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荒波の将軍  作者: 夕月日暮
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第一章「鎌倉」

 尊氏、最初は又太郎という名であった。

 太郎とあるが、長男ではない。正室の子ですらなかった。

 又太郎の父、貞氏の正室は釈迦堂殿という女性だった。この人もまた、代々の例に倣い、北条家から嫁に来ている。

 ただ、貞氏と釈迦堂殿の婚姻は単なる慣習ではなく、政治的な意味合いが強かった。貞氏の父家時は、積極的ではないにせよ、反北条勢力とも取れる安達派に属していた。安達派は政争に敗れ、家時はこれに連座したような形で自害している。これまで親北条氏で通してきた足利氏の態度が、変わった。

 釈迦堂殿が貞氏に嫁いだのは、微妙なものに変わった足利氏の態度を元に戻すという目的もあったと思われる。鎌倉の執権として絶大な権威を誇る北条氏だったが、絶対君主と言えるほどの存在ではなかった。大勢力である足利氏との全面対決は出来る限り抑えておきたい、と考えてもおかしくはない。

 ただ、釈迦堂殿の母は安達泰盛の娘であった。この辺り、周囲の人間がどのように見ていたのかは想像の域を出ない。

 ところで、貞氏と釈迦堂殿の子には 高義(たかよし) という人がいた。又太郎にとっては異母兄に当たり、左馬頭に任じられていたという。本来はこの人が足利氏を継ぐはずだった。

 この人が早世したことから、庶子の又太郎が足利氏の嫡男になった。もっとも高義は子を残しているから、それなりの年になってから亡くなったのだろう。

 高義自身の生没年はよく分かっていないが、又太郎が生まれたときはまだ存命していたらしい。又太郎は少年期、次男として扱われていたと考えられる。それも庶子であった。

 こうした前提の元に、今一つはっきりしない彼の前半生を想像してみたい。人間を見る上では、若い頃の経験というものが欠かせないからである。


 およそ、名門の若君とは思えない子どもだった。

 書物は真面目に読まず、気分が乗らないときは一日益体もなく過ごしている。かと思えば乗馬や弓矢に、異常なほど熱中することもあった。

 家中では、

「今日の若君は何をされるのであろうか」

 などと言う人も多かった。

 もっとも、決して我侭なわけではない。何かをしたいと言い出しても、人にそれを止められればすんなりと引き下がるようなところが又太郎にはあった。

 その日は散策を行った。一応、領地の見回りという名目である。無論又太郎一人ではなく、実際に見回りを行う足利配下の武士たちがいる。

 足利の地は下野国にある。

 足利氏全体の所領は全国各地にあるが、又太郎は苗字の元になったこの地で育った。

 ついでに、又太郎(尊氏)の出生地には諸説ある。

 父の貞氏が出仕していた鎌倉説、足利氏の本拠である足利荘説もあれば、母方の出身地である 丹波国(たんばのくに) 上杉荘で生まれたという説もある。後年、彼が西の方に意識を向けたことを考えると、個人的には京からも近い上杉荘説を信じたい。

 が、そこでずっと育てられたわけではないであろう。生まれてから数年経つ頃には、足利の地に移っていたはずである。

 近年、治安は徐々に悪化しつつあった。元寇以来、鎌倉に対抗する勢力が全国的に出現してきている。そうした者たちは『悪党』と呼ばれた。

 又太郎は悪党を見たことはないが、鎌倉に何事かが起きつつあるということは薄っすらと感じている。

 ……皆、覇気がないな。

 道端には、横になって喘ぐ者たちが大勢いた。起き上がっている者たちも、皆どこか動きが鈍い。

 ……充分に食べていないからか。

 それぐらいしか考えられない。こうして歩いていても、肉付きの良い人間はほとんど見かけなかった。

 それを口にすると、一緒にいた武士の一人は、

「今はどこも同じような有様でございましょう」

 と言った。

 ……どこもこのような有様では、駄目だな。

 何が、とは思わない。

 ただ漠然と、そんな風に感じただけである。


 屋敷に戻った又太郎を待っていたのは、兄の高義だった。

「巡廻に出ていたそうだな」

 高義はやや渋い顔をしていた。

 嫡子と庶子という立場の違いもあって、又太郎は高義と一緒にいることが少なかった。不仲という程ではないが、顔を見合わせると説教をされた。年が離れていることもあり、まるでもう一人の父親のように思うことがある。

 もっとも、又太郎はこの兄のことが嫌いではなかった。生まれつき、他者を嫌ったり憎んだりする情が薄いのである。

「鎌倉はいかがでしたか」

 高義は先日まで鎌倉に出仕していた。今は所用で足利に戻ってきているが、またすぐに鎌倉へ向かわねばならない。

「御家人たちの間でも不満の声が上がっている」

 御家人とは、鎌倉幕府の将軍に直接仕えた武士たちのことである。もっとも、この頃の将軍は実質北条氏の 傀儡(かいらい) となっていたので、幕府に所属する有力武士、と言った方が実像に近いかもしれない。

 厳密には北条氏の家臣ではないが、ほとんど家臣同然となっている。

 足利氏は御家人の筆頭格だった。

「このまま鎌倉を頼っていてもいいものか。わしもそう思うことがしばしばある」

 御家人たちはその実力差ゆえ実質的に従ってはいるが、

 ……北条は我らの主にあらず。

 という思いを抱いていた。

 御家人の主は本来幕府の代表たる将軍であり、北条氏などはその政治代行者に過ぎない。高義の言葉は、彼個人のものと言うより、この時代の御家人全般のものであった。

「執権殿は政務を省みず、内管領の専横は酷くなるばかり。面白いことではない」

 かと言って、高義にはどうすることも出来ない。執権に訴えたところで意味はなく、正面から内管領に挑めるほどの勢力も、足利氏にはない。

「そもそも内管領とは得宗の執事。なぜそれに皆従うのでしょうか」

 得宗とは北条氏の本家のことである。二代目執権北条 義時(よしとき) の法名に由来すると言われている。執権職は他の一族に譲り、自らはその裏で力を持ち続けた。鎌倉の実質的な支配者だった、と言っていい。

