3. 28歳、好きだと気付いて困惑する。
「佐伯さんって、彼女いるんですかねぇ?」
「彼女がランチに来た事あるって聞いたよ。……とはいえ厨房に入る前の話だけど」
「その彼女、別れたって聞いたよ?」
「そうなの!?」
「じゃあ、今は!?」
「知らないわよ。そんなに気になるなら本人に聞けばいいじゃない?」
「えー、聞けたら苦労しませんよぉ」
自分が参加していない会話の中で佐伯っちの名前が聞こえるとどうしても反応してしまう。
今日だってそう。休憩時間中にロッカー室に荷物を取りに戻ると、出勤してきたサービスの女の子達の会話が気になって聞き耳を立ててしまった。
酒の席での彼の発言にドキリとしたのは数ヶ月前の事。
休日以外は毎日、佐伯っちと顔を合わせて、すぐ近くで仕事をしている。仕事中、本人を目の前にして緊張するだとか変に意識してしまうことは殆どないのだけれど、ふとした時に店の女の子達がキャッキャ言いながら彼の事を話していると気になって仕方がない。
今日は名前に加え、『彼女』という言葉にも反応してしまった。
そういえば、彼がまだ給仕をしていた頃、佐伯っちの彼女がボヌールに来た事があった。
厨房にまで「17番テーブル、佐伯さんの彼女さんです!」なんて情報がリークされ、興味本位でみんなこっそり見に行っていた事を覚えている。
その日の仕事終わりに、当時デセールを担当していた彼の同期の男の子——今は辞めてしまった三田っち——が彼女について根掘り葉掘りしつこいくらいに佐伯っちを問い詰めて、あっという間にみんなに言いふらされて。照れなのか不貞腐れたような表情の彼が印象深かった。
高校の時、サッカー部に所属していた佐伯っちの1つ下の後輩で、マネージャーをしていた女の子。佐伯っちが卒業する時彼女に告白されて付き合い始めたらしい。
当時で付き合って5年を越えていたから、彼女と結婚するのか? ってみんなが質問攻めにして。佐伯っちは恥ずかしそうに、だけどそれが彼の中では当然であるかのように「いずれは」と答えていたのが印象的だった。
いずれはと言え結婚を考える程の彼女と別れた事は意外な気もするし、なんか分かる気もする。私も例に漏れず、面白半分でこっそり見に行ったけれど、気が強そうで派手な彼女だった。
佐伯っちの雰囲気とはちょっと違うというか、佐伯っちと並んだところを想像してもしっくりこなくて。失礼な言い方だけれど、一言で言って仕舞えば「釣り合わない」、そんな感じ。
人は見た目だけじゃないのは分かっても、あまり感じの良くない子だなぁと思った事だけがやたらと記憶に残っている。
「篠山さん、何か良いことありました?」
「宇部ちゃん!?」
「なんだか嬉しそうな顔してますよ?」
後ろからやって来た宇部ちゃんに気付かなかった私は、声をかけられ驚いてしまう。
嬉しそうな顔をしていた? 私が? 良い事なんて特にないけれど……。
「それ、気のせいちゃう? なんでもないで」
「なんでもないんですか? なぁんだ……篠山さんがご機嫌なら今日の夜奢ってもらえるかな? なんて思ったのに残念です」
私が否定しても、宇部ちゃんはニカッと笑った。なんだかんだ理由をつけて仕事終わりに飲みに行く約束をさせられたところで、宇部ちゃんが先に持ち場へ戻る。
宇部ちゃんは本当に調子が良いというか、甘え上手である。そんな性格を羨ましいなぁ……と思いつつ、私も彼女の後を追った。
持ち場に戻れば、すでに佐伯っちが仕事を始めていたので、私も仕込みを始ようとフリーザーからキッシュに使うフィユタージュをとりだした。
「あれ? フィユタージュがギリやなぁ。ちょっとパティスリーに頼みに行ってくるわ。予約も多いし、急ぎでやってもらわなあかんなぁ……」
いつも通りの依頼ですら気を使うのに、急ぎで頼むとなるとかなり気が重い。店の裏手にある系列のパティスリーを仕切っている後輩の佐藤という男は非常に感じが悪いのだ。
