第十九章「暗闘」
九月初頭、尊氏は足利氏の主だった者たちを集めて合議を開いた。今後、足利氏がどう動いていくのか。それを決める重要な場であるため、重鎮ばかりが集まっている。
議題はあらかじめ知らせてある。要するに、足利も北畠に倣い、親王を奉じて鎌倉に向かうべきかどうか、という問題である。
「私は反対にございます」
口火を切ったのは斯波高経だった。斯波氏は吉良氏と並び、足利氏の支流の中では格式が高い。いつ頃までか正確なところは不明だが、鎌倉時代には「足利」を公称することが許されていた。それだけに、こういう一族同士での合議のときも遠慮がない。
「今、我らは大塔宮に睨まれていると専らの評判。そのようなときに鎌倉政権の真似事をすれば、大塔宮、ひいてはその背後にある朝廷への印象も悪くなりまする」
「では、どのようにすべきか」
「私が伺ったところによれば、我らを敵視しているのは大塔宮だけであって、帝はまた別の考えをお持ちとか。なれば、まずは大塔宮を孤立させるべきでしょう」
「私も斯波殿と同意見です」
次に口を開いたのは畠山国清だった。
「そもそも、此度の北畠親子の陸奥下向は大塔宮が発案したと聞いております。だとすれば、これは我らを貶めるための罠。我らがこれに乗じれば『足利に野心あり』として、責められる恐れがあります」
「確かに、此度の件は大塔宮様の発案と聞いている。間違いないか、左馬頭」
尊氏も、こういう場では直義のことを幼名で呼んだりはしない。
直義は頷いて、「相違ありませぬ」と言った。内裏のことは直義の方が何かと詳しい。宗玄との会見の後、尊氏は直義に頼んでそれとなく今回の件の裏を探ってもらっていたのである。
「一つ、伺ってもよろしいでしょうか」
控え目に口を開いたのは細川顕氏だった。現在鎌倉で千寿王の補佐をし、実質的に現地をまとめている細川三兄弟の従兄弟にあたる。
「構わぬ。申せ」
「近頃、大塔宮様は疎んじられていると耳にしました」
「……大塔宮様が朝廷で孤立している、という話か」
その話なら尊氏も聞いている。大塔宮と後醍醐の間にある政治方針の相違が、問題を複雑にしている。初めの頃は尊氏も、二人が異なる政治目的を持っているとは思っていなかった。近頃になって、それが浮き彫りになってきた感がある。
どちらも朝廷を中心とした世の中を作ろうとしている。ただ、後醍醐は天皇による独裁体制を、大塔宮は第二の鎌倉政権が誕生しないようにすることを目標としている。
おそらく大塔宮は、鎌倉政権との戦いで多くの人物を見、天皇独裁制が到底実現しえないものだと断じたに違いない。それを推し進めることで民衆が不満を抱き、そのことで第二の鎌倉が出現すれば、今度こそ朝廷の威信は地に落ちるであろう。大塔宮がまことに危惧しているのはその点にある。
後醍醐にはそういった息子の心中が分からない。あるいは、分かったとしても見て見ぬふりをしている。私欲を得たいがために独裁制を推し進めているのであれば後醍醐の心も揺れるだろうが、こちらはこちらで、そうすることが国のためになると信じている。だからこそ、二人はどちらも譲歩できない。
そして後醍醐の周囲には、独裁制が実現した際に自分の立場を良くしたいと考えている者たちが多い。そういう者たちはこぞって後醍醐に取り入ろうとし、邪魔な大塔宮を貶めようとする。
「この話が本当であれば、大塔宮様のことを念頭に置く必要はないかと。……むしろ親王を奉じるのであれば、早くに実行した方がよろしいかと」
顕氏は慎重に言葉を重ねていった。つまり、大塔宮は既に朝廷で孤立しているから気にする必要などない、ということだ。
「大塔宮が既に朝廷内での発言力を失っているのであれば、私も異論はない。しかし、親王と言ってもどなたを奉じて下向すれば良い」
斯波高経が顕氏に問う。しかし、その答えまでは考えていなかったのか、顕氏は汗を拭きながら曖昧に頭を振った。
「阿野廉子」
と、そこで尊氏の側に控えていた師直が口を開いた。一同の不審げな目が師直に注がれる。尊氏の側近である彼に対し、支流の家柄の者たちはあまり良い感情を持っていない。
