2. 27歳、抜け出す。
年が明け、いつの間にか春を通り過ぎて夏になっていた。
あれ以来、私が染井のところへ行く事はない。染井からもまた、電話はおろかメールすらなかった。
染井との出会いを知っている同僚で友人の加奈子に話せば、「後腐れがなくて良いじゃない」と言う。そのまま不倫関係を強要しないだけ「まとも」だとも。私にとっては、奥さんがいる事を隠して3年も関係を持ち続ける神経が既にまともだとは思えない。
勿論、そんな事にすら気付けず、殆ど毎週通い続けた私自身だってまともではないと思う。
それだけ、心も身体も彼に執着していたのだ。
恋愛と仕事を天秤にかけ優先順位をつけられたのは、両方が手の中にあって、どちらも失わない確信があったからなのだと、片方を失って——いや、手放すべきだから手放して——初めて知った。
淋しくて、仕方がない。
週に1度、彼に与えられていた女としての自信。そして与えられながらも貪るように求めた快楽。
心に、ぽっかりと大きな空洞ができた。それを埋めたくて、後腐れのない相手を加奈子に紹介してもらったけれど埋めるどころか広がってゆくばかり。それでも、淋しくて堪らない時はそうするしかなかった。
3年も一緒に過ごしたのだ。悪習であっても、すっかり私の生活の一部と化していたのだろう。彼は今、どんな風に過ごしているのだろう。家族を大事にしているのだろうか。それとも、新たな女性を見つけてよろしくやっているのだろうか。
そんな事を考え出せば、仕事に打ち込みたくとも、集中出来ない。このままではダメだとわかっているのに。
もがく事、半年。そんな泥沼から抜け出したきっかけは驚くほど呆気なかった。
***
半年も繰り返せば学習する。少しでも淋しさを、虚しさを緩和する方法を。染井の代わりの誰かなんていない事も、執着して感傷に浸るほどの相手ではなかった事だって受け入れられるようになった。
生憎私は悲劇のヒロイン役が似合うタイプなんかじゃないのに、何をやっていたのだろう。
加奈子は彼女なりに私を元気付けようとしてくれている。最近は加奈子の誘いもあって、休前日の仕事終わりに『反省会』と称し、毎週のように職場の人を捕まえてワイワイ楽しく呑む事が増えている。今日だってそうだ。
安いアルコールと安いつまみで、笑って騒いで。笑いは大事だ。もがいていた頃の私は腹の底から笑う事ができなかったと今になって気付いた。
酔っ払って熱く夢を語り出す輩がいたり、愚痴や悩みをポロリとこぼす輩がいたり。
みんな疲れた体にアルコールを流し込んでいるので、酔いが早い。相手が何を言っているのかわからない事も、自分が自分の意思とは関係なくおかしな事を気付いたら言っている、なんてこともしばしばある。それはそれで楽しいし、気楽で良い。
酔っ払いばかりで相手の話をまともに聞いちゃいないので、ついうっかり程度のことであれば失言も流してもらえる……というか終盤になればみんな酔っ払いだから、誰も気にも留めないし覚えちゃいない。覚えていたとしても流してくれる。
だから、気が緩んでいたのだ。
「あー、なんかエッチしたいかも、誰でもいいわって最近思ってしまうねん」
「あら、篠山も言うようになったわね」
そんな本音を漏らしたって、加奈子に毒されたとしか皆は思わないだろう。
加奈子のブレないエロキャラは最早鉄板で、彼女の口から多少の猥言が出た所で皆がスルーする。
いつもならば誰もがスルーするはずなのに、今日に限ってはそうではなかった。
口を開いたのは、私が『佐伯っち』と呼ぶ後輩、佐伯 誠治だった。
「もっと自分を大切にした方が良いんじゃないですか……?」
冷ややかな声色ではあるけれど、どこか気遣うような言葉にドキリとした。今まで、恋愛対象として見た事なんて無かった2歳年下の男の子。私は、不覚にもときめいてしまった。
「無理して、自分傷つけてることに何で篠山さんは気付かないんですか? そう言うの、自虐って言うんですよ」
彼もまた酔っ払っているのだろう。紅潮した顔で、不機嫌そうにビールをあおる。
「『きゃー、佐伯さんカッコいいー!』って、女子の心の声が聞こえてきそうなセリフですね。無自覚とかほんとタチ悪いですよね」
