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6. 32歳、あの子が気になって仕方がない

  あれが『恋に落ちた』瞬間だったのだろうか?

 はたまた、既に彼は落ちていたのか?


 どちらにしても、私に向けられた笑顔に偶々居合わせた佐伯っちの心が奪われたのは確かだ。

 恋をする男の人の顔を生まれて初めて知った。それが自分の焦がれる相手で、彼が恋をしたのが自分でない事が残念ではあったけれど。

 これが俗に言う三角関係なんだろうか。

 その後、何度も同じ表情をする彼を目にしている。慣れというものなのだろうか? あの時ほど胸が痛むことはない。幸い彼女の瞳に彼は映っていなし、私と彼との距離の方が断然近いからなのかも知れない。それは1年が経過しようとしている今も変わらない。

 ただ、それだけの事で、私は不思議と落ち着いていられた。






 ***


「はぁ!? 佐藤が結婚するんかいな?」


 パティスリーのスーシェフ、佐藤の結婚の衝撃は瞬く間にボヌールに広がった。

 彼の女性関係の評判はお世辞にも良いとは言えない。取っ替え引っ替えで二股三股も珍しくない。なのに不思議と女性が途切れないし、それがほとんど職場恋愛なのが恐ろしい。

 正直、容姿が特別良い訳でも、性格が良い訳でもないので謎が深まるばかり。きっと何かしらの魅力があるのだろう……私にはわからない何かが。


「で、相手は?」

「それが少し前に辞めた販売の子らしいわ」


 少し前、クリスマスの繁忙期にも関わらず、突然辞めた販売の人——1歳年下でパティスリーのオープンからいる——は体調不良を理由に退職したと聞いている。

 つまるところ、その原因は妊娠によるものだったらしい。

 突然の退職で周りは大変だったろうけれど、無理して続けて何かあっては取り返しがつかない。なかなか辞めにくい状況で退職を決意するのは大変だっただろうと思う。


 加奈子によると、佐藤が彼女との結婚を決めるまでもすったもんだがあったらしい。

 佐藤には今回結婚が決まった彼女とは別に関係を持ち続けている若い女の子がパティスリー(同じ職場)にいるし、佐藤が結婚を決めた子には遠距離恋愛中の彼氏がいたのだ。そう考えると、ある意味本当にお似合いの2人だと言える。

 生理不順である体質も相まって、どちらの子を身籠ったのかさえ分からなかった彼女。まず本命の彼氏に相談し、当初はその彼との結婚の話が持ち上がった。しかしながら、一緒に行った病院の検査の結果でその話は流れてしまう。

 彼氏と最後に関係を持った日と、着床したであろう時期が大幅にずれていたのだ。計算が合わないと彼氏に問い詰められた結果、佐藤と関係を持っていた事がバレた。

 後日、父親を伴い佐藤の元へやって来た彼女との話し合いの末、佐藤が責任を取らざるを得なくなったのが結婚に至る経緯なのだと言う。


 呆れてモノも言えない。


 なぜ、そんな事を加奈子が知っているかと言えば、佐藤が加奈子に愚痴ったから。『責任を取らざるを得なくなった』と言う辺りに、彼の本心が如実に表れていると思う。


「これを機に、佐藤は女遊び辞めたらええねん」

「そうね。とりあえず、しばらくは愛人ちゃん以外には手を出せなくなるんじゃないかしら?」

「は? 『愛人ちゃん』って……」

「向こうの厨房にいるじゃない、佐藤くんのお気に入りが。あの子、()()公認なのよ」


 加奈子の言う『愛人ちゃん』とは、パティスリーで佐藤が特別扱いしている若い女の子の事らしい。公認の愛人とか意味が分からん。


「あの2人、以前から佐藤くんを共用(シェア)してたみたいよ? それで、同じ子を敵視して一緒に嫌がらせしていたって話」


 いやいや、共用するもんちゃうやろ……とツッコミたいのは山々だが、それ以上に気になるワードがある。


「敵視して一緒に嫌がらせって……誰をやねん」

「水縹さん。佐藤くん、彼女にちょっかい出してるらしいのよ。その度に拒まれているのに何度も何度もしつこく絡んでるらしいわ」

「何度も、って……」

「奥様も愛人ちゃんも、佐藤くんが彼女にちょっかいかけ続けるのが面白くなかったんでしょうね。しかも彼女は全然靡かないし。2人共、あの子に対する佐藤くんのただならぬ執着に危機感を覚えたんじゃないかしら?」


 あの子が佐藤に絆されたら、捨てられるのは自分達だと思ったのだろうか。そうなる前にあの子を排除するつもりだったとしたら……なんて身勝手で幼稚なんだろう。


「間違いなく、それを助長したのは彼だけどね。都合の悪い事はあの子に任せれば良いって思わせちゃったのよ。あの子が関さんに任されてた仕事を愛人ちゃんにやらせて……経験も技術も未熟な愛人ちゃんに出来るはずないのに。愛人ちゃんは勘違いしちゃったんでしょうね。自分の立場も、実力も。案の定、愛人ちゃんがミスするとあの子に責任を押し付けてたわ。奥様は奥様で、クレーム対応はあの子に押し付けてるらしいわ。それも自分が応対をミスったクレームまでね」


 これが正に、未だ関さんが涼さんに泣きついて愚痴っている原因なのだ。今まで彼女達の尻拭いをしていたあの子が異動になった時、その2人はどう思ったのだろう。


「あの子の負担が大きくなっているのにもかかわらず、周りに手伝わせない環境を作ったのは佐藤くんね。スタッフの男の子達があの子に話しかけると途端に不機嫌になってたらしいし。結局それって佐藤くんの嫉妬でしょ? あの子も周りも大変だったみたい」