間違いなく嫌な顔をし、嫌味の1つや2つ言ってくることだろう。……嫌味程度で済めばいいが、最悪の場合は散々文句を言われた挙句、引き受けてくれない可能性だってあり得る。
「篠山さん、俺行きますよ。こないだ頼んでおいたんで、出来てると思いますし」
「え? でも悪いやん。ってか発注済み?相変わらず佐伯っちは 気がきくなぁ……」
佐伯っちの申し出は有難い。内心ではラッキーと思ったが、結局は代わりに佐伯っちが佐藤の被害に遭うだけだ。
しかも、佐藤と佐伯っちはあまり相性が良くない。同じ年に正社員となった同期の二人だが、アルバイトとしての経験を含めてしまうと佐伯っちが2年先輩、しかしながら年齢は佐藤の方が歳上という非常に面倒臭い関係なのだ。
その上佐藤のプライドは高い。一緒に給仕をしていた頃は勿論、佐藤が厨房に入ってからも佐伯っちを敵視し見下す様な発言ばかりしている。
「いいわ、もう出来てんなら私が取りに行ってくるわ」
「あれ重いんで、男手の方が良いっすよ。俺に任せてください!」
そんなセリフと共に彼がふと見せた笑顔にドキリとした。有無を言わせないような、そんな笑顔。そもそも、女として扱われる事の少ない私だ。気の強さも相まって、皆私に対して遠慮がない。多少重くても、多少キツくても「篠山なら大丈夫」なんて思われがちだから気遣われる事になど慣れていないのだ。
「あ、ありがとう。じゃあ頼むわ」
平然を装うのに必死だった。心臓が口から飛び出してしまいそうなほどバクバクいってる。深く呼吸をして、気持ちを落ち着かせようとするも殆ど効果がない。
「なんやったんやろ……今の……」
「凄い破壊力でしたね……今の笑顔」
思わず口に出してしまった一言に、宇部ちゃんが反応した。
「破壊力って……確かに凄いけどなぁ……」
「あの顔で『俺に任せろ』的なセリフ、自覚ないから厄介ですよね。典型的な天然タラシじゃないですか……佐伯さんの彼女、苦労しそうだなぁ……」
彼女、かぁ……思わず苦笑が漏れる。
「宇部ちゃんも佐伯っちにドキドキしたりするん?」
「私もって篠山さんドキドキしちゃったんですか?」
「違うで、私じゃなくて……さっき、サービスの女の子達が……」
うっかり聞いた質問に墓穴を掘ってしまうところだった。とっさの言い訳ではあるが、先程聞いた会話を説明すると納得はしてもらえたらしい。
「私は佐伯さんの顔、あんまりタイプじゃないんですよね〜。それ以上にあの誰にでも優しい感じがダメで……あ、でも一緒に働く分には大歓迎ですけど、ダメっていうのはあくまで恋愛対象として、ですよ? 私のタイプは……分かりやすく例えるなら商談王子ですね! あのキッチリ線引きされてる感じが好印象ですし、最後にお見えになった時ので更に……お連れ様、綺麗な人でしたよね……あの時の王子の顔! あの特別感! 堪らないですよ〜! 顔も王子の方がタイプです。とは言え、完全に鑑賞対象としてですけどね。……しばらく来れないって王子言ってたらしいですけど、本当にあれ以来いらっしゃいませんね。佐伯さん、王子専属のギャルソンだったじゃないですか? 佐伯さんと王子の絡みを見るの楽しみにしてた子も多かったんですよ、実は……って私もその1人だったんですけど。もちろん王子が攻めで佐伯さんが受けです!」
あかん、この子……入ってはいけないスイッチが完全に入ってしまったようだ。鼻息荒く自分の好みを力説する宇部ちゃんの発言はとてもじゃないが佐伯っちに聞かせられるものではない。
商談王子とは、ボヌール開店当時から通ってくださっているお客様、蘇芳様の事だ。
蘇芳様はこの数年、少なくとも月に1度はご来店されていた。その目的が大抵お仕事での利用だったため、ひっそりとつけられた呼び名が『商談王子』なのだ。
お仕事でなければ、ご家族での会食で、女性と2人きりで来ることはそれまで1度もなく、あまりに女性を連れてこない上、毎回決まって佐伯っちをサービスに指名するので、王子はゲイで佐伯っちを狙っているのでは? と密かに噂になっていたし、それを望んでいる宇部ちゃんの様な子もいた程だ。
