第三章ノ一
「ロネ、クシ。お前たちには、これから西方の天樹へ研修に行ってもらう」
二日後の朝、講堂で長老から告げられた言葉は、呼び出された二人が予想だにしていなかったものだった。二人が目を見開いていることに構わず、長老は続ける。
「この世界には、現在確認できているだけでここ以外に二本、天樹が立っている。そのうちの一つ、西方の天樹へ行って、そこの長老たちから話を聞いてきなさい」
「西方天樹の長老ってことは、大ババ様ですか?」
「その通りだ」
ロネの予想は的中した。大ババ様は元長老であるアトよりも古くから長老の任に就き、世界を見てきたお方。そして、『狐』について、この世界の誰よりもよく知っている人として、教科書に取り上げられるほど有名な人だった。
有名人に会えるということで、翼がわさわさと震えている。
「今回は研修だ。あまり舞い上がるなよ、ロネ」
「は、はい」
ロサから癖のことを聞いていた長老に、釘を刺される始末となった。
クシは裏返った声で返事をする幼馴染を見て、微妙に口角を上げていた。
「責任者として、ノズとイケが同行する。いいな」
「はい」「はい」
「よし、それでは三十分後、広場に集合するように。戻っていいぞ」
「失礼します」「失礼します」
同時に返事をし、同時にお辞儀をし終えると、これまた同時に講堂から出て行った。
いつもなら言い合いを始める二人が、この時はすたすたと、一言も話さず静かに廊下を歩いていった。
講堂から出ると、ロネが嬉しそうに口を開いた。
「西方研修だってさ」
「大ババ様に会えるのが楽しみなのね」
「そりゃあな。でも、あと少しすれば他の隊員たちと行く予定のはずなんだけど、なんでこんなことに」
そう、あと二週間もすれば、降下隊として正式に西方に行く研修がある。
にも関わらず、二人だけが呼び出された。
「一昨日のが関係してるのかもね」
「……」
狐との遭遇は二人にとって、とても衝撃的だった。教科書や伝承でしか聞いたことがない存在を前にして、体が思うように動かなかった。
ロネは顔を回せど相手の剣を受けることができず。
クシは硬直して分隊長を呼ぶことしかできなかった。
「大ババ様から、何を聞くことになるんだろう……」
クシの呟きに、返事はなかった。
言いつけ通り三十分後、広場には準備運動をする四人の姿があった。
肩には竹筒を紐でかけ、帯には刀と小さな巾着袋を付けている。
充分に体をほぐしたところで、ノズが三人を呼び集めた。
「西方へは風に乗って八時間、ずっと飛びっぱなしだ。二人とも、準備はいい?」
「はい」「大丈夫です」
「それじゃあ、いこう」
「はい」「はい」
ノズとイケは目を合わせて頷き合う。
長老や広場にいた『巣』の住人たちに見送られながら、四人は青々と広がる空へと、勢いよく飛び込んだ。
延々と続く空を飛ぶ影四つ。先頭がノズ、続いてクシ、ロネ、最後にイケ。
時々切れる雲の下には、木々の色めいた姿や、ゴマのように小さく見える動物たちの躍動する姿があった。
「半分を過ぎた。各自補給は忘れるなよ」
ノズからの言葉が風に流れて聞こえてくる。
注意を受けて、ロネ達は水の入った竹筒を時折口にしたり、巾着に入っている木の実をかじったりしていた。
半分まではあまり疲れを感じないが、ここから天樹が見えてくるまでがきつくなる。それに備えるには、補給をしてどうにか体力を回復させる他なかった。
ここから更に約四時間。飛びっぱなしの旅は続く。
半分を超えてから、もう何時間経っただろうか。
「うっ」
「クシ!」
突然クシが体勢を崩し降下し始めた。ロネが補助に入ろうとしたが、クシ自身が制止をかけた。
