第二章「両統」
文保二年(一三一八年)。
この日、足利の館に来客があった。
母に呼ばれて出向いてみると、そこにはほっそりとした顔つきの男が座っている。
「おお、そなたが又太郎殿か。なるほど、立派なものだ」
又太郎は十四歳。まだその顔には幼さが残っているが、徐々に身体つきは男らしくなってきている。同年代の男子と比べて特別立派な体格ではなかったが、姿勢が良いのか妙な風格があった。
「京から参られた御客様です」
母に言われ、又太郎はゆったりと頭を下げた。礼儀作法はさほど熱心に習わなかったので、聞かれたことだけに答えることにした。
「そなたはしっかりと考えて答えておるようだな」
しばらくの問答の後、男は柔らかな笑みを浮かべて満足げに頷いた。
……母上の影響だろうな。
又太郎の母は、貞氏の正室ではない。しかし、身分の低い女性でもなかった。
母は上杉 清子 という。
彼女の祖父は 勧修寺 重房 といって、朝廷に仕える公家であった。鎌倉では親王を将軍とする慣習が出来つつあり、重房は親王と共に鎌倉へ下向したと言われている。それ以降上杉姓を名乗るようになり、足利氏と親交を結び、仕えるようになったらしい。
そうした経歴もあってか、清子は京にもいくらかの知人がいる。
この男もその一人に違いなく、であれば間違いなく公家であろう。
……なるほど、公家とはこういうものか。
又太郎は会話の最中、じっと相手を観察していた。
これまで見たことのない種類の人間だった。
又太郎の周囲にいるのは一本気で頑固、怒ると拳を振り上げそうな者たちが多い。しかしこの男は柔軟で掴み所がなく、喧嘩をすれば又太郎にも負けそうなほど華奢である。その代わり、会話をしていると妙に腹が痛くなった。まるで見えない槍で突付かれているような薄気味悪さである。こういった感覚は、これまで感じたことがない。
母に促されて部屋から出たときは、生き返ったような気がした。
「しかし、最後まで名乗らなかったな」
供の人間がいる様子もない。だとすれば、かなり高い位の人物か、取るに足らない下級公家のどちらかであろう。
下級公家なら道楽で旅をしているのかもしれない。
そうでなかった場合、今の対面には何か特別な意味がありそうだった。
「東国の中でも、ここは京と似たものを感じさせられる」
翌日、男は館の庭を歩きながら言った。側には又太郎の他、誰もいない。
「当家と京には 誼 がありますので」
現在は、又太郎の叔父に当たる 憲房 がその誼となっている。
憲房は清子の兄弟で、上杉氏の当主である。祖父の代から続く人脈を利用して、足利まで京の風を運んでくるのが役目と言っていい。
この上杉氏のおかげで、足利氏は北関東にいても京の情勢を詳しく知ることが出来る。無論、三河や丹波など全国各地に所領があるから、噂話を聞くぐらいなら上杉がいなくても問題はない。しかし京、それも朝廷の人間と接点を持つことは、より生々しい都を感じることが出来るということである。
「京では先頃、新たな帝が即位されたとか」
又太郎は先日父から聞かされたことを思い出して言った。
この新しい帝とは、後に又太郎と共に歴史上大きな役割を果たす、 後醍醐 天皇のことである。即位したこの年、三十一歳。又太郎よりも十七程年長であった。
又太郎が興味を持ったのは、帝その人のことではない。即位してまだ間もないこの頃、後醍醐天皇に関する風聞は足利の地には届いていなかった。ただ、天皇家は内部で揉めているという。又太郎の関心はそこにあった。
「朝廷は今、どのようになっているのでしょうか」
「と言うと」
「二つに分かれていると聞いております」
又太郎がそう言うと、男はにわかに目を細くした。
「気になるかな」
「はい。なぜそうなってしまったのか、興味があります」
又太郎は素直に答えた。
京の情勢を知ってどうにかしよう、という意志などはない。ただ、外の世界が気になる。
男は口元に笑みを浮かべ、
「今より少し昔、 後嵯峨 帝の世のことだ」
