第五章「婚儀」
安藤氏の乱は 嘉暦 三年(一三二八年)になって、ようやく終結を迎えた。
なんと長い騒乱であっただろう。鎌倉が本腰を入れてから、三年もかかっているのである。
この騒乱がなかなか解決しなかったのは、鎌倉が無能であったことだけでなく、鎌倉への反対派が勢いづいてきたことも原因と言える。
鎌倉に反旗を翻した安藤季長は早くに捕えられたが、季長派の一族が頑強に抵抗を続けた。それに呼応するかのように、鎌倉への不満分子も動き始めた。
武士ではないが、農民とも言えない。そうした新興勢力は『悪党』と呼ばれた。この場合の悪と言うのは、鎌倉という既存の秩序への敵対者、という意味であろうか。
津軽でもそうだが、それ以外の地でも悪党の蜂起がよく起こるようになった。
ただし、それらはいずれも小規模なもので、鎌倉に致命傷を与えるものではなかった。
それでも鎌倉の威信は、確実に落ちてきている。
「悪党の戦はどのようなものであった、太郎」
高氏は鎌倉の自邸で、高師直と向き合っていた。
師直は季長の郎党が奥州で蜂起した際に従軍し、その後も何度か悪党の鎮圧に出向いている。悪党の存在を無視出来なくなってきたと考えた高氏がそうさせたのである。
「やはり、我ら武士とは異なりまするな。地形を良く活かします」
鎌倉の武士は騎馬と徒で編成され、原野戦を得意とする。大軍勢を用いて一斉に相手を押し込むような戦が多い。
それに対し、悪党は少人数ゆえに奇襲をしかけてくることが多く、不利と見るや即座に引き上げる。攻めるときも守るときも行動は迅速で、森林や山岳などといった地形をよく活かす。森や山に逃げ込まれると、鎌倉の騎馬軍団はかえって動きにくくなるため、後を追うことが難しい。特に奥州は関東と比べて原野が少なく山岳の多い地域であるため、季長の郎党の鎮圧には手を焼いたという。
さらに厄介なのは食糧を狙う悪党たちだった。大軍勢の前には姿を見せず、ただ物資だけを奪っていく。そういう手合いには対処が難しく、長崎高資も苛立っているようだった。
……鎌倉の愚かさよ。
鎌倉を動かしている人間には、事の本質が見えていない。悪党をどう討伐するか、ということばかりを気にかけており、なぜそうした輩が現れ始めたのかということをまるで考えようとはしていない。
……これでは帝に動けと言っているようなものだな。
会ったこともないが、高氏には後醍醐が笑みを浮かべている様がありありと想像出来た。
ある日、高氏は北条高時に呼び出された。おそらく此度も縁談のことであろう。
これまでは固辞してきたが、それもそろそろ限界かもしれない。
ところで、少し前のことになるが、北条高時は執権職を辞して出家している。出家したのは嘉暦元年のことであり、安藤氏の問題はまだ解決していなかった。執権職を辞した理由は病弱ゆえにとされているが、はたしてそれだけなのかどうか。
「赤橋の娘がおぬしのことを好いているそうな」
高時の顔色は幾分ましなものになっていた。やはり執権職というものが重荷になっていたのだろう。高氏も足利の当主という立場上、高時の辛さというものが多少は分かる気がした。
「赤橋殿と申されますと、御妹君でございますか」
赤橋は北条氏の支流の家柄であり、鎌倉内では比較的穏健派と言える。先代の 久時 は六波羅探題や評定衆などを歴任した重鎮であり、現当主の 守時 は今の執権である。
以下は余談だが、高時が出家した後、彼が後継者を指名しなかったことから、執権職を巡って鎌倉内で騒動が起きた。
高時の一子を推したのは長崎高資とその父である 円喜 。それに対抗したのは高時の弟である北条 泰家 と安達氏であるという。
長崎親子は霜月騒動の平頼綱と同族であり、内管領であることも共通しており、対する安達氏は安達泰盛の同族であるから、この対立はなにやら因縁めいていて面白い。
