13. 33歳、やっぱり盗み聞きしてしまう。
「……いつからだ? 」
「いつでしょうね? まぁ、彼女は俺なんて眼中に無いんですけどね」
「だよなぁ……あの人じゃあなぁ……」
そんな会話が聞こえたのは、休み明けの事。事務所に用があった私が事務所のドアをノックしようとしたその時だった。
支配人の立花さんと佐伯っちは仲が良い。佐伯っちはサービスに向いているからと、彼の能力を高く評価してずっと引き留めていた人だ。
2人が話をしていたのは、明らかにプライベートの話で。
「彼女の目の前に現れない事を願うだけですよ」
会話の内容が全て聞き取れる訳ではない。ただ、時折はっきり聞こえるのは切実そうな声で、あの子の事を話しているのは明確だった。
「この3ヶ月が勝負ですかね」
その言葉には強い意志がこもっていて、しかも佐伯っちも立花さんもまるであの子が引きずっている相手を知っているかの様な雰囲気で。
だからこそクリスマスの打ち上げであの子が泣いてしまった時、佐伯っちはあんなに苦しそうな顔をしていたのかも知れない。今でもあの子が思っている相手を知っているからこその反応だったのだ。
相手を知っている——それはつまり、それだけあの子が佐伯っちに気を許しているのだということ。それに気付いてしまい苦しくなる。
「まぁ、頑張れ」
立花さんが口にしたのはとても重々しい『頑張れ』だった。
それを聞いてしまった私の方がなぜか泣きそうになってしまう。私が思っているよりも、ずっと佐伯っちは真剣なのだと気付かされたからなのかもしれない。
急ぎの用件でもなかったので、踵を返す。すると直ぐドアが開く音が聞こえた。振り向きたくても振り向けない。佐伯っちがどんな顔をしているのかなんて見たくなかった。
ドア越しに聞いた声だけでわかってしまったから。
さりげなく物陰に隠れて、佐伯っちを見送った。幸い、私がいたことには気付いていないみたいだ。
先日、友人にも言われたばかりなのに。盗み聞きなんて行儀が悪いと。分かっている。けれど、聞こえてしまったものは気になって仕方がない。すぐにその場を離れればいいものを、私はついついその場に留まって聞き耳を立ててしまったのだ。
盗み聞きで得られる情報なんて碌なものじゃないと分かっていたとしても。少しでも彼を知りたいと思ってしまう。
数日後、バレンタイン限定コースの撮影が行われた。
バレンタインを意識したコースという事で、カカオやチョコレートが殆どの料理に使われている。
前菜は私が担当した。鴨スモークにナッツの様な風味が特徴のクリオロ種のカカオニブをアクセントに使ってみた。意外性や面白味が無いかも知れないが、全体のバランスを考えれば前菜はこのくらい控えめな方が良いと判断して正解だった。
宇部ちゃん提案のソースはバレンタインを意識しすぎてチョコレートの主張が強すぎたのだ。
結果、採用されたのは私。
前菜、スープ、魚料理、肉料理……と食べ進めて行くにつれて、チョコレートを強く感じられる様に組み立てられるのをわかっていた私の作戦勝ちだ。
勿論、締めとなるのはあの子が考案したデセール。
その名も『Mon premier amour』、和訳すると『私の初恋』
私が席を外している間、そのデセールが発端となり少々厄介な事になっていたらしい。
なんでも、インパクト大のデセールのメニュー名を見て突っ込みを入れた輩がおり、北上くんがその由来を言いふらした挙句、『“夏月の恋“の方が良いんじゃないっすか?』とか『略して夏恋っすね!』と言っていたらしく。
クリスマスの打ち上げの時、話を振ったのは私だ。北上くんが知らなければこんな事にはならなかった。つまり、北上くんの前で尋ねた私のせいでもある。
