第一章
天に昇る太陽が西の雲の下に隠れようという頃、背中の羽を羽ばたかせながら、一人の男が『巣』の広場に着地した。たくましいその体には、数個の籠がかかってある。中には衣服や櫛、食器など、様々なものが入っていた。
「ととさん。おかえり!」
広場に隣接するように建てられた和式の大きな家から、男の子が出てきた。一直線に男へ駆けてくる。
そのまま勢いよく抱きついたその子を、男は優しく抱擁した。
籠を下ろして抱き上げると、男の子は歓喜の声を上げた。
「お帰りなさい」
もう一人、男の子が出てきたのと同じ家から女性が出てきた。風になびくベージュの長髪を手で押さえ近づいてくる。男を見る目はとても優しい。
大変だったわねと言いながら、男がかけていた籠の一つを運び始めた。男は微笑みを浮かべながら、残りの籠を、二人が出てきた家へと運んだ。
籠を運び終えると、男だけが家に残った。
「この度の交易任務、ご苦労じゃった」
「はっ。ありがとうございます」
家の中は講堂のようになっていた。千人は余裕で入れそうなほどの広さがある。
その講堂の中で、床が一段高くなった先の台座に、鎮座する老人がいる。この『巣』の長老である。
長老の前で頭を下げたのは先ほどの男。持ち帰った籠は、長老の台座の後ろに一列に並べられていた。
労いもそこそこに、長老は別の話を切り出した。
「そろそろ六の月。地上へと向かい、食料を採らねばならん」
「そうですね」
男は顔を上げた。
長老は男の目をじっと見つめる。
「そこで、今回から部隊長を、お前に任命したい」
長老の言葉に、男は自分の耳を疑った。
「部隊長……。この私が?」
長老はゆっくりと頷いた。
「これまで部隊長として務めてくれていたアソンももう五十。そろそろ若い者に代を譲る時じゃろうて」
長老は顎から長く伸びた髭を何度か擦る。
男は下を向いたまま、うんともすんとも言わなかった。
少しの間、沈黙が流れた。
「降下は明後日じゃ。それに、いきなり一人でと言うのではない。アソンに補佐を頼むつもりじゃ。まあ、今日はゆっくり疲れを癒してくれい」
「はっ。 ……失礼します」
男はもう一度深く頭を下げてから、立ち上がって講堂を出て行った。
長老はもう一度、髭を擦った。
「なんて言われたの?」
講堂の外でずっと待っていたのか、玄関を出るとすぐ横から先ほどの女性が行燈片手に声をかけてきた。
空は深い藍色で染められている。陽が落ちた後、月が天に上る前のこの時間が一番暗い。
女性は竹の水筒を男に渡した。
「明後日の降下で、部隊長をやってもらいたいって言われたよ」
受け取った水筒の水をあおってから、男は答えた。
「浮かない顔ね」
「いや、大丈夫さ」
水筒を返すとき、男は目を合わせなかった。
「ロサ……」
男はすたすたと、自宅の方へと歩き出した。女性はそんな姿が気に入らないのか、速足で追いつき、男の手を取った。
「ハーネ、なん」
「なんでも話してよ。私たち、夫婦じゃない」
ロサの言葉は待っていなかった。優しい目でロサを見つめる。
言葉が出ずに開いたままになったロサの口は、すっと笑みで結ばれた。
「そうだな。家で話すよ」
ロサの言葉を聞いて、ハーネも笑みをこぼした。
それから二人は並んで、自宅への帰路についた。
玄関の戸を開けて「ただいまー」と言うと、奥から小さな足音が近づいてくる。
「ととさん、かかさん。おかえり!」
玄関口まで男の子が迎えに出てきたのだ。行燈の光に照らされた男の子の目は嬉々として輝いている。
「ただいま、ロネ」
「ただいま。ロネ、ちゃんとお留守番できた?」
「うん、ちゃんとじっと待ってたよ」
母親の質問に全力で首を縦に振るロネ。
先ほど一度家に帰った後、
「かかさんはととさんを迎えに行ってくるから、家で留守番しておいてくれる?」
とハーネに言われたロネは言いつけ通り、今までちゃんと待っていたのだ。
「偉いわねえ。よしよし」
