第六章「元弘」
世の動きは確実に激しさを増していった。しかし、高氏の周囲は緩やかなものであった。
元徳 二年(一三三〇年)、高氏と登子の間に一子が生まれている。二人が夫婦となってから二年が経っていた。
登子は足利の家にも少しずつ馴染んでいるようだったが、それでも北条氏の出身ということで、家中の中には複雑な思いを抱く者も少なくはないようだった。
皆公言することはないが、足利と北条の間が微妙なものであることは周知の事実である。登子からすれば、半ば人質に送られるような心地だったかもしれない。無論、それを口にすることはなく、普段は良き妻として振る舞っている。
二人の間に生まれた子は 千寿王 と名付けられた。登子が高氏の正室であるため、その子である千寿王が足利の嫡男という扱いになる。
千寿王より先に生まれているが、竹若丸は庶子とされた。例の寿康丸に至っては、高氏の子として扱われていない。
ただ、まだこの時代は江戸時代ほど家督相続法というものが確立されていない。嫡子と庶子の区別はあったが、それは厳密なものではなく、親の意向次第では立場がどう変わるかも分からなかった。
兄の死という明確な事情はあったものの、現当主である高氏も本来は庶子であった。にも関わらず、高氏の幼名は又太郎とある。もしこの名に清子や上杉氏の意向が関与していたなら、どこかでこの子を足利の跡継ぎに、という思いがあったのかもしれない。ただ、その辺りは推測の域を出ないのだが。
「これで安心した」
と言ったのは貞氏であった。
このとき五十八歳で、当時の感覚としてみればかなりの高齢であった。足利の家を継いだ高氏も当主として板についてきており、さらにその後を継ぐ孫の顔も見れたということで、生涯の重荷がふっと落ちたような気がしたのであろう。
元々足利の家自体が難しい立場にあり、ようやく引退して高義が当主になったかと思えば、その高義が急死するという不幸が起きた。己の家を守ることが武士にとってもっとも大事なことであるから、貞氏の生涯は気の休まる暇もなかったであろう。
「なんの、まだまだ父上がいなければ足利の家は上手くいきませぬ」
「それはお前がどうにかせい。一人で辛いと思うのであれば次郎と共に家を盛り立てよ」
高氏と次郎がいれば足利の家は大丈夫、と貞氏は考えているようだった。
このところ高氏は鎌倉の中でも交友関係を広げ、特に御家人たちからの信頼を集めつつあった。また、高時の元にも時折通い、北条の不興を買わないようにしている。登子と通じて執権の守時とも話す機会が増えた。
交友関係が広がれば、それだけいろいろな情報が入ってくる。それが高氏の狙いでもあった。
一方、次郎は足利氏内部のことに気を配っていた。
足利氏と言っても、現在は多くの支族を出しており、完全に一つにまとまっているわけではない。全国各地に領地がある大勢力のためか、一族をまとめるのも相応の苦労が伴う。
足利の支族で有名なのは、 斯波 氏、 畠山 氏、細川氏、今川氏、 吉良 氏などであろうか。
高氏はこうした一族を取りまとめる、いわば足利宗家の当主という立場にある。それを支える形で、次郎が奮闘している。
次郎は仕事熱心かつ何事にも公平で、常に真摯な態度を崩さないことから評判は非常によかった。
外を見据える高氏と、中を守る次郎という構図は、今のところ上手く働いている。
高氏は細々としたことを面倒臭がる悪癖があり、逆に次郎はやや視野が狭く、考え方が固い。そうした互いの欠点を補い合っているのが、今の形なのである。
「父上は最近、よう笑われるようになりましたな」
「当主としてするべきことはした。そう思えば、心も自然と晴れやかになる。見果てぬ夢がついに実現しなかったことだけが心残りではあるがな」
「夢、でございますか。それはどのような」
「気にするな。これはあくまでわしの夢。わしだけが抱いた夢だ。お前にはお前だけの夢があるであろう。お前はそれだけを追えば良い」