「ごめんなぁ、あの時私が話振ったばっかりに……こらぁ!北上ぃ!」
ただただ申し訳なくて、心苦しくて。私の好奇心のせいであの子を傷付けてしまった。
北上くんにお灸をすえるべく名前を呼ぶと、「ひぃ!」と声にならない声を上げて逃げていくので追いかける。
私と北上くんがそんな事をしている間にも、一生懸命フォローする佐伯っちは自分に出来ることはないかと必死に食らいついているように見受けられた。
私はそんな2人の様子が気になって目が離せず、さりげなく距離を詰め、また盗み聞きしてしまうのだった。
「飲みたい時とかさ、付き合うから」
「ありがとう! 佐伯さんの優しさが心に沁みる……。飲みたい時……あ、ハルさん辞める前に、また飲みに行かない?」
「そうだね……涼さん、あと2週間無いんだもんね……」
そう言いながら明らかにがっくり肩を落とした佐伯っち。彼は2人で行くつもりで声をかけたのだろうが、あの子は涼さんも誘って飲みに行こうと返す。
2人きりで飲みに行きたい下心が丸見えだったので、少しだけいい少し気味だなんて思ってしまう自分が嫌だ。
涼さんは今月いっぱいで退職して、自分の店の準備に本腰を入れるそうだ。
2週間後には、デセールは佐伯っちとあの子2人きり。2月は2人で仕事を回して、3月になったら山田くんがデセールに配属される。
結局、現在パティスリーのシェフである関さんもあの子の退職後はこちらへ戻ってくるらしいけれど、佐伯っちと山田くんが2人体制の仕事に慣れるまでの暫定的なフォローだと聞いている。
菓子職人歴10年を越える涼さんとあの子が辞めるのだ。いくら素晴らしい引き継ぎファイルがあって、佐伯っちが器用だとしても慣れないうちは大変だろうとの配慮だが、小林さんによると関さん自身は佐藤の件での監督不行き届きの責任を取る形でパティスリーのシェフを退任するらしい。
関さん自身はデセールに配属される事を希望しているそうで、今後そうなる可能性は極めて高いとのこと。
みんな変化してゆく。自分も変わらなければいけないと焦ってはいけない。だからと言ってこのままでいるわけにもいかない。少しずつ、少しずつ変わっていく。努力を重ねて変わっていくのだ。するとある時、転機は訪れる。
無理をすれば自分が壊れてしまう。けれど、無理をしなければ壁は超えられない。
そうやってのらりくらりとやってきた私は、自分に甘い。甘い上に、臆病なのに好奇心だけは人一倍あって、不器用だ。
器用に立ち回れるわけでないのに、好奇心から色々首を突っ込んでは誰かを傷つけて。
誰かを傷つける度に臆病になる。
そのくせに、好奇心には抗えないのだからタチが悪い。
しばらく大人しくしていようか。自分を甘やかすのはやめて。今の私に必要なのは好奇心ではなく自制心だ。
盗み聞きをするのは好奇心を満たすためではないのか?
それじゃあダメだ。
佐伯っちとあの子の関係に首を突っ込んだところで、またどちらかを傷付けるだけ。
そして、私はいままで以上に自分を嫌悪して、より臆病になるのが目に見えているじゃないか。
そんな不毛なアクションは起こすべきじゃないし、少なくとも今はそのタイミングじゃない。
今の佐伯っちにはこちらは付け入る隙などない。隙はないけれど、切羽詰まっているというか、焦りを感じているのは確かだ。
側に居られるうちにどうにか関係を進めたいという焦りが。
ならばこちらは静観しようではないか。虎視眈々と隙が出来るのを狙おうではないか。
——今のうちに色々手を出しておいた方がいい。学べる時に学んでおけ
クリスマスに小林さんに言われたことが頭を過ぎる。
ただ隙ができるのを待つのではダメだ。今のうちに出来ることをしようじゃないか。
少なくとも3ヶ月。自分を甘やかすのはやめよう。