7. 32歳、彼の気持ちを確認して苦しくなる。
反省会と称し、休前日の仕事終わりに飲みに行く様になって久しいが、佐伯っちとの距離はそんなに変わらない。
以前と比べたら随分気安く話しかけてくれる様になったし、単にスタッフとしての仲は深まっている。
それが、嬉しくもあり、もどかしい。
自分が望んでそうしているのだから、もどかしいと言うのもおかしな話だと思う。でも、人間というものは欲が出てくるものだ。
時々、過去の過ちを忘れてしまう自分がいて、彼が自分だけを見てくれたらどんなに良いだろう、そう思ってしまう。
***
その日は朝からどうも落ち着かなかった。天気は悪くはないが、所詮は梅雨の晴れ間というやつで。夜になってもジメジメと蒸し暑く、鬱々とした気分になってしまう。
翌日は休み。ならば憂さを晴らそうと「パァーっと飲むで!」といつもよりもテンション高めで皆に声をかけた。
今日の参加者は佐伯っちと宇部ちゃん、それから加奈子とギャルソンの若手が2名。ワイワイ飲むのにはもってこいなメンバーだ。
支度の整った佐伯っちと2人、従業員用の出口を出たところでメンバーが揃うのを待っていると、慌てた様子の桃子さんと涼さんの会話が耳に飛び込んできた。
「涼、まだ夏月ちゃん出てこない?何かあったのかしら? ……もしかして、また襲われてるかも!?どうしよう!?助けなくちゃ!あの子ね、佐藤さんにしつこく嫌がらせされてて……何度か襲われかけてるの!」
桃子さんは泣きそうな顔で涼さんに訴えていた。
仕事を終えて「お疲れ様、まだ上がらんの?」と声をかけた時、あの子は残って仕事をすると言っていたはずだ。休み明けの予約の関係で必要な包装材料を取りに行ったのかもしれない。でも、どうして佐藤が? この時期のパティスリーは閑散期とまでは言わないが、忙しくない。遅くまで残っているなんて不自然だ。
「大丈夫だろ?」
涼さんが宥めるが、桃子さんは気が動転しているらしい。その目には涙が浮かんでいた。
「私、やっぱり見てくる!」
「だったら桃子は待ってろ。俺が行くから」
見兼ねた涼さんがパティスリーに走って行き、桃子さんも直後に彼を追ってパティスリーへと向かっていった。
あの子は大丈夫やろうか……そう思った反面、佐伯っちの不安そうな表情を見てしまい不安がこみ上げる。それと同時に早くここを離れなくては……と思ってしまう私がいて。
参加メンバーが揃ったら直ぐに居酒屋へ向かおうと声をかけた。離れる事は許さないし、それに関して有無は言わせない。
とは言え、気になるのも事実で。涼さんがいたから大丈夫。桃子さんだって行ったんやし。ここにいたって、何が出来るわけでもない。もしも、桃子さんのいう事が起こっていたところで、ここで私達に会うのは気まずいはずだと理由を並べている自分がいやになる。
気になるし心配だけれど、結局のところ佐伯っちと会わせたくないだけなのだ。あの子を見て、佐伯っちがどんな反応をするのかなんて絶対に見たくない。私が行けば、間違いなく彼も行くだろう。
「お待たせ。さぁ、行きましょ」
「みんな揃ったし、行くでー」
時間にしたらほんの数分なのだが、加奈子が来るまで随分長い事待っていた気がする。
メンバーが集まったのを口実に、どことなく渋る様子の佐伯っちを半強制的に促して居酒屋へ向かおうとしたその時だ——佐藤が建物からでてきたのは。
右手で右の頰を押さえた佐藤はこちらを睨み付けると、舌打ちをして私達とは逆方向へ歩いて行く。
佐伯っちはそんな佐藤をじっと見ていた。不安そうな表情の中には、間違いなく怒りも混ざっている。そんな顔をして一体どんな事を考えているのだろう。佐伯っちも桃子さんと涼さんの話を聞いていたから、あの子を心配しているのだろうというのは想像に容易いけれど、どれ程心配しているのかなんて知りたくはない。私は思わずそんな彼から目を背けてしまっていた。
