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荒波の将軍  作者: 夕月日暮
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第十五章「帰京」

 伯耆の船上山にいた後醍醐が、京に向かって移動を始めた。

 その報告がもたらされた直後、師直がいつになく表情をこわばらせて駆け込んできた。

「楠木と申す者が訪ねて参りました」

 今やその名は、近畿はおろか奥州や九州にまで知れ渡っている。

 今回の対鎌倉戦における立役者、楠木正成。何万もの鎌倉軍を相手に、たった数百人で籠城戦を挑んだ男だ。鎌倉が陥落するまで持ちこたえた武勇は、高氏の耳にも入っている。

「河内の悪党か」

 会ってみることにした。悪党というものに興味があるからだ。播磨の悪党赤松円心もただならぬ男だったが、楠木正成はそれとはまた違う類の悪党のような気もする。

「縁側に連れてまいれ。上下の区別なく話をしたい」

「御舎弟に見つかれば、また説教ですな」

「あやつはそれどころではあるまい。わしの分まで働いているからな」

「某、時折御舎弟が気の毒に思えて仕方がありませぬよ」

 笑いながら師直は下がった。それと入れ替わるような形で、一人の男がやって来た。

 背丈はそう高い方ではない。高氏よりも少し低めだった。ただ、小さいという印象は受けない。がっしりとした体格の持ち主であり、数か月の籠城戦に耐えうるだけの気骨を感じさせる男だった。

「河内の楠木兵衛尉にござる」

 ……ほう、これは。

 正成の声に、高氏は背筋を改めて伸ばした。そうさせるだけの迫力がある。

「わしは足利前治部大輔。そなたの武勇は聞いている」

「ありがたいことにございます」

 頭を下げつつも、正成の物言いは不機嫌なものだった。怒っている。

 ……はて、何かまずいことをしたか。

 首をかしげてみたが、心当たりはない。

「ときに某、此度は足利殿に一言申したきことがあってまかり越した次第にございます」

「ほう、それは?」

「足利殿は、第二の北条になるつもりではござらぬか」

 見る者が皆気圧されるような眼だった。高氏は思わず息を呑み、言葉を失う。

 ……怖い奴よ。

 まるで獣である。何十倍もの大軍を相手に孤軍奮闘していたのだから無理もない。人間、ある極致に達するとこんな顔つきになるのかもしれなかった。

「そのようなつもりはない」

 高氏は息を落ち着かせながら、ゆっくりと言った。自分が六波羅や鎌倉の武士たちを吸収したのは、混乱を防ぎ、戦を迅速に終わらせるためである。北条の後を継いだり、帝に刃向うつもりは毛頭ない。

「足利は大きな勢力ゆえ、今の武士を代表するような立場にはある。しかし得宗の真似事をするつもりはない。足利が進むのは足利の道だ」

 それは本心だった。今北条の真似事をしたところで、誰が支持をしてくれるのだろう。世を敵に回すだけではないか。

「そうでございますか」

 正成はしばらくの間、じっと高氏の目を見ていた。やがて大きく息を吐き出すと、表情を和らげる。

「失礼致しました。某、足利殿のことを誤解していたようにございます」

「無理もない。しかし、それも帝が帰京されれば解けるであろう」

「帝が戻られたら、いかがなさるおつもりで?」

「これまでわしが預かっておいた武士たちの論功行賞を、改めて朝廷に願い出る。それからわしらも恩賞をいただく。今はそれしか考えておらぬな」

「武士の代表として、将軍になるつもりはないのですか?」

 正成はちょっと意外そうだった。緊張が解けたせいか、表情がころころと変わる。元来素直な性格なのかもしれない。

「ない。今それを望めば、まさに第二の北条現る、と皆から袋叩きにされてしまうわ」

 高氏にとっては、栄達よりも保身の方が大事だった。武士の棟梁になりたいという野心はあるが、慌ててそれを狙う必要はないと考えている。北条が滅びた今、足利氏は武士の最大勢力である。待っているだけでも、相応のものは転がり込んでくるであろう。

「そなたから見ても、わしは油断ならぬ男であろう。大塔宮様やそなたが命がけで戦っていたのを、横からおいしいところだけ取っていったようなものだ」

「いえ、そのようなことは。むしろ、救われるような思いでした」

 高氏の寝返りが鎌倉滅亡のきっかけとなったのは事実である。もし高氏があのまま船上山の後醍醐を攻めていたら、正成たちも敗れ去る他なかったであろう。

 高氏は縁側から遠方を眺めた。その方角には、大塔宮が立てこもる信貴山がある。

「大塔宮様のことをお考えですか」

「ああ。あの御方とも、このように話してみたい。誤解されたままというのは、嫌なものだ」

「それは無理でございましょう」

 正成は覇気なく言った。

「大塔宮様は誤解はされておりませぬ。ただ、足利殿個人を見ていないだけなのです」

「では、あの御方は何を見ておられる?」

「武士。特に旧鎌倉の勢力でございましょう。足利殿にその野心がなくとも、あなたの下にいる者たちは第二の鎌倉を求めるかもしれない。大塔宮様が恐れているのはそこなのです」

