1. 27歳、失恋する。
「お子さん、いたんやね」
「あぁ、おるで」
恐る恐る勇気を出して尋ねた私に、彼は何の躊躇いもなくそれを肯定した。
「そう。いくつなん?」
「上の娘が4歳、下の息子はもうすぐ2歳やな」
嘘をついてまでも否定して欲しかった訳ではないけれど、言い訳くらい聞きたかった。せめて動揺はして欲しかった。
そんな私の胸の内など知るはずのない彼は、紫煙を細く吐き出しながらサラリと答えたのだ。
「奥さん、綺麗やった…」
「まぁどちらかと言えば美人やろうな。性格はものすごキツイけどなぁ」
カラカラと笑う彼は無情だ。
「結婚してるなんて、子どもおるなんて、聞いてない……」
消え入りそうな声なのに、聞こえなくても構わなかったのに、彼の耳には届いてしまったらしい。
「聞かれなかったしなぁ」
あっけらかんと言われてしまえば、責める気にもなれず。惰性なのか無気力故か。その日も私はいつも通り、誘われるまま彼に抱かれていた。
我ながら、馬鹿だった。阿呆ではなく、馬鹿。それもとんでもない大馬鹿者、それが私だ。
***
篠山 茜、27歳。関西生まれの関西育ち。一応、大阪府出身。
私の話す言葉は生粋の大阪人に言わせると少し違和感があるらしい。まぁそれも仕方ないかな、と思う。
そもそも両親は関西の出身ではなく、父は北陸、母は山陰の出身だ。それに、父の仕事の都合で、子どもの頃、何度か引越しをしている。関西圏といっても、その中のそう広くないエリアの中で転々としていたため、色々な言葉が混ざったのだろう。
高校までは違和感があると言われていた言葉も、大学に入ってからは指摘する人がほとんどいなくなった。東京の大学へ進学したため、私の言葉に違和を感じる様な生粋の大阪人は周りにほとんどいなかったのだ。それは就職した今もそう。
私の話す言葉は「関西弁」と認識され、時々言い方がキツイと指摘される事があれども、それが私の個性なのだと思われている。
仕事はキツイけれどやり甲斐があるし、スタッフは良い人が多く気の合う友人もいる。学生時代から住んでいるのだからこちらでの生活にもすっかり慣れた。
だけど、時々無性に淋しくなる。ホームシックと呼ぶには遅すぎるし大袈裟だが、なんともいえない心細さを感じるのだ。
故郷らしい故郷があるわけではないけれど、関西と東京は違いすぎる。
そんな時、友人と2人ふらりと立ち寄った小洒落たバーで「姉ちゃん、どこの出身や?」と話しかけてきたその店の常連、それが染井だった。
染井は、私が通っていた高校のある街の出身だった。色々な土地の言葉が混ざっていると言っても、上京前にいた土地の言葉が大きく影響していたらしい私の喋りに懐かしさを覚え、話しかけられずにはいられなかったらしい。
翌朝目覚めたら、そこは知らない部屋のシングルベッドの上で、私の顔を覗き込んで微笑む彼がいた。
当時24歳だった私にとって、8歳年上の染井はとても魅力的だった。
私の周り——料理人の世界で生きる男の人たちとは違う。
彼らは良くも悪くも騒がしくて、熱い。
だから、物静かで落ち着いた彼が余計スマートで大人に見えたのかも知れない。
恋愛経験の少ない私は、染井に溺れた。染井とのセックスに。全く経験が無かったわけではないけれど、染井と付き合って初めて狂ってしまうほどに気持ちの良いものだと知った。
今思えば、初めての相手は私と同じように経験のない人で。お互い手探りの状態を抜けきる前に別れたのだから仕方ない。
だいたい週に1度。私の休みの日の前日、仕事が終わったその足で彼の住まいへ行く。時々職場の仲間と飲んでから向かうこともあったが、染井のところでの過ごし方は同じ。
同じベッドで寝て、翌朝仕事へ向かう染井に朝食を用意し見送ってから1人でベッドに戻る。
昼過ぎに起きて、掃除や洗濯をして、夕食の準備をする。
一緒に食事をして、一緒にお風呂に入ってから自分の一人暮らしの部屋へ帰る。
ごく稀に、私の仕事の後に外で食事をすることもあったけれど、デートらしいデートはした事がない。
クリスマスはこちらが忙しいし、誕生日だからって土日休みの染井と平日休みの私では昼間出かけるのは無理だ。仕方ないと諦めていた。
でも、それで構わなかった。クリスマスや誕生日の当日ではないけれど、その少し前に気の利いたプレゼントを用意してくれるだけで舞い上がるほど嬉しくて、昼間出かけることなんてどうでも良かったのだ。
今思えば、不自然なところは他にもあった。
整いすぎた部屋は言い換えれば殺風景だったけれど、一人暮らしの男の人の部屋に初めて入った私は、単に綺麗好きなんだろうとしか思っていなかった。
私の物を歯ブラシ1本ですら置くのを嫌がるなんて、分かりやす過ぎるのに。
それに、告白をされて付き合った訳じゃない。私が押しかけて一方的に好きだと言っているだけだ。
「好きだ」とか「愛してる」なんて言われた記憶はない。「かわいいなぁ」とか「いい女やで」とは毎回言ってくれるけれどそれだけ。
それから、染井は私を名前で呼ばない。苗字の頭2文字で『しの』と呼ぶ。
