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荒波の将軍  作者: 夕月日暮
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第二十一章「夢の人」

 建武元年の時は、緩やかに流れていた。

 激動の観があった前年に比べると、尊氏の周囲も落ち着きつつある。しかし、見えない形で大塔宮の包囲は完成しつつあった。宮にとって、この年は地獄になるだろう、と尊氏は憂鬱な息を吐いた。

 直義からの手紙は、月に二度か三度ほど送られてくる。鎌倉の統治はあまり上手くいっていないようだった。直義の能力を考えれば、上手くはずなのだ。

 落ち着きつつあるのは、朝廷や自分のような、人の上に立つ者たちの周囲だけなのかもしれない。時折遠乗りに出かけて民の姿を目にすることがある。戦がない分窮迫はしていないようだが、何か落ち着いていないように見えた。

「欲が噴き出してきたかな」

 尊氏はぽつりと呟いた。隣にいるのは正成である。

「欲、とは?」

「これまでは、すべて北条が独占していた。今、その北条はなく、ただその土地や利権だけが宙に浮いている。そして、皆がそれを欲している。武士や公家だけではなく、民の間でもそのような兆しが見えた」

「それは、勝者である朝廷のものでしょう」

「朝廷にもいろいろある。例えば私は、北条との戦においては朝廷に属していた。しかし利権に関しては、明らかに朝廷と違う立場にある」

「帝は、すべてが己のものだと考えておられます。私権を主張する者ばかりの世上において、その意志は決して受け入れられないだろう、と思います」

「それでも、楠木殿は帝に忠節を尽くすつもりなのだろう」

「このような世上だからこそ、帝の意志は貴重なのです。すべてが帝のもの、ということになれば、戦も起きたりしなくなるでしょう」

 それがこの男の本質だ、と尊氏は最近になって分かって来た。田畑を耕し、妻子や一族郎党と共に、穏やかに暮らす。それを望んでいるからこそ、正成はやつれてきているのだろう。公家や武家だけならまだしも、庶民の間にも争いの風潮が波及している。それをこの男は実感し、誰よりも憂いているはずだ。

 尊王の心はあるし、帝の意志も尊重している。忠誠心も篤い。しかし、それは盲目的なものではない。帝の理想が実現されるとき、自分の望むものを得られる。争いのない世。皆が皆、己の欲望のために争うのであれば、そこに帝という楔を打ち込む。それで、騒乱を鎮める。そういう考えがあるからこその、忠誠心なのだろう。

 もし尊氏が後醍醐天皇と本格的に争うことになれば、彼は決してこちらの味方にはなってくれないだろう。尊氏はあくまで武士だ。帝という楔を打ち込まれてはたまらない。残念なことだが、自分と正成の道は決して重なることはないのだ。

 それでも、尊氏はこうして度々正成を招くようになった。近頃は、彼も朝廷に出仕することがあまりなくなってきている。理由は分からない。ただ、尊氏の招きを拒んだことは一度もない。