「良い女子だそうですな」
「いきなり何を言い出す」
高経は不快そうな表情を隠さなかった。一族の合議に執事風情が口を挟むのは、立場上慎むべきことであろう。
「阿野廉子と言えば、帝の寵愛を一身に受けていると評判。北畠殿が陸奥にお連れする義良親王も、彼女の子だ」
直義が補足すると、高経をはじめとする一同も、師直が何を言おうとしているか察したらしい。
「廉子には他に皇子はいるのか?」
「恒良親王、成良親王、そして義良親王です。義良親王は北畠殿と共に陸奥へ下向され、恒良親王は近々皇太子に指名されるとの噂があります」
尊氏の問いに直義が答える。
「となれば、成良親王か。帝は良しとされるかな」
「大丈夫だとは思いますが、阿野廉子を通して頼み込めば確実かと」
師直の言葉の裏には、廉子が今の京でどれほどの力を持っているか、という背景がある。彼女は後醍醐が鎌倉と戦っていたときも側にあり、帰京してからは皇后の如き扱いを受けているという。公卿たちの中にも、彼女に取り入ろうとする者たちは大勢いた。
大塔宮が後醍醐から煙たがられるようになったのも、廉子の存在が関わっていると見ていい。彼女は自分の子らの立場を良くしたい。皇子であり鎌倉戦において武功があった大塔宮は、邪魔者以外の何者でもなかった。
「そういう、裏であれこれとやるような真似は好かんな」
師直の提案に苦言を呈したのは、支流の一角、桃井氏の直常だった。剛直な武人で、謀略などは好まない。
「好む好まぬで決められることではありますまい」
「しかし、そこまでして廉子に取り入らねばならぬのか」
「あくまで当座のこと。帝への口利き役として見れば良いだけでござろう」
先々のことまでは分からない。ただ、今利用できるものがあれば利用すべきだと、師直はそう言いたいのだろう。
直常は承服しかねるといった表情を浮かべていた。それを見て尊氏は大きく咳払いをする。
「皆の意見は分かった」
尊氏は鷹揚に頷いて言った。
「最後に左馬頭の意見を聞きたい」
「このまま事態を座視していては、いずれ帝により潰されるのは明白。ことに、陸奥に北畠様が向かわれるとなれば、関東を拠点とする我らは背後を脅かされるということに他なりませぬ」
「……帝が我らを潰す?」
直義の言葉に尊氏は引っかかりを抱いた。確かに立場上、良好な関係とは言い難い。しかし、そこまでされる覚えはない。
「統治する者にとってもっとも厄介なのは、己よりも高い声望を有する功臣です。漢の高祖が韓信を滅ぼしたように、帝が兄上を滅ぼす可能性は高い。もっと危機感を持って動かねばなりません」
「ふむ」
狡兎死して良狗煮らる、という故事がある。漢の高祖・劉邦が天下を平定するにあたり、軍事面で多大な功績を見せた功臣が韓信である。しかし天下が定まった後、軍事能力が高いうえに声望高い韓信は劉邦にとって脅威以外の何者でもなくなっていた。結局韓信は漢によって滅ぼされてしまう。この劉邦と韓信の関係は、そのまま後醍醐と尊氏に当てはめることができる。
「……まあ危機感を持って動かねばならぬことは分かった。して、具体的には?」
「成良親王を奉じて鎌倉に下向する。それに関しては皆々様の意見の通りでよろしいかと。一つ付け加えるならば、私も親王とともに鎌倉へ向かうべきでしょう」
「お前がか?」
胸中に心細さがよぎる。実弟のまさかの申し出に、尊氏は表情を曇らせた。
「鎌倉は戦略・政略上の要地。親王を奉じてそこに向かうのであれば、私か兄上でなければなりませぬ」
「ならば、わしが。いや、共に行けばいいのではないか? 宗玄様の御子息を連れて陸奥に向かうと仰られていたが」
「兄上と北畠殿では立場が違います。我ら兄弟が揃って、あるいは兄上が単身で鎌倉へ向かえば、京で『足利謀反』の噂を広められる恐れがあります」
「お前を向かわせれば角は立たないと?」
「左様。——そして鎌倉に向かった後は、そこで鎌倉政権を復興させます」
直義の言葉に一同は色めき立った。その言葉は、取りようによっては朝廷への反逆とも受け取れる。