1年と数ヶ月前、蘇芳様が『特別な日』だと仰って綺麗な女性とお見えになった事でそんな話はたち消えてしまったけれど。
そしてそれ以来、商談王子はボヌールにいらっしゃっていない。
開店25周年記念に系列のパティスリーがオープンしたのが去年の話で、私と同い年の商談王子は3歳の頃からボヌールに通っていたことになる。まごう事なき上得意様だ。
佐伯っちが厨房になかなか入れなかったのは、そんな上得意様の接客を任せられるのが佐伯っち以外にいなかったため、支配人が彼を手放さなかったせいだ。支配人は、佐伯っちの厨房への異動が決まってからも考え直して欲しいと懇願するほど彼を評価していて、今でも時々サービスに戻らないか? と勧誘しているらしい。
「今頃商談王子は最後にボヌールに連れてきたお姫様とフランスで一緒に暮らしているんですかね? もう結婚したのかなぁ……」
その時だった。
ガタン——何かが落ちる大きな音がした。
「あ、すいません。ボールを引っ掛けてしまって……」
戻ってきた佐伯っちが慌てた様子で落ちたボールとホイッパーを拾う。幸い中身は空だったけれど、普段ほとんどそういうミスをしない佐伯っちにしては珍しい。
「あ……もしかして……聞こえちゃいました?」
バツが悪そうに宇部ちゃんが尋ねると、佐伯っちは曖昧に笑った。
「攻めとか受けの話は、本人の前でしちゃあダメですよね……以後気をつけます。」
私の耳元で宇部ちゃんがそう囁いて、私たちの会話は終わったのだけれど、それにしても佐伯っちの様子が気になった。
やけに落ち着かないというか、動揺している様に見えてしまうというか。
攻めとか受けの話で動揺するにしても少しタイミングがおかしいというか。
私と宇部ちゃんの会話の中に、他に何か彼を動揺させるだけの内容があったとも思えない。
単に疲れているのだろうか? それとも、純粋なミスなのか?
気になって仕方がない。動揺した彼の事も、ふと彼が見せた笑顔であんなにも私の胸が高鳴ってしまった理由も。
***
それからも時々、佐伯っちの言動でドキリとさせられる事があって。
私は恋をしているのだろうか?
私は、年上が好きで、男臭い顔が好みだ。年下で、中性的な整った顔立ちの彼は私の好みとは真逆なタイプ。
なのに、なぜこんな気持ちになるのだろう。
嬉しいような、苦しいような、あたたかくて、複雑な気持ち。
今までの好き、とは違う気がする。
染井と出会った頃、彼に抱いた感情とはまるで違う。あの頃は、とにかく必死だった。彼の気を引きたくて、喜んでもらいたくて、好きと言わずにはいられなくて。
大人の恋愛への憧れで必死だったのかもしれない。
いい歳になって、恋に恋をしていたのだろう。その結果が不倫だなんて酷い様だけれど。
ひとをすきになる、ってどういうことだろう。
アラサーと言われる年齢真っ只中になって、中学生みたいな事で悩んでいる。若いうちだったら勢いでどうにでも出来てしまうから、私の現状は中学生よりも厄介かもしれない。
中途半端な恋愛経験が余計に混乱させる。
恋愛経験、私がしてきたそれはそう呼べるほど立派なものではないだろう。
だけれど、歪で最悪な形であってもあの時の私は精一杯だった。『無知は罪』だと言うが、本当にその通りだと思う。辛い思いをしたからと言って、自分のしてしまった事を正当化出来る訳でもなければ赦される訳などあるまい。
そんな私に恋をする資格なんてあるのだろうか?
臆病になって自分の気持ちに自信が持てない……そもそも、最後の晩、知ってしまったというのに誘いに乗じてしまった私は無知ではない。完全にアウトだ。
もしあの晩、流される事がなければ自分の気持ちに自信が持てているのだろうか?
もっと若いうちに色々な恋愛をしていたらこの状況が変わっていたのだろうか……。