「えへへ」
頭を撫でられたロネの翼は無意識にふるふると小さく羽を振るわせた。
八間で照らされる家の中。
居間でくつろいでいたロサの前に、ロネがとととっと駆け寄ってきた。後ろでハーネが笑っている。
「ねえ、ととさん。今日あのお話してよ。天樹のお話」
「え? あの話、また聞きたいのか?」
天樹のお話と言うのは、ロサが交易に出る二日前、寝る前に読む絵本の代わりに話した、とある昔話、伝承の話だった。
ロネの翼の動きが活発になってくる。
「うん! ととさんが話してくれたあの日から、ずっとまた聞きたかったんだ!」
「この子すごいのよ。ととさんの話が早く聞きたいの。いつ帰ってくるのって、聞かない日はないくらい言ってたのよ」
ロネとハーネの言葉に、ロサは「へえ」と相槌を打つことしかできなかった。
「おまけに私はおろか、長老がその話をしても『つまんない』って一蹴されるの。あなたの語りがよほどうまいんでしょうねえ」
「おいおい、やめてくれよ。俺はただ普通に話してるだけだって」
ロサにジト目で詰め寄っていたハーネは、次の瞬間「ぷっ」と笑い出した。
「冗談よ、冗談。でも、ちょっと羨ましいわね」
「へ?」
「なんでもないわ。ふふ」
謎の笑みを残して、ハーネは台所へ消えていった。
ロサが頭を掻いてみても、答えは出なかった。
日も暮れて、夕飯の時間になった。今日のメニューは猪肉入りのカレーと、ロサの大きな手と同じくらい大きいパンだった。
猪の肉はたとえ地上に降下したとしても手に入るか入らないかの貴重な食材である。それを使うのは、何か特別な日と決められていた。
今回はロサの交易任務達成記念と、明後日に控えた降下の成功祈願のための食事だ。ロネにしてみれば、ただの豪華な食事なのだが。
夕飯も終わると、次は清磨と決まっている。清磨というのは、体を清潔に保つための体の洗浄のことである。
お風呂で裸になり、お湯に浸したタオルで体を拭く。お湯は天樹のとある枝の先からちょろちょろと流れているのを汲んできて使う。
次は木の実から作った石鹸を使い、体の隅々まで洗った後に、もう一度タオルで全身を拭く。
頭を洗うときはここでタオルを取り換える。
頭は三日に一回、専用の石鹸でもみ洗いしてタオルで綺麗にふき取る。
すべて終わったら一人一つのバケツでタオルを洗う。
というのが、清磨の手順である。
体洗いで自分の手が届かないところなどは、家族や隣人にやってもらうのが決まりだった。
子供に関しては、頭洗いも十分に成長するまでは家族などにしてもらうことになっていた、
「じっとしてるんだぞ、ロネ」
「うん……」
今日はロネの頭洗いの日。いつもは嫌だ嫌だと逃げ出すロネも、久々に帰ってきた父親にいいところを見せようと思ってか、じっとしている。
石鹸が目に入らないようにしっかり目を閉じているロネには、今どうなっているのかまったく分からない。しかし、父親の温かい手が、泡で自分の頭を洗い、タオルでそれらを拭きとってくれていることが、手の温度で伝わってきていた。
「よーし、よくできたな、ロネ」
「えへへ」
「ロネももうすぐ十歳だし、次は自分でできるようにならないとな」
「え……えぇ!?」
せっかく褒めてもらえたと思ったら、今度は新しい課題を出されてしまった。
がっくりと肩を落とすロネを、ロサは笑顔で見つめていた。
「焦らなくていい。最初はだれでも不安なものだから。できるようになるには、挑戦あるのみだ」
父親からの言葉を、ロネはちゃんと聞いていた。目を合わせると、ロサは力強く頷いてくれた。それが何を示しているかなんて、ロネにはわからない。ただ、がっくりすることじゃないんだということは、感じ取っていた。
そしてロサも、同じように感じ取っていた。
清磨が終わり、歯磨きも終わると、子供は寝る時間である。ロサはロネにせがまれて、天樹のお話をすることになった。