高時の子はまだ幼いことから、当人の意志はさほど重視されていなかったように思われる。それを執権に据えようとしたのだから、長崎親子は本格的に鎌倉の主導権を握ろうとしたのではないか。
泰家一派はそれに対抗する形で名乗りを上げた得宗家代表であり、この騒動は北条得宗家と長崎家の対立という見方も出来そうではある。
さすがに高時の子は幼すぎて無理があったのか、長崎親子は高時の子が成人するまでの代理のような形で、北条の支流である金沢 貞顕 を執権とした。
だが泰家一派がこれに不満を唱えて圧力をかけたらしく、金沢貞顕はわずか十日ほどで辞任してしまったという。その後に出てきたのが赤橋守時(北条守時とも呼ばれる)だった。
詳しい経緯は分からないが、彼が執権に就任したことでこの騒動はとりあえず落ち着いている。赤橋の家は長崎派にも泰家派にも属さず、なおかつさほど強力な力を持っていなかったのだと思われる。そうでなければ、この騒動は落ち着かないだろう。
長崎親子か泰家がこの前後に没落しているならともかく、両者はこの後も鎌倉滅亡まで健在だったようなのである。ならば、赤橋守時という程よい飾りを置くことで、両者が和解したのではないか。
閑話休題。
ともあれ、赤橋守時の妹と婚儀を結ぶことは、決して悪い話ではない、と高氏は思った。執権と言っても得宗ではないし、内管領の存在もあるから、守時は鎌倉の実権などほとんど握ってはいなかったであろう。
逆に言えば得宗や内管領の派閥に属したと見られることもさほどなく、余計な面倒事を抱え込まずに済みそうだ、とも考えられる。
鎌倉は発足初期からその傾向があったが、とにかく内部抗争が多い組織であり、それによって没落した家は数多い。下手に鎌倉内で権力を望もうとすれば、それだけ没落する危険性も高くなるのである。足利の家を守るという意識を持つ高氏は、あまり鎌倉の中枢に近づきたいとは思わなかった。
それに、個人的にも赤橋守時の妹、 登子 のことは好いていた。北条一族の出身という点がやや惜しいが、芯が強く、あまり贅沢をしないという点が良い。
赤橋家は北条氏と言っても支流であり、しかも先代の久時は割合早くに亡くなっていたことから、守時、登子の兄妹は他の一族よりも苦労というものを知っていた。長崎親子や北条得宗家といった鎌倉の権力者に苦々しい感情を持っていただけに、高氏は赤橋の兄妹には、それなりに親しみを持っている。
それに、そういった諸々の事情を抜きにしても、登子から好かれているというのは純粋に嬉しかった。
人に好かれるということがどうにも嬉しい性質らしい。それが顔にも出ていたのか、高時はおかしそうに笑い声をあげた。
「此度の縁談、喜んでお受け致したく思います」
「私は反対です」
登子との一件を聞き、まず次郎が声を上げた。貞氏や清子は黙っている。
「駄目か」
高氏はのんきに首を捻ってみせたが、内心では困っていた。次郎は一度こうだと言ったらなかなか引かない性格であり、加えて根っからの北条嫌いでもある。
北条を疎ましく思っているのは高氏も同じだったが、その全ての人間が駄目だとは考えていない。高時は有能ではないが悪人ではないだろうし、登子と守時は篤実な人柄である。
次郎には、そういった柔軟な考え方がないらしい。良くも悪くも頭が固く、北条の一族であれば皆嫌いなようだった。
「ならばお前も一度会ってみろ。あれは良き娘だぞ」
「又太郎、お前は本当にそれで良いのですか?」
清子も心配そうな顔をしている。現執権の妹、という点が不安を駆り立てるらしい。
「私は良き話だと思っています。父上、いかがでしょう」
「今の当主はお前だ。差し出がましいことを言うつもりはない」
好きにしろ、と暗に貞氏は言っているようだった。もっとも、足利の家にとって良くないと思ったのであれば、貞氏は反対を表明するはずである。ということは、貞氏もこの縁談は悪いものではない、と考えているのかもしれない。
「しかし、あの子どもたちはいかがいたしましょう」
