5. 31歳、彼の視線の先を追う。
結局私は変われたかどうだかわからないまま1年を過ごし、誕生日を迎えて31歳になった。相変わらずブスなままだと思うは思うが去年よりは随分マシだと思う。
半年程前、桃子さんの彼氏でフランス修業へ行っていたパティシエの涼さんがボヌールに帰って来た。
それに伴い、というか便乗した配置替えで厨房の雰囲気がガラリと変わる。とはいえ、前菜は相変わらず。私と宇部ちゃん、佐伯っちの3人でぼちぼちやっている。
1番変化のあったデセールなんて総入れ替えだ。三田っちが辞め、田中くんがパティスリーに行き、徳永さんという女の子が厨房に入って一年経たないのに本人の希望でサービスに戻った。彼女にとって厨房の仕事は肉体的な負担が大きすぎたらしい。
現在のデセールは帰国した涼さんと、彼のご指名でパティスリーから連れて来た水縹さん——以前、私が佐藤に絡まれていた時に助け舟を出してくれた子で、桃子さんが「夏月ちゃん」と呼んでいたあの子だ——で回している。
三田っちが仕切ってた頃は、かなりゆる〜い雰囲気だったデセールが、この2人になった途端、良い意味で緊張感が漂っている。それが良い意味で周囲へと影響を与え、半年経った現在、厨房全体が引き締まった様な気さえする。
涼さんと水縹さんは古き良き時代の職人って感じだ。頑固な親方と寡黙な弟子という表現がまさにピッタリ。
どんと構える涼さんの周りをテキパキ動き回る水縹さん。2人のやりとりが聞こえるわけではない。けれど、2人が阿吽の呼吸で仕事をしているのが遠目で見てもわかる。今まで一緒に仕事していなかった二人なのに、まるで長年の相棒のようなその働きぶりに皆が感心している。
事実、「痒いところに手が届く」と涼さんが彼女を評価しているのだと桃子さんは言っていた。以前、彼女に助けられた身としてそれは良くわかる。よく気がつく子だなと思う。
正直、2人が羨ましい。ワイワイ楽しく仕事をするのもいいけれど、2人みたいにストイックに仕事をするのにも憧れる。ならばそうすれば良いだけの話だ。だけどそれが出来ない。自分のキャラじゃないと言ったら、出来ない言い訳にしかならないのは分かっている。
涼さんみたいな先輩がいる水縹さんも、水縹さんみたいな後輩がいる涼さんも羨ましい。
社員になって10年目の私は一応中堅だけれど、技術的にも人間的にもまだまだ未熟。
常に努力していなければ、あっという間に後輩に抜かされてしまう。言いかえれば、私も努力次第で先輩を超える事が可能だという事。
言ってしまえば、無い物ねだりであって、隣の芝生が青く見えるだけなのだ。
「俺も涼さんの下で勉強してみたいなぁ……」
ふと佐伯っちがこぼしたそんな呟きでそれに気付いた私。
佐伯っちの視線は、ガラス戸で仕切られたデセールの作業部屋に向いている。
どう言うわけか、ドキリとした。
この『ドキリ』はいつものそれとはなんだか違う。
「佐伯っち、急にどうしたん? そんなん初めて聞いたで、今まで全然そんな事言ってなかったやん?」
佐藤の件から1年。彼を好きだという気持ちを大切にしてきた。だけれど、佐伯っちとどうにかなりたい訳じゃない。
願わくば、佐伯っちの特別になって、彼氏彼女の関係になれたらどんなに良いのだろうとは思う。思うけれども、全く想像出来ないのだ。
単に自分の恋愛経験の少なさ故なのかもしれないけれど、先輩と後輩の立場で、すぐ側で仕事ができる現状が幸せだからなのだろう。
高望みはしない。今のままの関係を変えたくない。こうして、そばにいられたらそれで充分……
彼の言葉はその幸せな現状を変えてしまう力を持っているように思えて仕方がなかった。
焦りや不安、負の感情と共に口にした疑問は、彼に届かない。そういった感情は彼に届いてはいけないのだ。
「俺、サービス長かったじゃないですか。お客様にとって、デセールって特別なものなんだなぁって実感することが多々あって、デセールにも興味があるんです。」
こういう時に思う。
佐伯っちは根っからの職人ではないのだ。支配人が彼をサービスに引き留めたのは、 そちらの適性が高いからなのだと。
確かに、デセールを提供した時のお客様の反応は他の皿とは別物だ。特に女性はそれが顕著に現れる。
だからって、どうしてデセール?