「今から遠い遠い、はるか昔のこと。人間たちは、地上で健やかに暮らしていました。子は野を駆け回って遊び、親は仕事に精を出し、皆が笑顔で幸せに暮らしていました。
しかし、そんなとき、不幸せを好む冥界の悪魔たちが、人間たちの幸せを妬み、生きる地上に『厄災』をふりまきました。『厄災』を受けた人は次々に死んでゆきます。
残された人々は恐怖に震え、笑顔をなくしてしまいました。
人間たちは、必死に神に祈りました。どうか私たちをお救いください、と。
すると、優しい優しい神様は、人間の言葉を聞き入れ、背中に翼を与え、そして世界に天樹を生やしてくれました。
人間たちは地上から離れ、天樹の上で生活するようになりました。神様のお力のおかげで、地上の『厄災』はなくなり、自然は人々が降り立っても大丈夫なまでに回復しました。
それからというもの、人々は自然に感謝することを忘れずに、いつまでも、健やかに暮らしましたとさ」
話を聞き終えたロネは、話し手に向かって拍手を送った。
「そんなに面白いか? この話」
「うーん、ちょっと違う。でも、とっても好き!」
子供の笑顔に、「実はこの物語は、自分が子供の頃にお爺ちゃんがしてくれた物語の、うろ覚えの部分をつぎはぎして話し聞かせている物語だ」とは、ロサはとても言えなかった。
「さあ、寝ようか」
「うん、おやすみなさい」
ロネは目を閉じると、一二の三で寝息を立て始めた。息子の寝入りの良さに中々感動しながら、ロサもゆっくりと目を閉じた。息子に負けないくらい、ロサもすぐに眠りの底に落ちていった。
朝になり、朝ごはん等々の朝の用事を済ませると、ロサは長老の家へと向かっていた。
「よく来たな。ロサよ」
「はっ」
ロサが頭を上げると、長老は笑っていた。
「覚悟が、できたようじゃの」
「はい」
胸に手を当て、ロサが宣言する。
「明日の降下、このロサが部隊長を務めさせていただきます」
ロサの言葉に、長老は何度もうなずいていた。
「ととさん、明日はお仕事?」
夜、降下のための準備をしているロサのもとに、ロネがふらりと近寄ってきた。
「そうだよ、明日、ととさんは降下してくるんだ」
降下、という言葉が、ロネの耳を震わせた。
「降下? 降下って」
「地上に降りて、自然から恵みを頂くんだ。大切な仕事なんだよ」
ロネの翼は、ふるふると揺れている。
「……せがんでも、連れて行かないからな」
「べ、別に、そんなこと考えてないし!」
熱くなった顔を見られたくないのか、ロネはそっぽを向いた。
そんな息子の頭を、父親は優しく撫でる。
「お前が十五になれば、降下隊に選ばれるチャンスが来る」
ロネの顔が、わずかに動く。
「それまでは、訓練して、かかさんの手伝いして、ちゃんと一人前になるんだ。そしたらきっと、ロネも降下隊に入れるさ」
「ほんと?」
横顔だけが、ロサの視界に映る。
「ああ、ほんとだ」
「……そっか」
口角をニッと上げると、ロネは父親の手を抜けて行った。
部屋の入り口で振り向いて、満面の笑みで「おやすみ!」と言って出て行った。
「ああ、おやすみ」
部屋を出たロネも、荷物の確認を再開したロサも、微笑んでいた。
ロネが寝る前に「ととさんの準備の邪魔しないの」とハーネから釘を刺されたことを、ロサは全く、知る由もなかった。
夜は更けて。
三日月は天を裂くように星々の間を渡り。
そして。
太陽の目覚めと同時に床へ着く。
太陽が空の端から顔を出す頃、『巣』の中心にある大広場に、百数十人の男たちが集まっていた。全員が、サンタが持っているような大きい布袋を握っている。
その大広場のすぐ下。今日は眼下の大地を分厚い雲が覆っているが、その雲の一部にだけ、ぽっかりと穴が開いていた。
杖をついて立つ長老が前で咳をすると、今まで話をしていた男たちが皆、口を閉じて姿勢を正した。
「皆の者、早くから集まってくれたこと、感謝する。いつもよりも早く皆を集めたのには、訳がある。今回から、新しい部隊長が就任するのじゃ」