すぐに姿勢を戻し、隊列に入り直した。
「大丈夫か?」
後ろから聞いてくるイケに、首肯と手ぶりで答えるクシ。
ロネは自分が持っていた木の実の残りを渡し、竹筒を取り換えようとする。
「いいって」
小声で拒むクシだったが、ロネが一睨みするとおとなしく従った。
彼女が持っていた竹筒を振ってみると、中身はほとんど残っていなかった。
「あれだ。もう着くぞ」
クシがくいっと竹筒を傾けたのとほぼ同時に、ノズの声が聞こえた。
首を伸ばして前を見てみると、数キロ先に、数多の家々を幹の上に抱えた見事な大樹が見えた。
間違いない。あれが西方の天樹だ。
広場に降り立つと、周りはとても静かだった。人は集まっているものの、誰一人として口を開く人はいない。
ロネに支えられながらクシが最後に降り立つと、群衆の一番前に立っていた老婆が、杖を突きながら前へと進み出てきた。
四人の前で立ち止まると、一つ咳払いをしてから話し出した。
「東方の天樹の方々、よう来なさった。儂がこの天樹の長老、通称大ババと申す」
背が低いうえに腰が九十度曲がっていることもあってすごく小さく見えるこのしわくちゃのお婆さんが、噂に聞く大ババ様だと聞いて新米二人は目をぱちくりさせた。
「話はアソンから聞いておる。まま、ことは明日じゃ。今日はここでゆっくりせられい」
宿を教えると言って歩き出す大ババ様に、ベテラン二人は「ありがとうございます」とだけ言ってついていく。
顔を見合わせてから、ロネとクシも先輩方に続いた。
ロネが西に目を向けると、日はもう沈みかけていた。
案内された宿の部屋数はとても少なく、トイレとベッドがある二人部屋が二つだけだった。
もともと、通常の研修では大旅宿という主要な宿が開くのだが、臨時で客が来たときはこの宿か、収まりきらない場合は人の家に泊めさせてもらうことになっているらしい。
一部屋二人という制限があるため、必然的にベテラン二人、新人二人という部屋分けになる。
「襲ったりしたらただじゃ置かないからね」
調子があまり回復しないクシは、ベッドに横たわりながら幼馴染に毒づいていた。
「襲うかバーカ」
荷物を整理しながらロネが何の気なしに答えると、少しの間、何を聞いてもクシからの反応がなくなった。
「おい。クシ、大丈夫か?」
心配したロネが顔を覗き込む。すると、クシが顔を一気に真っ赤にしてロネを部屋の外に吹き飛ばした。
ちょうど隣の部屋から出てきたベテラン二人は当然この様子を目にしたが、イケが「若いってのはいいねえ」と言うだけで、すぐに通り過ぎていった。
飛ばされた本人はすぐに起き上がって、先輩のことなんか目もくれず、飛ばされた理由をじっと考えていた。頭を掻いてみたりもしたが、飛ばされた理由は全く思い浮かばなかった。
夕食は部屋に人数分運ばれてきて、各自で食べるという形式だった。クシの調子が芳しくないのは周知されていたので、ロネとクシの食事は温かい木の実のすり身となった。
ロネは配膳係が食事を持ってきたとき、自分のだけ普通と同じものにしてもらおうと口を開きかけたが、「残さず全部食べてくださいね」という配膳係の威圧感のある笑みに気圧されて、結局二人とも同じものを食べることになった。
クシの調子が戻らないので、必然的にロネが食べさせなければならない。
最初はその事実をお互い受け入れられずにいたが、「よし、やるしかない!」とロネが覚悟を決めたのを見て、クシも決心した。
「熱いから気をつけろよ」
レンゲで少しだけすくい、息で冷ましてから、クシの口に運ぶ。
弱弱しく、でも確かに口に含み、何度も噛んで、ゆっくりと飲み込んだ。
「……おいしい」
「そりゃ良かったな」