「なぁ、佐伯っちって夏月ちゃんが好きなんやろ?」
私は馬鹿だ。大馬鹿者だ。酔っ払った勢いだからといって、聞いていい事と聞かない方がいい事がある。間違いなく今回は後者だというのに、思わず聞いてしまった。
居酒屋に着いてからも、ずっと苦しそうな顔をしている佐伯っち。あの子の事が気になって仕方がないって、見ているこちらが辛くなってしまうくらいに酷い顔をしている。
私はあの子が佐藤にされてきた事を佐伯っちに話した。加奈子や桃子さんから聞いていた話だ。
そんな事を話したら、佐伯っちは余計あの子の事が気になってしまうとわかっているのにどうしてそんな話をしたのだろう。少し期待していたのかもしれない、ショッキングな話を聞いて、佐伯っちが引いてくれないかと。もしかしたら、あの子の話をしているほんの少しの間だけでも、自分に興味を引きたかっただけなのかも知れない。
どちらにしたって最悪だ。
しかもそんな話をした後に「好きなんやろ?」なんて聞いた私は、案の定あからさまに嫌な顔をされた。
まるで、お前には関係ない、そう言わんばかりの顔だ。
「あの子、良い子なんやけどなぁ。ようオススメせんなぁ」
なんて私は意地が悪いんだろう。気になるような事を吹き込んでおいて、やめておけだなんて。自らの性格の悪さが嫌になる。だけれど、知っておいてほしい。
「彼女、ちょっと普通じゃ無いってゆうんかな、世間知らずやし……ってゆーか天然やし。しかも厄介なタイプの天然やねん」
彼女がデセールに来て2年、少しずつではあるけれど話す機会は増えている。
少し天然ボケっぽいところのある子だが、周りの状況をよく見ていて、何かをお願いすればこちらの意図を必要以上に汲んだ仕事が出来る賢い子だ。
彼女と話していてつい最近知った事は、彼女が育ってきた環境は私や恐らく佐伯っちとは違いすぎるという事だった。
すごく良い子なのだが、とあるジャンルの話題に限ってではあるが、時々会話が噛み合わないことがあった。天然ボケで片付けるには厳しいレベルで。
それも仕方ないのだと悟ったのは、彼女の出身校を聞いた時だ。正確には、出身校を一緒に聞いていた加奈子から、後ほど解説されてようやく、といったところか。
『初等部からって、生粋のお嬢様じゃなくちゃ通えないような所よ? 運転手付きの高級車で小学校に通うって言ったら分かる?』
そりゃあ中学高校時代の流行とかあるあるネタはもちろん、庶民の常識が通じないわけだ。
私は気付かなかったのだが、彼女が身に付けているものは私達のもらっているお給料では簡単に買えるものではないのだと加奈子が言う。
簡単には買えないが、頑張れば買えなくもない——20代も半ばになれば自分のご褒美にハイブランドのバッグや靴に手を出すなんて珍しい話でもないし、実際私も加奈子もいくつかそういうものを使っている。
加奈子自身、初めは気にも留めていなかったらしいが、ある時、同じ形のコートを色違いで着ている事に気付き、彼女のファッションチェックを密かにしていたところ、腕時計も、コートも、靴もバッグもハイブランドのものばかり。
極々シンプルで、長く使えるもの大事に使うタイプだとしても、給料には見合わない。中にはアンティークでとんでもない値段が付いているものもあるというのに、それをサラリと着こなす事に違和感を覚えずにはいられなかった。
以前、加奈子が「それ、素敵ね」と腕時計を褒めたところ、「祖母のお下がりなんです」とはにかみながら答えていた。そして、身に付けているもののほとんどが彼女の祖母のお下がりか祖母の見立てで買ってもらったものらしい。
そんなお嬢様がどうしてこんな所で働いているのか全くもって謎である。金持ちの道楽ではないのは一緒に働いているからよく分かる。