それを聞いた男たちは、またざわつき始めたが、長老の杖の一突きですぐに静まった。
「新しい部隊長は、ロサじゃ」
新隊長の名前を聞いて数秒、広場には風の微かな音だけが流れた。
次の瞬間、どこからともなく拍手が上がり、一気に広場を覆い尽くした。
「では、新部隊長から一言もらう」
長老に背を押されて、ロサは皆の真ん前に立った。全員の視線がロサに集まる。
震える手を握り締め、すーっと息を吸った。
「今回の降下から部隊長を務めさせてもらうロサです。皆さん、よろしくお願いします」
ロサは大声で言い切った。
また広場に拍手が広がる。自然に収まったところで、長老が号令をかけた。
「皆の無事を祈っておる。それでは第一陣、行ってこい!」
「はっ!」
部隊長を先頭に、部隊長補佐、その他の隊員という並びで男たちは次々に翼を羽ばたかせ、天樹の下へと降下していった。
家の陰からその様子を見ていたロネとハーネは、ロサの無事を切に願っていた。
「おいロサ、緊張してるんじゃないのか? そんなんじゃあ第二陣までもたないぞ」
元部隊長、アソンが言う。ロサは滞空して栗をちぎりながら、「あはは」とぎこちなく笑った。
「第一陣は総勢七十人。採集範囲もそう広げなければ、監督するのはそう難しくない」
「簡単に言いますね。統制とるだけでも精一杯なんですから」
「目上が大変、か?」
アソンは少々笑っている。
「全員が全員ってことではないんですけどね」
正直者だなと、アソンはロサの背中をはたいた。
「だが正直すぎると、敵を増やす。うまく折り合いをつけることも重要だ」
「分かっては、いるつもりです」
ロサは話しながらも、部隊の動きから目を離さない。
「まあ最初は思ったようにやってみろ。うまくいかなければ、そのときは私が助言してやる」
「お気遣い、感謝します」
はははと笑いながら「俺はあっちを見てくる」と言って、アソンは森の奥へ飛んで行った。
「隊長」
「!」
後ろから声をかけられた拍子に、思わずびくついて振り返ったロサに、話しかけた隊員自身も「ひっ」と声を上げた。どうやら新人らしい。
「あの、そろそろ第二陣が来ましたけど」
新人の伸ばす指に従って上を見上げると、新たに五十人ほどの男たちが下りてきていた。
「あっ! もう交代の時間か。皆さん、第二陣と交代してください! 交代してください!」
全方位に向けて指示を飛ばす。
視界に入る隊員たちには聞こえたらしいが、まだ聞こえていない隊員はだいぶ残っているだろう。
「君も上に戻ってくれ」
「は、はい!」
新人に言い残してから、ロサはアソンが飛んでいったのとは逆の方向に急いだ。
「ふああ」
あれから三時間、総合すると六時間。第二陣の指揮まで完遂させたロサ達は、地上の自然から頂いた恵み、木の実や動物の肉などを持って、『巣』へと戻ってきていた。
枝葉で西日を避けながら休んでいたロサの頬に、ぴとっと、冷たいものが当たる感触があった。振り返ると、細くともしなやかな筋肉のついた色黒の赤髪おじさんが立っていた。
「よっ、お疲れさん」
「あ、アソンさん。ありがとうございます」
手に持っていたのはキンキンに冷やされたタオルだった。受け取って首筋に当てると、思わず体がぶるっと震えてしまう。だが、それが気持ちよかった。
疲れた体を滑っていくタオルはまるで、枯れた大地に久々に降る雨のようだった。
「初降下で死傷者なし。やるじゃないか。さすがは長老の見立てだな」
タオルを返しながら「アソンさんのおかげですって」と謙遜するロサに、涼しい目をしてアソンは語った。
「俺が初めて降りたときは、五人『狐』にやられた」
元隊長の重みのある言葉に、ロサは息をのんだ。
『狐』というのは、伝承に登場する悪魔の化身である。神の力をもってしても消しきれなかった存在。人間の敵。それが『狐』である。