少々時間がかかったが、クシはお椀一杯分のすり身を完食した。
同時並行で自分の分を食べていたロネも、綺麗に食べ終わった。
「それじゃ俺、運動してくるから」
食器を一か所にまとめてから、ロネはそう言って部屋を出て行った。
クシは手を振って見送った。
三十分後、いつの間にか眠っていたクシが体を起こしてみると、先ほどまで体にのしかかっていたダルさが消えていた。
気が付くと、配膳してくれた人が、食器を回収しに来てくれた。
「あ、起こしてしまいましたか?」
クシは即座に首を横に振った。
配膳係が部屋を出て行こうとしたとき、あっ、と何を思いついたのか、クシはその人に、一つ尋ねた。
「あのう、お風呂って、どこにありますかね?」
「ふう、今日はこんなもんかな」
宿から広場までの道を何度も往復したロネは、肌から止めどなく出る汗を袖で拭きながら、宿への帰路についていた。中身を補充してもらった竹筒を口に運ぶ。
ああ、運動後の水ほど気持ちいいものはない。
もう一口飲みながら、これからどうしようかと考えていたロネの頭の中に、ある光景が思い出される。それは、クシによって部屋から突き飛ばされたとき、視界の端に見えた、タオルを持ってどこかへ向かうベテラン二人の姿だった。
宿に行く道中の二人の話の中で、この『巣』には温泉と言うものがあることをロネはつかんでいた。
しかもそれは、汗を流すにはもってこいなんだそうだ。
「……ちょっと行ってみるか」
宿に向かう影の動きが、少し速くなった。
この西方の天樹では、枝先以外にも、幹から湯が出る場所が数か所ある。それらのお湯を利用して体を効果的に癒すために開発されたのが、温泉、風呂という湯に浸かる文化だ。
正式な西方研修でも、温泉に浸かる時間はあるが、一足先に来たのなら、入らない手はないだろう。
「廊下の突き当りを右で、そっから二つ目の左の扉、二つ目の左の扉、っと。ここか」
ロネが宿の廊下を歩いていくと、「温泉」という暖簾がかかった扉の前に着いた。
引き戸を開けると、玄関の先はツイタテがされており、その奥が脱衣所となっていた。二人の話では、「棚に並べられてある籠のどれかひとつに自分の衣類を入れる。それからタオルを持って浴室に向かえ」とのことだった。「人の荷物が入った籠の近くに荷物を置かない方がいい」とも言われたので、荷物が入っている籠の三つ左の籠を使うことにした。
衣類を脱いで籠に入れ、タオルを持ったら準備完了。「この宿の管理員も入ってるかもしれないから、粗相のないようにな」という忠告を肝に銘じて、浴室へと続く引き戸を開けた。
「……湯気で何も見えねえ」
思わず呟いてしまうほどに、浴場は白い湯気で満ちていた。だだっ広いということは感覚で分かるのだが、その全域を覆わんとする湯気が余りにも濃いのだ。
湯気と言うと、清磨に使うタオルから立ち上る少しの湯気しか見たことなかったロネにとって、この温泉は異様な空間だった。
浴場を少し歩くと、お湯が張ってあるところが見えた。これが「湯船」というものらしい。「湯船に入る前には必ず湯船のお湯を桶ですくって体にかけて、清磨のようにタオルを使って汚れを流すんだ」という先輩からの指南通り、ロネは近くにあった桶でお湯をすくい、体にかけた。
お湯は肌に心地いいくらいの加減だ。
数回体にかけて、タオルで体を隅々まで洗ってから、もう一度お湯を浴びて湯船に入った。
奥の方から波がきた。多分さっきの荷物を置いてた人だ。影がうっすら見えたが、どうやら奥の方に動いて場所を開けてくれたらしい。
「どうも」
ロネがお礼を言うと、「へ!?」という高い声と先ほどよりも大きい波が来た。
ん? 高い声?