清子が言っているのは、高氏の子どもたちのことであった。
この時点で二人いる。
そのうちの片方、竹若丸は足利氏の支流である加古(加子?)六郎の娘が母であるため、庶子として育てれば問題はないであろう。
問題はもう一人、寿康丸であった。
こちらは農家の娘に産ませた子であり、しかも母親は既にない。今は家臣に事情を隠して預けており、そのことを知っているのは極一部の者だけだった。
この時代は江戸期ほど身分制度がはっきりしていたわけではない。しかし足利ともなれば相当の名門である。卑賎の身の娘に産ませた子を置けば、家中の者が反発する可能性もあった。
「竹若は庶子として扱います。寿康丸は、今は、まだ」
寿康丸のことに関して、高氏は弱気だった。
なぜかは分からない。ただ、今でも寿康丸の母のことは夢に見る。そして、その夢から覚める度に、どうしようもなく気分が沈む。
「それで次郎、どうだ?」
「父上や母上が反対なさらぬのであれば、是非もありますまい」
次郎は渋々といった様子で頷いた。これから先、登子と次郎が揉め事を起こさねば良いが、と高氏はため息をついた。
高氏と登子の婚儀は、当時にしてみれば盛大な形で執り行われた。
実権はほとんど持たないとは言え、登子の兄は鎌倉の執権であり、対する高氏は御家人の大勢力の当主である。加えて、この縁談を持ちかけたのが得宗の主である高時だった。鎌倉の要人たちも多くが参加した。
「なにやら恥ずかしい気がいたします」
大勢の人々の中で、登子ははにかんで言った。
高氏よりも少し年下で、このときは二十代前半だった。当時としては遅めの結婚だったが、登子はまだどこか子供っぽさが残っている。
「しかし、わしに嫁ぐということは、何かと苦労するかもしれぬが」
「このような場で何を仰せられます。その覚悟なくして、貴方様に嫁ぐはずもないでしょう」
朗らかに語る登子に動揺は見られない。これで意外と肝が据わっているのだろう。彼女のそういうところも、高氏は好きだった。
次郎は盃を傾けながら、時折こちらに視線を向けてきた。北条一族も多く参席しているからか、どことなく居心地が悪そうだった。高氏と目が合うと、何か問いただしたそうな表情を浮かべる。それを、高氏は笑って流した。こういう目出度い場で臭い顔をしてもつまらなくなるだけではないか。
途中、ふと厠へ行きたくなり、用を足して外に出ると、佐々木高氏が待ち構えていた。
ちなみにこの男は高時の側近ということで、彼と共に出家し、今では道誉と号している。佐々木道誉としての名が有名なので、以後はこの男を道誉と記したい。
「これは佐々木殿。このような場でいかがなされた?」
「道誉で構いませぬぞ。自分でも気に入っておりますでな」
二人は並んで歩きだした。
道誉は高時の側近ということで、今回の婚礼の儀に関してよく動いてくれたらしい。そのことで高氏が礼を言うと、道誉は闊達な笑い声をあげた。
「何、当然のことをしたまで。なにせ、足利殿の嫁御にと、赤橋殿の妹君を推したのはわしでござるからのう」
それは初耳だった。
確かに、これまで高時が勧めてきた女性と登子とでは、何かが違っていたように思える。だからこそ高氏もこの縁談を受けたのだが、それが道誉の意見によるものだとすると、なにやら自分という人間が見透かされたようで恥ずかしい気がした。
道誉は高時と守時の間に立つことが何度かあり、それが縁となって登子とも知り合ったのだという。登子の話を何度か聞くうちに、道誉は彼女の思い人が高氏であると気づいた。それで高時に推してみたのだ、という。
「これは、また改めて礼を言わねばなりませぬかな」
「いや結構。これはただのお節介というもの。お気になさるな」
道誉はそう言って、うっすらとした顎鬚を撫でた。
その真意は、やはりよく分からない。ただ、嫌な感じがしなかったのは、道誉の人柄によるものか、高氏の性格ゆえのものか。