前菜だって特別なものの筈だ。
お客様に1番初めにお出しするのが前菜だ。細かいことを言ったらアミューズかもしれないけれど、アミューズだって私達が担当している。
とにかく、初めに出される皿だって、前菜だって特別なのだ。ファーストインプレッション、つまり第一印象を決めるのは前菜なのだから。
「デセールのが特別って……まぁ、わからんでもないけど。前菜だって特別やで? 何しろ料理の第一印象決めるんは前菜やし」
我ながら大人気ないと思う。子どもじみた事を言っている自覚はあっても、言わずにはいられない。
「確かにそうかもしれないですけど……それ以上に、涙を流しながらデセールを召し上がったあるお客様が忘れられないんです」
佐伯っちは、まっすぐにデセールの作業部屋を見つめていた。
その瞳が、沈んでいるように思えたのはどうしてだろう。
涙を流すお客様は時折いらっしゃるし、泣くのは大概デセールをお出しするタイミングと重なるのも知っている。
きっと、デセールをお出しするタイミングでサプライズなどの演出をするせいだ。プレゼントやプロポーズなんてその最たるもの。
ボヌールはそういう時に使われる様な店だから特別珍しい事でもないのに……。
忘れられないって、どうしてだろう。
よくある事、とは言わないけれど。すごく珍しい訳でもないのに。どうして、彼の心に特定のお客さんが残っているのだろう。
「チャンスがあれば、デセールも担当してみたくって。自己流で勉強始めたんですけど、思う様に進まないんですよね。それに習うならやっぱり上手な人に習いたいじゃないですか。涼さんの皿はとにかく綺麗なんです」
そのお客さんに対する特別な感情は何なのだろう。
デセールを担当したいと思える程の何があったのだろう。
なんとも言えぬ違和感を覚えたが、口にする事なく飲み込んだ。
毎日、仕事とはいえ長い時間を彼と過ごし、その合間に話す。それをほぼ毎日繰り返し、3年という月日を過ごせば、自分が彼の事をよく知っている様な錯覚に陥る。なのに、突然突きつけられた自分の知らない彼の姿。
憂鬱だ。
そんな彼を目の当たりにする事も、彼を素直に応援できない自分の心の狭さに気づいてしまった事も。
***
「なぁ、涼……こっちに戻してもらえないか?」
「あいつがいなけりゃ俺1人じゃないですか。1人でこっちを……どうやって回せって……」
「代わりに誰か寄越すからさぁ……もういっそ佐藤とトレードでもいいぞ?」
「……無理」
「涼くん、頼むよー。桃子から聞いてるだろ? 」
「聞いてるけど無理」
ランチ営業後の休憩時間、ロッカー室前を通りかかると廊下の隅で話をしている関さんと涼さんに遭遇した。パティスリーのシェフである関さんがこんな時間にこんな場所にいるなんて珍しい。
「篠山ぁ、お前からも言ってやってくれよ。こっちはもう滅茶苦茶なんだ。現状でこれじゃあ、クリスマスから年末年始にかけてなんて地獄だよ」
どうやら、涼さんに話があってわざわざ来たらしい。戻すとか、戻さないとか……きっと水縹さんの事だろう。だけれど、何を今更、な話だ。
「クリスマスから年末年始が地獄なんて毎年そうやないですか?」
「今年は特別酷い……人手不足……と言うか仕事を把握して的確に動ける奴が居ない……」
誰か辞めたなんて話は聞かないし、人数的には去年と変わらないかむしろ多いはず。
「篠山、関さんの言ってる事おかしいと思わないか?」
「……佐藤がおるやん?」
「……佐藤なぁ……あいつは販売の方まで頭が回らないらしい。」
「……販売には桃子さんがおるやろ?」
「販売だけじゃどうにも出来ないこともある。あいつは桃子の話を聞いているようで聞いてないぞ? 内容を理解する気がないんだろうってさ。そのくせ何か起こるとそちらへ責任は押し付けて後始末をさせるもんだからタチが悪い」