でも、本来ならば違う世界の人間である事は間違いない。
彼女に本気になってしまったら、彼が苦労するのが目に見えている。
それがお節介以外の何物でもない事はよく分かっている。目の前の彼の表情が、嫌という程にそれを語っているのだから。
それでも、言わずにはいられない。
年齢を考えれば、余計に。ただ、『好きだから』という理由で恋愛出来る時期はもうとっくに過ぎてしまっているのだ。彼も、彼女も、そして私も。
「あんな、そういう意味じゃなくて……あの子、お嬢様やねん……多分」
そう言えば、余計に気分を害したようで、だから何だ? とか、そんな事知っている、と言いたげな目をしている佐伯っち。彼もまた酔っているのだろう。いつもよりも遠慮がない。
あまりの気まずさに、有耶無耶にしてしまった。
翌々日、出勤すると厨房の雰囲気がいつもと違った。
既に出勤している筈の2人の姿が見えないし、周りも心なしかザワついている。
「涼さんも水縹さんも居ないなんて珍しいですね」
こういう時、宇部ちゃんは空気を読んでか読まずか、疑問を素直に口にする。
「あの2人なら上と面談中だ。あいつらに遅れが出た場合のフォロー出来るよう、自分とこの仕事ちゃんと進めておけよー!」
あの2人ならきっと問題ないだろうけどな、と付け加えたスーシェフ小林さんの喝に、皆の雰囲気が慌ただしくなる。
今までだって、散々見てきた事だったのに。
飲食業界は人の入れ替わりが激しくて、同じメンツでずっと同じ仕事が出来る訳じゃないことなんて常識だ。
誰が、いつ辞めるかなんて分からない。
努力や才能が大きくモノをいうとはいえ、それ以上に身体が資本の仕事だから。突然の怪我や病気を上手に隠していて、前触れもなく辞めた人だってたくさん見てきた。
楽な仕事なんてないとはいえ、職人の世界特有の厳しさは生半可な気持ちじゃ生き抜けない。心が折れてしまって、ある日突然いなくなってしまう人だって特別珍しくはない。
かと言って、店を辞める理由はなにも後ろ向きなものばかりとは限らない。
独立、引き抜き、修業。稼業を継ぐとか、結婚・出産……
そんな時は『おめでとう』『頑張れよ』『待ってるから、精一杯やって来い』と声をかける。理由は色々だけれど、見送る方も去る方も笑顔だ。
いつもより1時間弱遅れて厨房に現れた涼さんとあの子の晴れ晴れとした笑顔を見れば、そうなる事は明らかだった。
「佐伯、今日からデセールに入れ」
突然やってきて放ったパトロンの一言で、私だけではなく、中堅以上は皆確信したはず。おそらく若手でも察しの良い子は気付いた事だろう。
涼さんが修行に行っていた間は3人で回していたとはいえ、それはもう2年以上前の話。今は2人で他のセクションのフォローすら日常的に請け負える程余裕のあるデセールに、新人でもない人員を補填するという事はつまり、後継を育てる以外考えられない。
後継に選ばれたのは佐伯っちだった。
涼さんもあの子もそのうち辞めるのだろう。あの2人のうちのどちらか1人だけなら、佐伯っちが今異動する必要なんてない。どちらかが辞めてからでも間に合うだろう。
それをしないのは、2人が殆ど変わらない時期に辞めるからだとしか考えられない。となれば、理由も想像はつく。きっと、涼さんの独立に、仕事ぶりを買われたあの子が誘われついて行くのだ。
急にお互いの呼び方が変わった事には驚いたが、涼さんには桃子さんという彼女がいる。休み前の佐藤が頬を抑えて立ち去った件は桃子さんだって居合わせた訳だし、もしかしたら桃子さんがあの子を誘う事を涼さんに勧めたのかもしれない。きっとあの件がきっかけとなっているのだろう。
理由も告げられないまま異動を命じられた事や、パティシエではない佐伯っちが選ばれた事から直近ではなさそうだ。ずっと『興味がある』『勉強したい』と話していた佐伯っちが指名されたのは喜ばしい事だが、いずれ辞めるであろうとは言え、短くない時間を、あの子が佐伯っちのすぐそばで過ごすのは不安と言うか……嫌だ。