体は人間と同じ形をしている。違うのは、背中に翼をもたないことと、狐を模した、顔の上半分を包む仮面を被っていること。そして『狐』のほとんどが、翼の生えた人間、『鳥』をとても憎んでいるということだった。
「だから、今回『狐』が出んかったのは、幸運だろうな」
「そう、ですね」
返答の後、二人は収穫物の倉庫への運搬の手伝いに精を出した。
最後の荷物を運び終える頃には、日が雲の下へと潜っていた。
「今日は、お疲れ様」
「うん」
「困ったこととか、なかった?」
「うん」
「あなた」
「うん」
「……」
夜、二人は寝床の中で話していた。しかし、ロサは帰ってきてからずっと上の空だった。何を話しても「うん」としか言わず、ロネの清磨のときも、強すぎたり、弱すぎたり、力加減がまるで分かっていなかった。
「あの子が、心配ですか」
「……」
初めて返答がやんだ。
「何か、あったんですか」
「……」
ハーネの問いかけに、ロサはゆっくりと答えた。
「あいつが降下するときが来るのが、怖くなったんだ」
「……」
「今日、アソンさんから『狐』の話をちょっと聞いた。地上に出たら、ロネも襲われる日が来るかもしれない。そう考えると」
「あなた」
ハーネは夫の体を自分の方に向けさせ、包み込むように抱きしめた。
「大丈夫よ。大丈夫」
「……」
「『狐』のことを考えるなら、私はいつだって、あなたを降下させたくなんかない。ずっと家にいて、ロネの面倒を見てもらって、温かく生きていたい。だけど、それでもあなたの背中を押してるのは、それがあなたの生きる道だからよ」
「生きる、道」
「そう。あなたが生きるために通るべき道。古い言葉では、生きがい、と呼ぶものよ。だってあなた、今まで降下の仕事を辞めたいなんて言ったことないじゃない。あの子が辞めたいなら、そのときは辞めさせてあげればいい。でもあの子がやりたいと言い続ける限り、私たちはあの子を応援してあげた方がいいと思うの。それが親の役目だと、私は思うの」
「親の役目、か」
ハーネの胸の中で、ロサは呟いた。
「そうか」
ととさん。ととさん朝だよ。とーとーさーん。
むぅ、起きない。そんならぁ。
とうっ。
「ぐっ!?」
ロサの腹に鈍器が落ちたような衝撃が走る。一瞬真っ白に塗りつぶされた視界が、徐々に戻ってくると、ロサは自分に覆いかぶさる重量の正体を腹の上に見つけた。
「ロネ、おはよう」
「おはよう、ととさん!」
元気いっぱいの息子の成長を、ずきずきと感じながら、ロサはゆっくりと体を起こした。
「今日からお前には、稽古をつけます」
「稽古!?」
二人は朝食後、『巣』の道場に来て正座していた。二人のほかにも、子供同士で修行している子たちもいれば、脇の方には談笑しているおじさんおばさんやおじいさん達もいる。
ここは『巣』の憩いの場の一つであり、研鑽の場なのである。
「お前もあと数か月で十歳になる。そろそろ剣を握ってもいい頃だろうと思ってな」
「はい!」
いつも以上に最高の返事だ。父親や他の男たちの姿を見ていて、憧れていたのだろう。
「でも、最初から真剣を持つのは危ないので、まずはこれで修行します」
ロサが手渡したのは、ロネの名前が手元に彫られた木刀だった。ロネの目が眩く光っている。
「ふわあ、ありがとうございます!」
お辞儀の勢い余って床に頭を激突させたロネだったが、父親の心配など知らぬというくらいのにっこり顔で顔を上げた。
「……これからはこの木刀を肌身離さず持っておくように」
「はい!」
「雨の日も風の日も、ととさんがいない日も、修行がんばれますか?」
「はい!」
「そして、」
「はい!」
「もう少し声を小さくできますか……」
「はい!」
ロサのお願いは、元気な返事で即座に打ち消されてしまった。
ロネが周りの視線に気づくのは、その痛さが分かるのは、もう少し先なのだなと、ロサは苦笑いを浮かべた。
時は思いの外に流れていくもので。