と言われたが、実のところ高氏に明確な夢や目標と言ったものはない。
世の中をもっと良いものにしたいとは考えているが、それは今の鎌倉の在り方に対する不満から出たものに過ぎず、また世の中を変えるだけの力も資格も自分にはなかった。
「私には、夢というものが分かりませぬ」
「それもまた、気にすることではない。夢というのは覚めてみなければ、それが夢だと気づかぬものよ」
ということは、貞氏はもう夢から覚めてしまったということなのか。
元弘 元年(一三三一年)、京の六波羅探題の元に 吉田定房 という公家がやって来た。
この人は後醍醐天皇の乳父であり、彼の親政で力を発揮した側近でもあった。
定房は六波羅探題にある情報を打ち明けた。後醍醐天皇がなおも幕府討伐をあきらめず、側近の日野俊基や僧の 文観 らと共に討幕計画を練っているというのである。
またもや後醍醐天皇の計画は事前に漏れたわけで、それだけ周囲の人には無謀な計画に見えたのであろう。
一度目のときは、計画に参加した夫を案じた妻が密告したわけだが、二度目の吉田定房も似たようなものだったらしく、後にこの人は後醍醐によって再び重用されるようになる。定房にとってこの密告は、後醍醐への裏切りではなく、彼の身を案じてのことだったのであろう。
ともあれ、朝廷を監視するという役割を持つ六波羅探題はこのときも素早く動いた。
文観と 円観 は逮捕された後、配流の刑に処された。この二人は太平記で強烈な存在感を放ち、幕府討伐の祈祷を行う怪僧として描かれており、後醍醐からの信頼は厚かったという。
また、これで二度目の捕縛となる"首謀者"日野俊基は鎌倉へ送られてきた。今度こそ処刑されるであろう、との声が高氏の周りでも上がっている。
「日野というのは、悲しいものだな」
いつか高時が言っていたようなことを、今は高氏が次郎に語っていた。
言いつつ、高氏の脳裏には、いつかこの屋敷を訪れた山伏の姿が浮かんでいた。あれが俊基だったのでは、という埒もない思いがある。
高氏は俊基の顔を知る機会がなかった。尋問などは長崎親子や北条一族の者が行ったためである。俊基は正中のときに流された資朝と共に討幕計画にかかわり、各地の反北条と見られる武士を説いて回っていた、という噂がある。そのため北条一族は、あまり他の武士たちに俊基を会わせたくなかったのかもしれない。
日野氏は公家としての家格はそう高い方ではなく、後醍醐天皇による重用は異例の人事であったと言っていい。それだけ俊基たちが優秀だったのか、単に後醍醐に気に入られただけなのかはよく分からないが、少なくとも無能ではなかったはずである。おそらくは有能だったのだろう。
自分の価値を認めてくれた後醍醐の悲願を果たすために、両名は懸命に動いた。
これも一つの忠節の形なのか。
「時に兄上。近頃は得宗殿の元には行かれませぬのか?」
「用があれば行く。しかし、なぜそのようなことを聞く」
次郎が北条家のことを持ち出すのは珍しかった。高氏が訝しげに問うと、次郎は戸惑いを浮かべながら、
「近頃、得宗殿と内管領の間が険悪なものになり、殿中ただならぬ様子だと聞きましたので」
「ああ、それか」
そのことならば高氏も知っている。と言うよりも、執権と内管領の間に確執があることは前々から承知していた。高時に呼ばれることが多かったので、その辺りの雰囲気は嫌でも伝わるというものである。
ただ、最近になってそれが表面化してきたのには訳がある。
「長崎の親子は朝廷に対して断固たる措置を取るべきと主張し、得宗殿はそれに反対なされたのだ」
長崎円喜、高資親子の主張は非常に明快である。
後醍醐天皇の気質を考えれば、ここで生温い措置をすることは下策。少なくとも後醍醐を天皇の座から引きずり落とさねば、三度討幕計画を企てるであろう、という。
確かにその通りだ、と高氏も思う。
一方、高時は穏便に済ませようと考えている。
