あたし、猫になる
朝起きたら猫耳としっぽが生えていた。
手櫛で髪をすくたびに引っかかってピコピコと動く薄茶色の獣の柔らかい耳と、寝巻きのワンピースの裾からニョロニョロと床に向かって這う白と茶のまだらの尻尾を認めて、あたしはこの現実に速やかな結論を出す。
夢だな。
今日は休日なのだが、あたしは殿下とお茶したり、殿下とお茶したり、それと殿下とお茶をする予定が午後からあるので、朝から明日の授業の予習をするつもりだった。
起きたらすぐ図書室へ行こうと思っていたので、こんな夢を見ている暇はないのだ。
そしてあたしは無意味に飛び跳ねたり、ラジオ体操を踊ったりしていたが、いつまでたっても夢が終わらないので、布団に入って寝直すことにした。
……そして、正午の鐘が鳴る。あたしはがばりと跳ね起きる。寝過ごした! 変な夢のせいで!
予習は今夜するとして、殿下をお待たせする訳にはいかない。さっさと用意をして……と鏡の前に飛び出したあたしであったが、そこに映る自分の姿に目を疑った。そして深呼吸とともに姿勢を正す。胸の石に手を伸ばすと、『おちつけ』と心で繰り返した。
夢だ。あたしは長くてリアルな夢を見ているのだ。
しかし夢の中とはいえど、お茶会の約束は有効だ。テーブルの上には、昨夜選んだお茶の葉と、お菓子をつめた籠がのっている。
あたしは身だしなみを整え、最後に深く帽子を被った。……押さえつけられてきゅうくつだなんて、なんてリアルな夢だろう。
無駄に長い尻尾は足に巻きつけておいた。
約束の場所で待っていると、待ち人が取り巻きを引き連れて現れる。一人は荷物を運び、その他の数人は愉快そうにあたしと殿下とを見比べる。
殿下はすまなそうにしていた。
友達づきあいの一環なら仕方がない。それにその大荷物を殿下一人に任せて放っておけるほど、彼らの忠義は怠けていないハズだ。
そしてそのお届けものは、十中八九あたしのためである。
一冊一冊は薄いが、何せ数が多い。子供向けのかわいらしい絵本たち。全て取り出し終えると、取り巻きさんたちは殿下に挨拶し、退散しようとくるりと踵を返す。
その時、一陣の風が吹く。卓上の冊子がパラパラと音を立ててめくれ、あたしは慌ててそれを両手で抑えた。
疎かになった頭から、ふわりと巻き上がる帽子。圧力から逃れて、空へ向かってぴょこんと姿勢を正す感触。
ざわめく、外野。
もう、いじわるな風さんね。
おとといきやがれ!
「……」
あたしはその無駄に自己主張の激しい対の耳を衆目に晒しながら、その場にうずくまりたい気持ちでいっぱいになる。
こんな時マクジーンなら、「僕も付けようかな」とか言ってからかってくるだろうし、ベリダ兄様なら無言で引っ張って「取れない」とか実況するのかしら、それともあのゴミを見るようなクールな視線再来かな!
あたしはそんな妄想に自分で傷つきながら、それでも現状よりはよほどましだ! と、遅ればせながら耳を抑えた。
「殿下、これは、夢ですわ」
「夢……?」
そうだ、夢だ。でも、本当に嫌な夢。せっかく殿下と絵本やら竜やらの話題で盛り上がれるところだったのに……
そこではたと気づく。
あたしはもちろん、殿下は竜に憧れていらっしゃる。
そして今あたしの頭部から全方位の音を聞き逃すまいと勝手に動いてしまう耳と、ついうっかり裾からはみ出してスカートの裾を押し上げようとする尾っぽは、猫のもの…。
そして猫は、猫は!
ーー竜になりたかった蛇の、できそこない。
「殿下にだけは、お見せしたくなかった……」
そうだ、見られたくなかった。殿下にだけは、できそこないのあたしを晒したくなかったのに。
「……私にだけは?」
殿下は怖い顔をした。
そんなにか! そんなにあたしの姿がばっちいのか!
と絶望の淵に立つあたしに、殿下は予想外の質問をよこした。
「それなら、誰に見せたかったんだ?」
「それはもちろん、ベリダ兄様や、マクジーン……」
いや二人にだって見られたくはないが、まだマシである。
ていうかもう、殿下以外なら誰でも一緒だ。
「ベリダッド、ね」
「もう、見ないでください……」
あたしはキョロキョロと周囲を探す。そう、帽子、帽子を被ろう。そんなに遠くへは飛ばないハズ……あっ!
あたしはそれを見つけるなり、すぐに駆け寄った。尻尾がもつれてつまずきそうになるが、そこはさすが、殿下のお取り巻きの一人だ、帽子を持ったままでもあたしの体を支えてくれた。
「あっ、申し訳ありません」
「い、いや、いえ、その、お怪我は……」
「ございませんわ、おかげで助かりました」
そしてもし宜しければ、いえ宜しくなくとも、その今にも握りつぶしそうなあたしの帽子を返してくれると嬉しいです。
あたしの視線に気づいた青年は、赤い顔で差し出してくれた。あたしはお礼を言ってそれを受け取り……ああっ!
「……」
「……殿下」
あたしは伸ばした手を引っ込めると、突然上へさらわれた帽子と、その現象の犯人を見上げた。
犯人ーーユクシュル殿下はその高い鼻を上向けて得意げに笑った。
「夢なら構わないだろう。せっかくよく似合っているんだから」
それはつまり、
『フン、お前のようなできそこないには、『猫』の姿がお似合いだよ』
ってことですかあ!!?
く、屈辱……ッ!
あたしは普段なら絶対にしない態度を殿下に取った。キッと睨みあげたのである。
手打ちだ、手打ちだぞ、しかしここは夢の中、もういっそ死んだらこの悪夢も覚めるんじゃない!? と捨て鉢な心境にも至りかけていたあたしである。
しかし下々の者であるあたしの生意気な態度に、なぜか殿下は顔を赤らめてそっぽを向いた。そしてチラリとこちらに視線をよこし、手を伸ばしてきたかと思うと、ふにゃっと触られた。耳を。人じゃない方の耳を。ていうかあたし今耳四つあるの!? 大丈夫!? あたしの脳がパンクしたりしない!? まあ夢だからな……と忙しない頭のあたしをよそに、殿下は確かめるようにふっにゃふっにゃ耳をさすっていた。
あたしはもしや、あり得ないことではあるが、万に一つもないと思うが、と自分の中でさんざ断りをいれた挙句に口を開いた。
「殿下は猫が、お嫌いではない……?」
「普通だ」
「普通……」
耳が左右交互にぺったんぺったん潰されている。殿下がわしわし撫でるからである。楽しそうだ。あたしはされるがままに、その顔を眺めていたけれど、目が合うと思い出したように微笑まれた。
「だがこの『猫』は、愛らしいと、思う」
翌朝目を覚ましたあたしは、テーブルの上に夕べ用意した籠を認めると、棚をあさり、猫避けの香草を引っ張り出して枕元に吊るす。そしてその残りを籠の中に追加した。この間二分である。だから顔がいやに熱を持つのもそのせいだ。
何が猫だ、蛇だ。
あたしには『竜』がいるのだ。
頭上で揺れる香草の束を横目に、あたしはふて寝した。
ゆ、夢のつづきとか、全く期待してないから!
このあとやっぱり寝坊しかけました。