前半は外見のイメージ通り、後半は真顔の棒読みで発した言葉に思わず笑ってしまう。声の主は同じセクションの後輩の宇部ちゃんだ。
ふんわりして可愛らしい、いかにも女子な外見の宇部ちゃんだが、腹黒肉食系を自称するだけあって、話してみるとなかなか面白い子だ。ここにいるメンバーは宇部ちゃんの中身を知っているから、彼女自身もかなり気を抜いて今は素の状態。スイッチが入った時の毒舌っぷりは最高に面白いけれど、直接攻撃されればかなりのダメージを受けてしまうので煽りもほどほどにしないと痛い目を見るのだ。
「佐伯ぃ、そんな台詞好きでもない女の子に言ったらダメだ。勘違いされるぞ?」
私の上司、スーシェフの小林さんが宇部ちゃんの辛口っぷりに苦笑しながら苦言を呈す。
「佐伯さん、無駄に顔がいいからアホな女子が寄って来るんですよ」
「宇部ぇ、相変わらず核心を突くなぁ。ほんとこいつ無駄に顔が良いからなぁ。中身ヘタレの癖によぉ」
2人のやりとりに、私もようやくいつもの調子を取り戻した。
「宇部ちゃん相変わらずキッツイなぁ……」
「ま、篠山は『女の子』じゃないから大丈夫だろうけどな!」
「小林さん、それどういう意味ですか? 今の発言セクハラちゃいます?」
気が付けば、その時はもう既に彼——佐伯っち——は別のテーブルで違う話題で盛り上がっていた。
***
"Je porte bonheur"、私たちは親しみを込めて"ボヌール"と呼んでいる、正統派フレンチレストランの厨房で私は働いている。
ボヌールは名店と呼ばれるだけあって、働きたいと門を叩く若者が多い。
特に、レストランの厨房を舞台にしたドラマが放送された後の2〜3年は格段に就職希望者が増えるらしい。
それで採用されたとしても、まずはサービスの仕事を覚えろというのがパトロンの考えらしく、例え経験者であっても、お客様の反応を肌で感じるべきだともれなく全員給仕からのスタートとなる。
アルバイトとして3年間、サービスの仕事をして、運の良かった私は入社と同時に厨房に入れてもらえた。
厨房に入るタイミングは運だ。決まった年数サービスをすれば入れてもらえるわけではない。
だから、料理人になりたくて入社しても厨房に入る前に辞めてしまう人間も多い。やる気のある人間が自然とふるいにかけられるのだ。逆に厨房の人手が足りなくて、サービスをそこそこにサクッと厨房に入れてしまっても辞める人間だっている。
根性と店への愛が無ければとてもやっていけない。
基本的に、料理人希望でサービスをしている人は、入社順に厨房に入れてもらえるのだが、佐伯っちはそうじゃなかった。
本人は料理人を希望していたけれど、サービスの適性が高かった佐伯っちは同期や後輩達を何人も見送った。彼よりも先に厨房へ入り、厳しさに耐えられず辞め去った人だって少なくはない。むしろ今も残っている人の方が少ないくらいだ。
彼は厨房に空きが出る度、サービスのトップである支配人と面談し、毎回説得されてサービスに残った。きめ細やかで行き届いたサービスが出来る彼は支配人のお気に入りだったし、常連のお客様にも彼のファンが多かったのだ。
そんな彼が1ヵ月前、満を辞して厨房へやってきて、私が責任者を務めるセクションに配属された。
彼を指名していた上得意様がしばらく日本を離れるからとご予約された事で支配人がようやく佐伯っちを手放す事を決意したらしい。
入社から5年、アルバイトの頃を含めると7年、ギャルソンとしてたくさんの皿を見てきた彼。ギャルソンではあったが、皿洗いや野菜の皮むきや雑用など、厨房の新入りがする仕事を手伝ってもらう事も日頃から多々あった。
元々のセンスとか器用さもあるのだろうが、飲み込みも早く、盛り付けなどはこちらが教える必要などないくらい彼の頭の中に入っている。
だというのに、佐伯っちは奢る事もなく、ここでの『先輩』となった私や宇部ちゃんを立てて私達のやり方を吸収しようとする。宇部ちゃんは、彼よりも4つ年下で3年入社が遅い。にもかかわらず、だ。
そんな彼に、かけられた言葉。
優しくて良い子だから、きっと思ったことを口にしただけで、他意は無いはず。そうわかっているはずなのに、どういう訳か舞い上がってしまう私がいた。