二度も計画を事前に防げたのだから、それで良いではないか、というのがその根拠であった。
ただ、口にはしないものの、高時の心には別の理由が潜んでいる。
それは、天皇家に対する畏怖の念だった。
以下、少し余談。
鎌倉時代に入り、武家政権が力を増して武士の存在が大きくなった。しかし武士の世と言い切れるほど、武士が絶対だったわけではなく、また朝廷が無力だったわけでもない。
高氏のこの時期より百年ほど前、鎌倉前期に起きた 承久 の乱で、幕府は朝廷に勝利した。
以降鎌倉の発言力は大きくなり、六波羅探題を設置するなどして朝廷の力を封じ込めたため、武士の世が来たと見てしまいがちになる。しかし鎌倉は、主導権こそ握ったものの朝廷への関与は消極的なままであったし、相変わらず京から親王を迎えて将軍とするなど、勝者にしては低姿勢であった。また、全国の土地も武士が完全に掌握していたわけではなく、朝廷の所領も多く残っていた。
つまり、鎌倉時代というのは、武士の勃興と朝廷の衰退という様相こそあるものの、両者が比較的対等な立場で共存していた時代だった、と言える。
この辺り、鎌倉と朝廷の関係がどのようなものだったかはいくつか見方があるが、決してどちらかがどちらかを完全に掌握していたわけではない。
そうしたこともあって、鎌倉を支配してきた得宗家の当主であっても、天皇家に対する畏怖の念は持ち合わせていた。
当時はまだ古くからの宗教観が人々の中に残っていたから、天皇という神秘的な存在に厳しい措置を取るということは、非常に勇気を必要としたのかもしれない。
ともかく、再度発覚した討幕計画への措置を巡り、高時と長崎親子は意見を違えた。
そうなれば、専横著しい長崎に対して前々から抱いていた高時の感情が爆発したとしても無理はない。
数日後、高氏の屋敷に道誉が飛び込んできた。珍しく顔色が悪く、肩を落としている。
「得宗殿が無茶をされた。おかげでわしも危ないところであったわ」
「その無茶とは?」
「内管領の暗殺を企てたのよ」
道誉の言葉に、高氏は目を丸くした。
得宗と内管領は北条を支える二柱である。その間に、とうとう亀裂が走ったということなのか。
「それで、得宗殿は?」
「内管領に弁解して事なきを得た。わしも必死に弁解してようやく疑いを晴らせたという有様よ」
しかし、弁解をしなかった側近たちは何人か処断されたという。
「得宗殿も存外頼りにならぬ。保身のためなら側近であっても切り捨てなさる」
「そもそも、妙な話ではありますな。主君が臣を暗殺しようとし、それを弁解するとは」
全く、主従関係が乱れ切っていると言わざるを得ない。
「しかし得宗殿はこれで折れるしかなくなった。鎌倉は朝廷に対し強硬な態度で挑むことになる」
「道誉殿は、どう思われますか?」
「まず鎌倉が勝つであろう」
道誉の観測は正しいだろう。
帝の戦力は、正中のときと変わらない。むしろ日野資朝、俊基といった討幕における側近を失った分、心許ないものになったと言える。
「今、帝の元に集う武士はさほどおらぬ、とわしは思う。集うとすれば、もっと別の者たちであろう」
「悪党、ですか」
高氏の言葉に、道誉は無表情で頷いた。危機的状況を脱してきたばかりだからか、いつものような余裕が見えない。
「悪党をどう見る、足利殿?」
「一つ一つはさして恐ろしくはありませぬ。ただ、彼らは草木のように、どこにでもいる。倒しても倒しても尽きることがありませぬ」
世を治めるために誰かが動かねば、悪党はいくらでも出てくるであろう。今のように力で押さえつけているだけでは、どうにも出来ない相手だった。
悪党は領主から自分たちの利益を守るのが目的だから、鎌倉も朝廷も同じようなもの、と考えているかもしれない。しかし、後醍醐天皇がその辺りを理解して、悪党に対する手を打てばどうなるか。
「鎌倉は悪党には勝てましょう。されど、いつまで勝ち続ければ良いのか、という気もいたします」