後嵯峨上皇には 後深草 天皇と亀山天皇という子がいた。上皇は兄の後深草よりも弟の亀山を寵愛し、弟に譲位するよう後深草に促したとされている。これで済めば良かったのだが、上皇はさらに、後深草の子ではなく亀山の子を皇太子とした。
後深草にしてみれば、嫡流でありながら親子二代、皇位から遠ざけられたような形になる。このことで後深草の系統と亀山の系統の対立が始まり、又太郎の時代にあっても尚それが続いていた。
後深草の血筋を引く方は 持明院統 、亀山の血筋を引く方は 大覚寺統 という。
鎌倉幕府の判断も合わせて、鎌倉末期の頃は両統が交互に皇位に就いていた。先の帝である花園天皇は持明院統、今の帝である後醍醐天皇は大覚寺統、といった具合である。
「朝廷は帝や公卿たちの感情によって動いているのだ」
その点鎌倉よりも酷い、と男は付け加えた。
又太郎は京へ行ったことがない。直接目にしたことがないために、又太郎にとっての朝廷とは、心の中にだけ存在する神秘的なものであった。その神秘が、急に泥臭いものになってしまったような気がした。
「近々、何事かが起こりそうな気がする。私としては、それが気がかりだ」
男は物憂げに呟いた。
確かに、二つの系統の天皇を交互に出し続けていくというのは無理がある。互いに出し抜かれることを警戒し、朝廷は緊張に包まれていることだろう。そんな状態がずっと続くはずもない。
……最悪、朝廷が分裂して大乱が起きるのではないか。
又太郎はそう思ったが、男の方は違うことを考えていたらしい。
「鎌倉殿次第では、丸く収まるかもしれぬが」
朝廷内での政治抗争の主役は、無論両統の皇族たちである。次いでそれぞれの派に組する公卿たちがいた。しかし、その両者の均衡を保っていたのは、鎌倉の北条氏と言っていい。
両統が交互に即位するきっかけを作ったのは鎌倉であり、以後も朝廷はこの問題で揉めたとき、度々鎌倉の判断を用いた。鎌倉の本業は武士同士の間で起きる揉め事の裁断役であったから、それと似たような役割を朝廷からも期待されていたのかもしれない。
要するに北条氏の支配を成り立たせていたのは、軍事力や所領の広さ、そしてこうした裁判所としての性格であった。しかし、当代の鎌倉殿である北条相模守高時は、実権を内管領長崎高資に握られている。高時は執権就任からさほど経っていないため評判がよく分からないが、高資に関しては皆快く思っていなかった。
高資や高時から人心が離れ、その裁断を人々が認めなくなれば、皇族同士の抗争を抑えられるものはいない。男はそのことを思い、不安を感じているようだった。
……なるほど、北条は天秤のようなものか。
朝廷や多くの武家たちがぶら下がる天秤、それが北条氏の正体であろう。
この国の中心ではあるが、頂点ではない。
そして、その天秤は老朽化して壊れかけている。
……そうなれば、落ちたものはどうなるのだろう。
又太郎は底なしの池に落ちる自分を想像して、大きく身を震わせた。
「もし京で何事かが起これば、関東も無関係ではいられまい。足利氏も難しい立場になるかもしれぬ」
「当家は鎌倉に従うだけでございます」
「京では、そう単純に見てはおらん。血筋で言えば北条よりも足利が上。にも関わらず北条に幕府の実権を握られて、足利は快く思っていない。そのように見る者もいる」
又太郎は段々、この男と話しているのが恐くなってきた。何かとてつもない秘事を打ち明けられそうな気がしたのである。
しかし、緊張した又太郎を見て、男は頭を振った。
「別に又太朗殿によからぬことを吹き込もうとしているわけではない。ただ今後、そのような者がおぬしの前に現れることもあるであろう、と忠告しただけだ」
「私は兄を支えるだけの男です」
だから、自分はそのような厄介ごとに巻き込まれたくはない。又太郎はそう思ったのだが、
「いかん。自分がどのような状況にいようと、進退を見誤らぬよう気をつけなければならぬ。おぬしに限らず、今の世は皆そうでなければ生き延びれぬ」
男は厳しく諭すように言う。
「公卿と武士が分かれて長い年月が経ち、今度はそれぞれがまとまりを失くしつつある。国は荒れよう。それを収められる者が私には思い浮かばぬ。そのことがなにより恐ろしい」