ちゃん。
空気を読まない北上くんに、二人も順番にリモコンを押し付けられ曲を入れていたのだが、意図的なのか無意識なのか選曲が意味深過ぎる。
アップテンポでノリの良い曲を歌った夏月ちゃん。
ノリが良くとも、失恋の歌だ。忘れたくとも忘れられない、諦めようともがく歌詞があの子の心情を代弁しているのかも知れない。
佐伯っちはというと、優しい曲調ではあるがやはり失恋の歌だった。ただ、あの子が歌ったのとは違う、やがて来る未来への希望を込めた歌詞の曲。
別れた恋人へ語りかける様な歌詞だと言うのに、佐伯っちが歌えば、まるで未だ6年前の失恋を引きずるあの子を慰め、元気づける為の曲であるかの様に錯覚してしまった。