 確かに、それが問題ではあった。

 武士には、朝廷の支配を嫌う者が多い。それが高じて独立の気運が生じ、鎌倉という武士による武士のための政治機関が出来た。長い間その下で生活していた武士たちが、再び大人しく朝廷の支配に従うようになるのだろうか。

「多くの武士は、帝の理想に呼応して鎌倉と戦ったわけではないはずです。鎌倉の統治が破綻したから、それを見放しただけのこと。彼らが望むのは、決して帝の世ではない。そんな気が致します」

「それでも、これから始まるのは帝の世だ。それを不服として逆らうような者が出れば、世はますます混沌としたものになろう」

 高氏に出来ることは、せいぜい上手く立ち回って武士と帝の間を取り持つことぐらいだろう。そうして堅実に勢力を伸ばしながら、朝廷の下で武士の棟梁となればいい。

「それよりも、千早城でのことや河内のことなどを知りたい。時間があれば聞かせてくれ」


 後醍醐天皇が帰京したのは六月五日だった。伯耆からは名和長年が護衛につき、その後途中で赤松円心や楠木正成も出迎えた。他にも世の情勢が変わったと見た武士たちが加わり、帝の行列は豪華なものになったという。

 動かなかったのは、高氏と大塔宮である。

「行かなくてよろしかったのですか、兄上?」

「構わぬ。帝が戻られるまで京の留守を預かるのがわしの役目だ」

 それに、源氏の主流としての誇りもある。比較的身分の高い者、特に東国の武士たちは帝の元に向かわず、それぞれどっしりと構えている。軽々しく振舞うものではない、という名門意識である。

 ただ、高氏にとって予想外だったのは、後醍醐が帰京したその日に自分を呼び出したことであった。

「せっかちな御方のようだ」

 慌てて身支度を整えて、御所に向かったのは正午過ぎのことだった。馬を駆って急ぐ高氏を、何事かと京の市民が眺めていた。

 御所にやって来た高氏を最初に出迎えたのは正成だった。

「足利殿。急いで参られたようですな」

 この間会ったときよりも、だいぶ人間臭い顔つきになっていた。その分、どこか迫力が衰えたような気もする。

「楠木殿、帝はどのようなおつもりでわしを呼ばれたのかな」

「某には分かりませぬな。ただ、悪い話ではないと思います。此度の戦、足利殿の力なくして勝利はなかったのですから」

「そうか。そうだといいが。わしは正直、怖い」

「恐れる必要などないと思いますが」

「己の処遇についてはそうだ。しかし、わしは帝というものに拝謁するのはこれが初めてになる」

 それが恐ろしい。普段はさほど感じたこともない帝の気配というものが、濃厚に感じ取れる。物心ついた頃から関東で暮らしていた高氏にとって、帝というのは遠い星のようなものだった。

 今から向き合わねばならないのは、そういう相手である。

 正成と別れて、高氏は一人後醍醐天皇の元に向かった。

 薄暗い部屋だった。奥にそれらしき人物がいたが、直視することは出来なかった。それから、左右にずらりと公卿たちが並んで座っている。

 ……こいつはたまらぬ。鎌倉などとは大違いだ。

 鎌倉では将軍はほとんど相手にされず、執権に対しても簡略的な礼儀しか用いなかった。諸将がそれぞれ席を共にしているだけの場であり、そこには荘厳なものがなかった。

 ここは違う。鎌倉ではありえなかった重苦しい雰囲気がある。

 ……これが帝の、あるいは朝廷の権威というものか。

 天皇と朝廷は長い歴史を誇り、その中で犯されがたい権威を育ててきた。承久の乱で一時的に衰えたものの、その威は健在であるらしい。

「源高氏か」

「はっ」

 低く鋭い声だった。想像していた帝の声とはまるで異なる。戦場を駆け回る猛将の姿が思い浮かんだ。

「此度の働き、まことに大義じゃ。本日よりそなたを鎮守府将軍に任ずる」

 鎮守府将軍。武門の栄職だった。実質的な権力はない名誉職ではあるが、破格の待遇であることに変わりはない。今日では征夷大将軍と比べるとさほど名は知られていないが、当時は東国武士たちの憧れの的だったらしい。これを与えられたということは、足利は他の武士とは違う、と帝に保障されたようなものだった。

 高氏は歓喜に震えた。鎮守府将軍など、北条の世では望むべくもないものだったからだ。

 ただ、謁見が終わって屋敷に戻る頃になると、少しずつ頭が冷えてきた。

 ……浮かれることは出来ぬな。

 鎮守府将軍は確かに非常な名誉職ではある。しかし、名だけで実がない。実のない恩賞だけで満足するほど、足利は小さくはなかった。

 その後、高氏と直義はそれぞれ朝廷の官位を得た。

 高氏は従五位上から一気に従四位下に昇進し、左兵衛督となった。間には正五位下と上があったから、位を二段飛ばしての昇進である。直義は左馬頭に任じられた。高氏や直義の兄、高義も左馬頭だった。

 しかしそうした優遇も、素直に喜ぶことは出来なかった。

 それから程なくして、大塔宮が征夷大将軍に任じられたからである。

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