そんな醜い心中など誰にも知られてはいけない。だから、強気に振る舞った。きっと誰にも気付かれていないはず。
仕事に私情を持ち込むのは禁物。ましてや、それで遅れを出したりしたら最悪。
幸か不幸か、佐伯っちの穴を埋めるために異動してきたギャルソン北上くんが手のかかる子だったため、今までよりも佐伯っちを気にする余裕はない。ある意味トラブルメーカーというか、話題に事欠かない北上くんの指導はなかなか大変だ。
頭は悪くないし、不器用でもないけれど、『アホの子』北上くんは時々とんでもない事をやらかす。
人懐っこいというか、遠慮がないというか、失言が多いというオプションまで付いた彼は間違いなく『手のかかる子』なのである。
***
「夏月さんって、涼さんと付き合ってるんですか? なんか急に仲良くなってんじゃないですか? 呼び方もお互い変わったし、最近綺麗になったって若手は皆噂してるんすよ、恋っすかー?」
涼さんが水縹さんを「夏月」と呼ぶ様になって、当初は皆が驚きを隠せなかった様だったけれど、真っ先にそれに便乗したのは北上くんだった。流石に呼び捨てではないけれど、ちゃっかり名前呼びをしているし、妙にあの子に懐いている感もある。
それに続けとばかりに、ほんの数日でスタッフのほとんどが彼女を下の名前で呼ぶ様になり、彼女自身の雰囲気も以前よりも打ち解け、柔らかくなったのは確かだ。
北上くんが彼女に投げかけた質問に、ここに居合わせたほぼ全員が耳を傾けているのは明らかだ。
桃子さんと涼さんの仲を知っている人は『ないない』と思いつつも、気になっている事は間違いない。
スーシェフ小林さんに、涼さんには桃子さんという彼女がいる事を教えられた北上くん。「じゃあ夏月さんは愛人ですか?」と失礼過ぎる質問をし、「恋愛よりも仕事に生きる」と謎のカミングアウトと共に否定した水縹さん。
そこで終わらないのがアホの子北上くんだ。
佐藤が振られた腹いせに流した「同性愛者だから彼氏がいない」というおかしな噂まで本当なのかと本人に聞くなんて、空気が読めないにも程がある。
流石にそれは本人が答える前にどこからともなく現れたパティスリーのシェフ関さんが答えていたけれど、聞いているこちらがヒヤヒヤするからやめて欲しい。
そんな会話をしている間も、佐伯っちの視線はあの子に釘付けで。心配そうに見つめる佐伯っちの姿を、私は少し離れたところから眺める事しかできなかった。
それでも、どうにかして佐伯っちの邪魔をしたいだなんて、本当に意地の悪い女だと自分でも思う。
「でも、ホンマに夏月ちゃん可愛くなったでぇ、まじで仕事に生きるん? 男だって必要やでぇ? 今度一緒に合コン行かへん?」
「そういうの苦手なんで……スミマセン」
「そっか。それなら仕方ないよな。夏月ちゃんは涼さんについて行くんやろ? 今彼氏出来ても微妙やしね」
合コンに誘ったのは出来心だが、『今彼氏できても微妙やしね』と言ったのは佐伯っちに対しての嫌味でしかないのは自分でもわかっている。
呼び方が「水縹さん」から「夏月ちゃん」へと変わっただけでなく、その目はあの子に恋をしているようにしか見えなくて。苛立ちと不安でいっぱいの私は、佐伯っちに対しそんな嫌がらせしか出来ない。
「おーい、そろそろ休憩終わりだぞー!」
小林さんの声掛けで仕事に戻ったけれど、なんとも後味が悪い。
私の言葉に、明らかに苛立つ佐伯っちを見てしまったから。そんな姿を見れば、余計自分自身を不安にさせるってどうしてわからなかったのだろう……。
嫌がらせをしても、良いことなんて何もない事くらいわかっていたはずなのに。
この日私は、『後悔先に立たず』という言葉を身をもって実感したのだった。