 まるで、好きな子に嫌がらせをする小学生みたいだ。自分が優しく出来ないからって、周りがあの子に優しくすることを許さない。優しくするも何も、仕事なんだから協力するのが当たり前。くだらない嫉妬する前にちゃんと仕事しろ! って感じだ。


「佐藤くん、結婚するって話が出ても諦めきれないくらいあの子に執着してるのよ。涼くんに『返して欲しい』ってしつこく言ってるって桃ちゃん言ってたもの。もともとあの子に振られた鬱憤晴らすために『愛人ちゃん』と関係持つようになったってのは本人談ね。要するに佐藤くんの本命は奥様でも愛人ちゃんでもなくあの子……最近も佐藤くんが力づくであの子をどうにかしようとしたみたいなんだけど、振り払って逃げたらしいわ。過去には逃げた腹いせに同性愛者だって噂流そうとしたり、頭悪いにも程があるわね。」

「酷い、酷すぎるわ……」


 あの子がパティスリーに居た頃、佐藤に対して怯えたような様子だった原因はきっと佐藤の報復だろう。周りが目を背けていたのは佐藤の機嫌を損ねて自分にとばっちりが来ることをおそれていたのかもしれない。


 もしかしたら、あの子が笑わない原因も佐藤のせい?

 そうだとしたならば、なんて酷い話だろう。






 ***


「宇部さん、俺、手が空いたんでフォンサージュしてきます」

「良いんですか? 私苦手なんでめっちゃ助かりまーす。よろしくでーす、いってらっしゃーい!」

「え、ちょっと待ってや!? 宇部ちゃんに頼んだ仕事やん?」

「良いじゃないですか、佐伯さんデセールに興味あるって言ってますし」

「良いわけないやん……」


 うっかりこぼれた本音に動揺する。敢えてフォンサージュを宇部ちゃんに頼んだのに。

 私が宇部ちゃんに頼んだフォンサージュとは型にキッシュ用のフィユタージュ《パイ生地》を敷き込む作業だ。折り込んだバターが溶けないよう、周りよりも気温を低く設定してあるデセールの作業スペースの一角を借りて行う。


 つまりは、佐伯っちとあの子を近づけたくなくて宇部ちゃんにその作業を頼んだのだ。

 我ながら大人気(おとなげ)ない自覚はある。


 佐伯っちのあんな表情を見て以来、気付けばあの子を目で追ってしまう自分がいた。佐藤の件を聞いて、その傾向がさらに強くなっている自覚もある。

 そんな時、ふと視線を動かすと、そんなあの子を複雑な表情で見つめる佐伯っちを目撃してしまう事もしばしばで、そんな顔を見るのは正直辛い。


 相変わらずあの子はほとんど笑わない。笑ったとしても、どこかぎこちない。きっと私が彼女を心配に思う以上に、佐伯っちは彼女の様子に胸を痛めているのだろう。


「……篠山さん?」


 思わずため息を漏らせば宇部ちゃんに顔を覗き込まれた。


「そんなん言うてたら、いつまで経ってもフォンサージュが苦手なままやで?」


 慌ててそうごまかせば、宇部ちゃんはバツの悪そうな顔をして肩をすくめた。我ながら上手くごまかせたのではないだろうか。


「それはそうそうなんですけど……次は頑張りますんで、今日は大目に見てください」


 どうやら上手くいったようだ。宇部ちゃんも笑ってごまかそうとしているので、それで良い事にする。本当は良くないけれど。




 そんな事よりも、あちらで作業する佐伯っちが気になって仕方がない。

 見ないように気をつけているのだが、作業の合間に顔を上げた瞬間目に飛び込んできた光景に胸が押しつぶされそうになる。


 佐伯っちが話しかけ、あの子が隣に立つ。

 ここからは手元が見えないので想像だが、きっとどうしたら綺麗に出来るのか佐伯っちが質問してあの子に見本を見せてもらったのだろう。

 少し首を傾げて佐伯っちの手元を覗き込む彼女。笑顔に近い柔らかな表情で頷きながら一言二言彼と言葉を交わし、作業に戻る。そんな彼女を見送る佐伯っちの顔はあの時と同じ。直後、分かり易いにやけ顔で作業を再開している姿は正直見たくはない。


 一方作業に戻った彼女は、いつも通りの無表情。佐伯っちの様子に気付いた素振りもないのでホッとする。それに、あの子の笑顔に頬を赤らめているのは佐伯っちだけではない。


 特に若手は分かり易い。厨房スタッフは勿論、ホールの子達の間でも話題に登ることが多々あるとか。一歩を踏み出したいけれど、その勇気が無い。そう話す彼らを見て、既婚組は『いわく付きの高嶺の花』だから手を出すのはやめておけと言う。佐藤の流したくだらない噂も相まって若手はアクションを起こせずにいるのだろう。


 羽田シェフや時々顔を出した関さん、支配人までなかなか笑わないあの子が笑うとホッとした様な顔をする。


 私を含めた女の子達だってそうだ。

 きっと私ほどじゃないけれど、あの子の笑顔にキュンとしてしまった子は少なくないはず。宇部ちゃんだって言っていた。あの子の笑顔は『目の保養』だと。


 だけど、まだまだ近寄りがたい雰囲気を崩さない。元々警戒心の強い子なのか、佐藤の事がトラウマになっているのかはわからない。もしかしたら、過去に何かあったのかも知れないし。


 とにかく、佐伯っちの彼女に対する反応が特別なものではなく、みんなと同じものであって欲しいと願う。

 佐伯っちにとっても、彼女が『高嶺の花』であります様に、と。

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