 もっとも、又太郎にとっては『北条本家』という印象しかない。又太郎が生まれた頃には得宗家も力を失い、その家臣だった内管領が鎌倉の実権を掌握するようになっていたからである。

 本来同僚だった北条氏が勢力を増していくのも面白いことではなかったが、今度は更にその配下風情が大きな顔をするようになってきたのである。御家人たちからすればたまったものではない。

 今の執権である北条高時は得宗家でもある。しかし政務を取り仕切っているのは内管領の長崎 高資(たかすけ) であった。

「内管領には力と勢いがある」

 だから従わねばならぬ、と高義は言った。

 高時が無能だから高資の専横を招くことになったのか、高資の力が強すぎて高時に実質的な権限がなかったのか。どちらにせよ、内管領の勢いには凄まじいものがあった。

 足利氏は御家人の筆頭格だが、それでも内管領には頭が上がらない。

「もし今我らが北条や長崎に戦いを挑めばどうなりますか」

 又太郎の発した問いに高義はぎょっとした。

 北条やその御内人、その筆頭たる内管領に対する不満は多くの御家人が抱いている。しかし、反旗を翻そうという者はいなかった。

「まず、負ける。他の御家人たちも味方にはつくまい。一族郎党皆殺しにされ、我らの所領は取られ、鎌倉はますます力をつける」

 それほどまでに力の差は大きい。

 御家人たちが一致団結すれば可能性はあるが、中心となるべき者がいない。勢力と名門の血筋こそあれど、足利氏も御家人の一角に過ぎない。他の御家人たちが進んで従ってくれるとは思えなかった。

「なら、今は鎌倉に従うのが良いのですね」

 又太郎はけろりと言った。

 先程の問いかけにも深い意味はない。単なる興味本位である。

 そもそも足利を率いるのは高義なのだ。又太郎はそれを支えようとしか思っていない。この頃の又太郎に鎌倉打倒の意志はほとんどなかった。

 あるのは、漠然とした不満と、変わりつつある世の流れを見逃すまいとする思いだけだった。


 大事業を成し遂げた者は、幼少時よりその兆候が現れていた、とされることが多い。又太郎も、反北条の気分を持つ家で育ったことから、幼少時より鎌倉に反旗を翻す土台が出来ていた、と見る人もいる。

 そういう環境ではあったであろう。

 が、何もそれは又太郎の足利氏に限ったことではない。多くの御家人たちも、気持ちの上では足利氏と似たようなものであった。

 鎌倉も後期に入ると、北条得宗家への権力集中が甚だしいものになった。北条高時の祖父に当たる時宗の代に起きた、元寇の役が原因である。

 元は当時大陸を支配していた世界最大規模の国家であり、その前身はチンギス・ハーンが築き上げたモンゴル帝国である。これが日本へ侵攻してきたとき、当時の執権時宗は得宗の強化を図り、武士たちへの統率力を高めるなどして対応した。戦力差は圧倒的で、悲痛を通り越して滑稽なほどであったが、幸運にも日本は元を追い返すことに成功した。

 問題は戦後処理である。時宗の真意はよく分からないが、戦時中の非常措置であるべきだった得宗への権力集中は、戦後も残ったのである。

 また、得宗の家臣である御内人、特にその筆頭格である内管領の発言力も増していった。

 それに対して、北条家以外の有力武士である御家人に対しては、さしたる恩賞が出なかった。このことから徐々に御家人と御内人の対立が深まり、それがやがて霜月騒動に発展する。

 霜月騒動の主役、幕府の重臣安達泰盛は御家人派、内管領平頼綱は御内人派である。

 足利氏が安達派、つまり御家人派に属したことは既に述べた。積極的に泰盛を支持したわけではないにしろ、心情的にはそちらに傾いていたと考えられる。この騒動で安達派は敗れ、ますます御内人派の力は強まった。

 当然御家人たちは面白くない。又太郎の感情はその延長線上にある。

 ……そもそも権力とは何か。

 兄との問答を終えた又太郎は、自室にこもってそのことを考えていた。

 誰がどうして偉いのか、ということが分からない。

 兄は力と勢いだと言っていた。その言葉に、いろいろなものを当てはめてみる。遠い昔は、京の朝廷が国政を取り仕切っていた。そのうち武士と呼ばれる者たちが力をつけ、その中でも勢いのあった平家が朝廷を牛耳った。平家が勢いを失うと、鎌倉で源頼朝が挙兵し、津波の如き勢いで平家を打ち倒し幕府を開いた。しかし源氏も三代で失速し、そこを北条氏が一気に駆け上がって幕府を掌握した。

 ……なるほど、勢いだ。

 今は北条氏が勢いを失いかけており、内管領の長崎がそれに代わろうとしている。

 確かに兄の言う通り、力と勢いである。

 ……権力とは波のようなものなのだな。

 波はいずれ消え、その後からまた新しい波が来る。それの繰り返しだと考えれば納得がいく。

「とすれば、足利の波は小さいものだな」

 今の足利という波は、北条波や長崎波にぶつかれば、たちまち呑み込まれてしまうであろう。そのことが少しばかり不甲斐ない。

 では、その波はどうすれば大きくなるのか。

 又太郎は一日中、そんなことを考えながら過ごした。

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