私を下の名前『あかね』と呼ぶ人は少ない。昔からだから、あまり違和感がなかったし、染井と出会った日、一緒にいた加奈子も私を『篠山』とか『しの』と呼んでいるから、単にその影響だと思っていた。
出会ってから3年間、私はその不自然さに気付けなかった。いや、気付きながらも目を背けていたのだ。
その光景を、目の当たりにするまでは。
6日前、私は久し振りに1人きりで過ごす休日を楽しんでいた。いつもなら彼の所で過ごすのだけれど、その日は前泊しての出張で家を空けるから来なくて良い、そう染井に言われていたのだ。ならばせっかくだから、と普段行かない様なオシャレなエリアをブラブラしながらのんびりショッピングを楽しんでいた。
クリスマスも近い12月の街は、まだ5時だと言うのに日は沈み、代わりに無数の電飾がキラキラと光を放っている。
その光に照らされ、足を止める人も少なくない。家路を急ぐ人はそんな人を上手く避けながら足早に歩いて行く。
久しぶりに生活必需品以外の買い物へと出かけた私の目には何もかもが輝いて見えて、歩みを止めていた1人だ。この景色の中を染井と一緒に歩けたら、なんて思った時だった。
「あかね!」
染井の声だ。聞き間違えるはずのない、低くてよく響く声。その彼の声が、初めて私を名前で呼んでくれた。振り向いて声のした方に視線を向けると、優しく笑う彼がいて、それだけで幸せな気持ちがこみ上げてくる。
だけれど、次の瞬間聞こえてきた声に、私の目の前は真っ暗になった。
「パパー!」
彼の視線の先にいたのは私ではなかったのだ。
街ゆく人の波で彼が見えなくなったかと思いきや、直ぐに彼の姿は再び現れた。その腕には、小さな女の子を大事そうに抱き抱えて。
「あかね、キラッキラでキレイやろ?」
「うん、とってもキレイ! パパ、あかねはあっちのツリーがみたい!」
「ほな行こか」
染井の隣には、ベビーカーを押す綺麗な女性がいて、彼に微笑んでいる。彼の腕に抱かれ、「あかね」と呼ばれた小さな女の子は、どことなく目元が染井に似ている気がした。
キラキラ輝く街は、急に光を失った。
***
関係を持ち始めてすぐの頃、「彼女は?」と私が尋ねた事がある。染井は「もちろんおらんで?」と答えた。
だけれど、私が彼に「結婚をしているのか?」とか「奥さんはいるのか?」といった事は聞いた事がない。聞いておけば良かったと思わないでもないが、今更そんなの事を気にしてもどうにもならない事は私が一番よく知っている。
彼の『おらんで』が『彼女はいないが妻はいる』という意味を持っていたなんて、私の理解の範疇を超えているのだ。わかるはずがない。
きっと染井は「結婚も、子どもも、聞かれなかったから答えていないだけ」「自分は嘘をついたわけでも騙したわけでもない」とでも思っているのだろう。
あの光景を目の当たりにした時は、ただただショックだった。
昨夜、彼にあっさりそれを認められた時もただただショックだった。
今はショックと言うよりも、自分のしてしまった事の罪悪感で押しつぶされてしまいそうだ。
染井と出会ったのは3年前の夏。
あの時既に彼は女の子の父親だった。
にもかかわらず彼は毎週のように私を抱き、私は彼に抱かれて幸せだと思っていた。
その間にも、彼の奥さんは彼の子を身籠り、男の子を産んで、もうすぐ2歳になると言う。
染井が私を『しの』と呼ぶのは、娘が私と同じ『あかね』という名前で、私を娘と同じ名前で呼びたくなかったから。
彼の部屋の物が少なく、殺風景なのは、あの部屋は単身赴任中の染井が平日寝るためだけに借りている部屋だったせいだ。金曜の夜、新幹線に乗って家族の待つ家へと帰り、日曜の夜あの家に戻っていた彼には、居心地の良くて過ごしやすい家が既にあった。快適な部屋など必要としていなかったのだ。
家族がこちらへ来る時は、手狭だからと家族でホテルに泊まる。それでも、用心深い染井は私の荷物を部屋に置くことを嫌がった。
私達のしていた事は不倫以外のナニモノでもない。少なくとも、染井はそう自覚していたはず。
食事の用意や掃除や洗濯といった家事は私が勝手にしていた事なのだけれど、染井が喜んでくれるのがとても嬉しくて。……冷静に考えれば、限りなく家政婦に近い愛人だったのだ。いや、ベッドまで共にする家政婦か。
友人達から立て続けに届く結婚式や二次会の招待状、結婚を報告するハガキで、周りで何度目かの結婚ラッシュが起きている事には気付いていた。
私だって結婚の事を考えない訳ではない。
だけれど今の私にとって、優先すべきは恋愛よりも仕事で、私はそれを彼に伝えていた。
結婚と仕事を両立させるのは難しい。相手が同業者だった場合ですら仕事を続ける事に理解があるとは限らない。それ故に、どちらかを選ばねばならないという前提が私にはあった。
結婚の『け』の字も出てこない染井との交際は私にとって都合が良かった。それ以上に、染井にとって結婚をしたがらない私は都合が良かったのだろう。
翌朝、私はいつも通り染井の朝食を用意し、彼が起きてくる前に染井の家を出た。
きっと、もうここに来ることはない——吐き気を伴うほどの激しい後悔と共に、そんな事を思いながら。