「……次郎。わしにそのようなつもりは——」
「第二の北条になる、ということではありませぬ。ただ鎌倉の如き体制の組織を作るということです」
「しかし、そこまですると大塔宮様のことを抜きにしても、朝廷の我らに対する印象悪化を招きませぬか?」
斯波高経が怪訝そうに言った。他の者たちも同様の表情を浮かべている。
「いや、兄上が京におられる限り言い逃れはどうとでも出来ましょう。それに、関東は朝廷の理屈よりも武士の理屈で動く地。どのみち鎌倉政権の如き方針を採らねば、満足に統治など出来ますまい」
「それを、京に残るわしが帝に訴え続けなければならぬのか」
悪い言い方をしてしまえば、尊氏は大将自ら人質として残り、足利氏の忠実であることを周囲に訴えていかねばならない立場になる、ということだ。確かに良い案ではあるが、当事者として考えると気が重い。
「しばしの辛抱です。やがては帝も、今のやり方では世を治められぬと理解されるでしょう。いかにして世を統治するか、その手本を我らが示すと考えれば良いのです」
強気な直義の発言に、一同の中から感嘆の声が上がった。こうなると、この案を棄却することなど出来そうにもない。
「……分かった。左馬頭の案を入れよう。皆もそれで良いな?」
一同は一も二もなく頭を下げた。自分の立場にやや滑稽なものを感じながらも、尊氏はその場を後にした。
妙な胸騒ぎがして、尊氏は馬を止めた。
「どうなされましたか?」
側に控えていた師直が、尊氏の様子に気づいて尋ねてきた。尊氏はそれに答えず、細かく周囲に目を走らせた。
「杞憂かもしれん。しかし、誰かにつけられている気がする」
それはもしかすると、うしろめたさから来る錯覚なのかもしれなかった。尊氏は師直を連れて、阿野廉子の元に出向いていたのである。公式の面談ではなく、秘密裏に行われたものだ。その会談の中で廉子は、尊氏が提示したいくつかの条件を呑んだ。まず密約は成功したと見ていい。それゆえ、後ろ髪を引かれる思いがする。
どうも背筋が寒い。
そう思ったとき、尊氏らの前に覆面を身につけた五、六人の男たちが現れた。誰もがみすぼらしい風体をしている。おそらく浮浪人の類だろう。近頃は京にもこういう手合いが出ると聞いている。
「殿!」
師直が後ろを指し示した。そちらにも同じような者たちが現れ、こちらの逃げ道を塞いでいる。
「貴様ら、我らが何者であるか知っているのか」
師直得意の怒声にも男たちは動じなかった。得物を手に、じりじりとこちらににじり寄ってくる。
「よせ太郎。奴ら、わしの首を取りに来たと見える」
「なれば殿、某が道を開きます。その後に続いてくだされ」
師直はそう言うと、迷うことなく敵の真っ只中に突っ込んでいった。尊氏も後に続く形で馬を走らせる。
既に周囲は暗闇が覆っている。相手もどちらが尊氏か判断しかねたらしい。ばらばらになって斬り込んできた。
「おおおぉっ!」
異様なまでの大声を上げながら、師直は敵の槍を弾いた。さらに師直に斬りかかろうとする敵を見て、尊氏はそちらに馬を突っ込ませた。逃げる間もなく、敵は馬の下敷きになる。
「野盗じゃあっ! 野盗が出たぞおっ!」
師直の叫びが市中に響き渡る。それを聞きつけて、正規の武装集団と思われる者たちが集まって来た。その頃には、尊氏と師直は逃げきって闇の中に紛れ込んでいる。
「怪我はないか、太郎」
「御心配には及びませぬ。殿こそ、大丈夫ですかな」
「わしも無事だ。……しかし、あの者たちは何者だったのか」
政治的な意味合いで自分が並々ならぬ状況にいるということは理解していた。しかし、このような形で狙われるなど、想像すらしていなかった。
「これだから殿は甘い。御舎弟からも散々注意されているではありませぬか」
そう言われては反論出来ない。
「とにかく屋敷へ戻る」
「今後は殿の警備を厳重にせねばなりませぬな」
師直の言葉に適当に頷きながら、尊氏は馬を走らせた。
……裏にいるのは大塔宮様か。
屋敷に着くまで、尊氏の脳裏からその考えが消えることはなかった。