一ヶ月ほどで、ロサは部隊長として立派に仕事をするようになった。
アソンは降下隊から退役し、新しい長老に就任した。
そして前任の長老は、引き継ぎの儀の翌日、死亡した。
長老職の加護が解けたためだと、『巣』の図書館長が言っていた。長老と言うのは『巣』の中で皆をまとめるもの、歴史を引き継いでいくものだ。そのため、神の加護を受けて六十と言う寿命の縛りがなくなり、長老としてあり続ける限り、死ぬことはない。その代わり、長老職を辞退した次の日に、天に召されるのだと。
皆に見送られながら、長老こと、人間アトは、天樹の室と呼ばれる穴の中へと、葬られた。伝承では、ここに入れると、死体は天樹の養分としてすべて吸収されるということだった。
ロネには好敵手ができた。クシという名の女の子で、ロネよりも前から道場で修行していた。そんじょそこらの男の子たちには負け知らずで、ずっと道場の一番を突っ走っていた。短髪な上に父親に似た赤髪だったこともあって、「男の子より男勝りだ」なんてこともよく言われていた。
ロネが初めて試合をしたのは道場で修行をし始めてから二か月後。道場に通う子供たちの力試しを目的とした総当たりだった。そりゃあもうこてんぱんにやられまくって、父親に泣きついた挙句、「男として情けないとは思わないのか」ときつく言われてしまった。
そこでロネは一度折れてしまった。クシを見ると道場の隅へ逃げるようになり、時にはロサや、見学に来たハーネの後ろに隠れていた。
これには夫婦ともに困っていた。道場にいたおじさん方に話を聞いてみると、「男はほっときゃ自分ででかくなるさ」とのことだった。
ロネの十歳の誕生日の後、ハーネは表向きには、道場に来なくなった。ロサも道場の中では、ロネに背中を譲らなかった。涙を眦に溜める我が子を見るのは辛かったが、これも息子のためだと、心を鬼にして徹底した。
最後の一押しは、まさかのクシだった。
道場が開く前に朝練をしていたロネのところに、あちらから赴いてきたのだ。
「お前の父母がなぜあんなことをしているのか、お前は考えたことがあるか。泣きつくお前を見る父の顔を、お前はちゃんとみたことがあるのか? お前が私への恐怖を捨て去らない限り、お前の父母はずっと苦しむことになるんだぞ」
いきなり突き付けられた現実に、ロネの頭はついていかなかった。
時間差で、ロネの目に涙が出てくる。
「またそこで泣くのか。泣いて私から逃げるのか。泣く以外にお前は何もしないのか。強くなろうとしないのか。それでも降下隊志願者か!」
最後の一言に、ロネの体は震えた。
「そうか、お前のような意気地なしがなれるほど、降下隊と言うのは易しい所なのだな。それならば、お前よりも数段格上である私は、容易く降下隊に入れるんだろうな」
自分の目標を、大好きな父親の仕事を馬鹿にされて、黙っている子などいるだろうか。
いや、いない。
「降下隊を馬鹿にするなよ! ととさんが降下隊になるまで、二回試験に落ちたんだ。あのすごく強いととさんでも二回はダメだった。そのくらい降下隊に入るのは難しいんだ!」
「馬鹿にするなと言うお前はどうなんだ!」
ビリッと。羽が逆立ち、全身に鳥肌が立った。
「そこまで言うのなら、それに入りたいというのなら、私なんぞ容易く超えて見せろ! それも出来ないうちから、私に口答えなどするな!」
その日からだ。ロネが今まで以上に修練に打ち込むようになったのは。
いくら試合で打ち負けても泣き言ひとつ言わず、夜も一人で素振りや構えの練習をするようになった。
いつの間にかクシを怖がることもなくなっていた。それどころか、自分の動きをクシに見てもらうなど、それまでのロネからは想像もできないこともやるようになった。クシもクシで、ロネのことを認めたのか、よき相談相手、試合相手となっていた。
そうこうしているうちに、六年という年月は、風のように儚く、気づいた時にはもう過ぎていた。