声の正体を確かめようとロネが近寄ると、相手も近寄ってきた。湯気に映る黒い影が、だんだんと人の顔のはっきりとした形を表していく。
そして、お互いの顔が目と鼻の先ほどに近づいてやっと。
「クシ!?」「ロネ!?」
二人は変なところで、ばったり出会うことになった。
お互い背中合わせのような形で、背中をつけずに湯船に浸かっている。
「すまん。まさかお前が入ってるとは」
「いや、こっちこそ」
何がこっちこそなんだと自問しているクシをよそに、ロネはまた声をかける。
「体、もう大丈夫なのか?」
「ん、ああ。もうすっかり。あのすり身が効いたのかもしれない」
「そうか。よかったな」
「うん」
「……」
「……」
重苦しい沈黙が、湯気に混ざる。
どちらも何も話さない。ただ桶から湯船に水滴が落ちるわずかな音だけが、浴室に響いている。
「あたし、もう出るね。あんた、ゆっくりできないでしょ」
唐突にクシは立ち上がる。
「いや、出なくてもい……」
振り向いた先には、湯気越しにもわかる、クシの体があった。
「……」
青筋が浮いてくる音が聞こえてきそうだ。顔は見えないがロネには雰囲気で分かる。クシが怒っていると。
「いや、これは条件反射と言うかなんというか」
両手をあげて釈明するロネ。湯気の向こうの覇気が一層強くなったような気がする。
こりゃもう文字通りお手上げだ。なんて、心で白旗を振っていたロネに、クシは。
「のぼせただけだから、あんま深く考えないで」
何もすることなく、脱衣所へと出て行った。
「……」
手を挙げたまま、ロネはしばらく動けなかった。
ロネが部屋に戻ると、いつもの調子のクシが「ああ、やっと帰ってきた」と迎えてくれた。二つある寝床のうち、左側に座っている。
いつもの幼馴染を見て、ロネは顔を緩めた。
「え? あんた何笑ってんの? 怖いんだけど」
「てめえ、言ってくれるじゃねえか」
すっかりロネも、いつもの調子を取り戻した。
それから程なくして、消灯時間が来た。宿の人が各部屋をまわって、明かりを消していくのだ。これから先は、勝手に明かりをつけてはいけない時間となる。
ロネ達の部屋にも係の人が来た。
「それでは、ごゆっくりおやすみなさい」
挨拶と共に明かりを消した係の人が出ていくと、部屋は暗闇と静寂に包まれた。
何も見えない。何も聞こえない。真っ暗闇。
「ねえ」
ロネは声の方を向いた。
「まだ起きてる?」
「……数秒で寝れるほど、俺は器用じゃない」
返答してみたが、クシからの返事はない。
「なんだ? 寂しいのか」
冗談交じりにロネが尋ねる。
返事はない。
「おいおい、答えてくれよ」
苦笑いをしながら言うが、クシはやはり答えない。
「……」
ロネは、クシが口を開くまで待つことにした。話しかけてきたんだから、何か意図がある。それをやるのに躊躇しているのか、それ以外か。ロネがいくら考えても、答えは出ない。相手にわかるはずもないのに、ロネはじっと、クシの方を見つめた。
「あたし達、変わったよね」
クシは静かにそう言った。間をあけて、「そうだな」と、ロネも静かに言う。
「俺がこんな奴になるなんて夢にも思わなかったし、お前が女の子らしくなるとも思ってなかった」
「んな!」
隣の布団がばさっと音を上げた。
「あ、あんた何恥ずかしいこと言ってんのよ!」
恥ずかしいか? とロネは首を傾げる。
「子供の頃の武術一本槍だったお前に比べれば、今のお前の方が人間味があるって話だ」
「……そっか」
落ち着いたクシは、また寝転がる。
「かわいくなったとも思うぞ」
「あんた言葉を選びなさい!」
今度は起き上がりこそしなかったが、大声を上げた。
「そんなに興奮すると眠れなくなるぞ」
「……」
クシはロネに向けて恨みを込めた視線を送った。
「まあ、どっかの本で見たけど、変わらないものなんて、この世にはないんだ。人間だって、その例外じゃないってことだろ」
「……そうね」
すごく簡単にまとめられたし、クシはそういう話をしたかったわけではなかったが、ロネの結論に、それでいいかと、クシは思った。
「明日もあるし、早く寝ようぜ」
「うん。ごめんね、寝るの邪魔して」
「いいって」
おやすみ、と言い合って、二人は眠りに落ちていった。