「今の状態は、あと一年か二年続けば良い、というところでしょうか」

「今の状態とは?」

「大塔宮のことです」

 正成の口調は穏やかそのものだった。これが宗玄や道誉なら、尊氏の心もざわついただろう。だが、今の尊氏は動揺などしていない。

「宿業としか、言い様がない。宮を除かなければ、わしに先はない」

「おそらく、宮も同じように思っておられるのでしょう。確かに、宿業ですな」

「わしは、一人の男としてならば、あの宮のことが嫌いではない。そのことに気づいたのは、ここしばらくのことだ」

 誰に言っても、信じてはもらえないだろう。多くの人々にとって、自分も、大塔宮も個人ではなく、ある種の象徴なのだ。

 だが、正成ならば分かってくれる。自分と大塔宮の両方を、一人の人間として見てくれているのは、正成だけなのではないか。

「ずっと、この言葉を誰かに伝えようと思っていた。楠木殿ならば理解してくれる。近頃何度も呼びつけてしまったのは、そのためなのかもしれない」

「足利殿の言葉は、預からせて頂きます」

「預かるだけか」

「私に向けられたものではありませんので。必ず、聴くべき御方の元に届けます」

 正成に話したのは正解だった。気づいたとき、尊氏は正成に頭を下げていた。身分の上下や立場の違いからすると、ありえないことだ。しかし、そうするべきだと思った。

「私は、正直なところ、足利殿の陣営に加わる誘いでもあるのかと思っておりました」

「誘いをかけたところで、楠木殿は頷かれないであろう」

「確かに。足利殿の進む道は、私のような小さき者には生きづらいものでしょうから」

「わしは足利の棟梁。引いては武士の棟梁だ。それ以外の生き方は出来ぬ」

「帝が足利の勢力を除こうとされるのであれば、抗うしかない。それは分かります。対抗するためには多くの武士を糾合せねばならない、ということも」

 それでも、自分は帝を選ぶ。言外に、正成はそう言っていた。

「近いうちに、私は一度河内に帰ろうと思っています」

「そうか。楠木殿はそうした方が良いと、わしも漠然と思っていた」

「次に会うのは、いつになるか分かりません」

「そうか」

 互いに、それ以上は何も言わなかった。

 最後まで、正成の眼は澄んだままだった。彼の眼に、自分はどのように映っていたのだろうか。そんなことを考えた。


 朝廷には際限なく訴訟問題が持ち込まれた。

 所領問題は悪化の一途をたどっている。裁決が覆されることは日常茶飯事となり、納得せぬ者、あるいはこの混乱の中での横領を目論む者などが、記録所や雑訴決断所に毎日、雪崩のように駈け込んでいるという。

 ……欲望が収まらぬ。

 という尊氏の呟きの原因は、これだった。

 さすがに朝廷もこの事態を重く見たのか、様々な打開策を講じている。しかし一向に効き目はない。土地というものに対する認識の差のせいだ、と尊氏は思っている。

 武士や庶民にとって、土地とは自分や一族郎党が生きていく上で不可欠なものだ。命と同等、あるいはそれ以上に大切なものなのである。

 その土地の所有権を、今の新政権はいたずらに二転三転させている。特に鎌倉時代以降に土地を得た一族は不安であった。新政権は、鎌倉政権が認めた土地の所有権を否定するからである。そういう不安を抱えている者たちの数は決して少なくなかった。尊氏の元には、そういう者たちが直接尋ねに来たり、書状を送ってきたりする。

「費用が足りぬから土地を守れなかった、とあるな。馬鹿な話だと思わぬか、太郎」

「左様。仮に公家衆に賄賂を渡して土地を守れたとしても、いつまた失うか分かりませぬからな。そうなると、ずっと賄賂を渡し続けなくてはいけなくなる」

「逆に考えれば、賄賂や公家衆との誼さえあれば、いくらでも土地を得られる機会、というわけだ。そういう輩も、また非常に多い」

「名和や菊池などが良い例でしょうな」

「名和殿や菊池殿は、元弘の折に朝廷軍として戦っている。恩賞を賜るのは当然だろう。わしが気に入らんのは、そのとき何もしていなかった輩が、今こそこそと他人の土地を掠め取ろうとしていること、それを容認している公家衆たちの態度だ」

 そういう風潮を生みだしたのは、間違いなく新政権だ。雑訴決断所や記録所といった機関がしっかりしていれば。土地の所有権が誰にあるのかはっきりさせていれば。そう思ったところで、どうにもならない。

 自分がそういう現状に不満を抱いている。今は、内外にそれを分からせておけばいい。

「ところで、大塔宮の件だが」

「証拠はなかなか掴めませぬな。それどころか、近頃は殿を狙っているようにも見えませぬ。さすがに諦めたのかもしれませぬ」

「近頃は、どうなさっているのだ?」

「都の郊外におられることが多いようです。無頼の徒を引き連れておりますが、それは元弘の折に宮と共に戦った連中ではありませぬな」

 元弘の戦のとき、大塔宮は畿内周辺の中小規模の土豪たちを引き連れていた。征夷大将軍に就任したときも、そうした者たちが側にいた。だが、今はもういない。大塔宮の先行きが暗いことを悟り、離れていったのだろう。