桃子さん、気の毒や……。かなり前にこぼしていたグチは今でも継続中らしい。
「そこの調整を上手い事やっていたのが水縹だったんだよ。店のフォローしつつ、自分の仕事もやってさ。クレーム対応とかすげぇ上手いの。桃子も大絶賛。俺より上手い。水縹レベルでしろとは言わないけどな、こないだ佐藤がお客様怒らせちまってよぉ……鎌倉の人だったんだけど、仕方ないから高速ぶっ飛ばして俺が直接謝りに言ってきた……あいつはそれなりのクオリティで作って仕上げるのは早いんだけどなぁ……仕切るのも上手いと思っていたんだけど、水縹が居なくなってボロが出まくりって相当フォローしてもらってたって事だよなぁ……どう考えても……」
「関さん、佐藤の事買い被り過ぎやで……」
確かに要領は良い。何より、上に対する顔と自分と同等かそれ以下の立場に対して見せる顔が違うからそれも仕方ないと言えば仕方ないけれど。
「苦労らしい苦労をしないまま肩書きがついたのも大きいでしょうね。周りと比べて極端にサービスの期間も短い、それが桃子、販売を軽視する原因な気もしますけど。それを今まで野放しにしていた関さんにも責任があるんで、水縹は渡しません」
そう言って涼さんは立ち去った。
残された関さんは苦笑しつつ、「正論すぎて何も言えねぇ……」とパティスリーに戻っていった。
水縹さんが羨ましい。
涼さんに評価されていると桃子さんから聞いてはいたけれど、はっきり「渡しません」と涼さんに言わせる程だなんて。
涼さんだけでなく、関さんにまでそこまで言わせるなんて。
やっぱり可愛い子って得なんやなぁ……と思わずにはいられなかった。
だけれどその直後、それだけじゃない事を思い知らされる。
「あの、篠山さん……ちょっと良いですか?」
休憩時間が終わり、持ち場に戻った私のところに先程話題になった水縹さんがやって来て声をかけられたのだ。
少し緊張したような表情と声。毎日挨拶は交わしても、出勤時間と退勤時間がずれる彼女とはほとんど話した事はない。
休憩時間だって、休憩せずに食材の在庫をチェックしたり、道具の手入れをしたり、メモを取ったりしている事が多いから、雑談とかする機会は極端に少ないし。
「来月のコースのデセールにフィユタージュ使うんです。春日野さんと相談して、今後はこちらでパートを仕込む事にしたので、前菜の分も良かったら……と思って」
聞けば、パティスリーにいた頃から、前菜を始めボヌールの厨房から発注された物は彼女が一手に引き受けていたらしかった。
「ありがとう。じゃあ、今度からよろしく頼むで。」
私がそう言うと、彼女はにっこり微笑んだ。ホッとしたような、心から嬉しそうな笑み。
「少し早めに声をかけて頂けると助かります」
なんやねん、この破壊力。めっちゃ可愛いやん……。
いつもこうして笑っておったら良いのに。
そう思った途端、彼女が普段笑わない事に気付いた。
涼さんも仕事中に滅多に笑うタイプではないから、特に違和を感じなかったけれど、彼女は涼さん以上に笑わない。こんな風に笑った事なんて、今までなかった様に思う。
ドキドキしながら作業へ入ろうと作業台へと身体を向けると、作業台を挟んで斜め向かいに立つ佐伯っちが目に入る。
耳まで赤く染める彼の視線の先には彼女がいて——完全に彼の手は止まっていた——彼がハッと我に返った表情を見せたかと思えば、俯いてひたすらにエシャロットを刻み始める。耳は真っ赤のままで……。
実際は1分に満たないであろう、彼のフリーズしていた時間がとてつもなく長く思え、同時に胸がギュウギュウ締め付けられた。