 将軍でなくなり、信頼していた者たちも去り、今の大塔宮はただの親王となった。そして、親王として考えた場合、彼はあまり良い立場にあるとは言えない。朝廷内にも、阿野廉子という政敵がいるのだ。孤立無援、とも言える。

「北畠卿と時折手紙のやり取りをしていたようでもありますが、それもここ二月程は途絶えております」

「北畠か。陸奥は大分落ち着いたと聞くが」

 陸奥には北条の所領も多く、その残党がまだ力を持っていた。しかし宗玄と顕家の親子は、見事な手腕でそれらを掃討し、陸奥地方をまとめつつあるという。

「確かに放っておけば、鎌倉にいる御舎弟や千寿王様にとって、厄介な相手となりましょうな。ただ、大塔宮様の件に関していえば問題はないでしょう。陸奥は遠すぎます」

「他に大塔宮を助けそうな者はおらぬのか」

「いるとすれば、赤松円心でしょう」

 円心。あの、仏像のような坊主か、と尊氏はその顔を思い出していた。そういえば、元弘の折から会っていない。聞いた話では、播磨守護職を解かれるなど、新政権では不遇の扱いを受けているという。戦功の大きさからすると、信じられない話だ。正成も似たような扱いを受けているが、円心の方が帝からの信任が薄い。

 場合によっては、こちら側に引き込められるかもしれない。

「太郎。赤松殿に書状を出せ。内密にだ」

「はい」

 尊氏の意を察したのだろう。師直は手短に頷き、足早に出て行った。


 円心は変わっていなかった。一目見てそれが分かり、尊氏はどこかで安堵した。

「変わりましたな、足利殿」

 開口一番、円心はそう言った。相変わらず淡々とした口調である。

「状況が変わり、立場も変わる。そしてわしは、常に自分の立場を考え続けなければならぬのだ、円心殿」

「でしょうな。大塔宮も変わられた。正成殿や私は変わっていない。そういうことなのでしょう」

「その、大塔宮のことなのだが」

「分かります。そろそろ、落とすつもりなのでしょう」

 ある程度京の政情を見ている者なら、皆分かっていることだ。

「円心殿は大塔宮と親しかったと聞く。そのせいで、不遇な扱いを受けていると」

「親しかったわけではありませぬ。倅はそうでもないようですが。ただ、一人の男として羨ましいと思ったことはあります。ただ、あの御方は夢を見過ぎている。いつか潰れるのは、目に見えていました」

「夢か。円心殿は、夢をお持ちかな?」

「持っている、と言いたいところですが、それは夢と言えるような者ではありませぬ。一族郎党の繁栄。人並みに、それを考えているだけです。だからこそ、大塔宮や楠木殿のような夢を持つ人間が、羨ましいのです」

 似ている。赤松円心は、その無表情という仮面の下に、自分と似た思いを隠しているのではないか。

「円心殿は、帝についてどう思われますか?」

「私はお目にかかったことがありませぬ。ゆえに、どうと問われても答えかねますな」

「円心殿は、伯耆から戻られる帝を迎えに行かれたのでは?」

「周囲は公家衆で固められておりました。楠木殿だけは例外として拝謁を許されておられたようですが」

 円心の表情は変わらない。それ以上、そこから何かを読み取るのは無理だろう。

「足利殿、一つお願いしたきことがあるのですが」

「はて、願いですか」

「倅の一人、貞範を預けたいのです」

「ほう」

 それは、足利方に与するという意志表示とも取れる。貞範は確か円心の次男だったはずだ。大塔宮に近侍していたのは三男の則祐だったが、これは今、円心の元に戻っているという。

「こちらとしては、異存はない。だが、よろしいのか?」

「足利殿はいずれ動き、やがて飛躍する。私は、そう見ております。貞範がそのお役に立てば、と思います」

「そうか」

 話はそれで終わった。円心は用件が済んだと見るや、ゆらりと立ちあがって辞去した。その背中からは、やはり何も読み取れなかった。

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