余談「北条氏」
鎌倉の北条氏と言うと、あまり良い印象がない。専制体制を強化し他の武士から恨まれたこと、多くの武士の離反によってあっさりと滅び去ったこと、時代の敗者であること明確なため太平記や梅松論で悪者にされたことなど、理由はいくつも思いつく。
北条氏の立場になって考えてみれば、彼らの言い分も理解出来る。元という海の向こうからの脅威に備えるために専制体制はそれなりに有効であったし、その場合日本の軍事的中心に立つのは北条氏が相応しいというのも頷ける。
ただ、彼らの方針は日本という国に適していなかった。歴史上の敗者というのは、方針の善悪に関わらず、多くの場合この"適さなかった者"であることが多い。歴史上の勝者とは大衆の心を掴みながら目標を達した者たちであり、北条氏には前者が決定的に欠けていたと言わざるを得ない。
日本といったが、正確には武士の世とした方がいい。後年の江戸時代の武士からは想像しにくいが、中世の武士は独立精神旺盛であり、自らの利益の増減には敏感であった。主君となる者は配下を納得させるだけのものを与えなければならない。多くの場合、それは領地の保証などだった。
武士の誕生によって日本の領地は細分化が進み、一つの機関で全てを管理することが難しくなっていった。ゆえに、武士の世が終わる幕末までの間、日本は全てを統括する組織を持たずに過ごすことになる。朝廷も、歴代の幕府も、日本全土を掌握することはなかった。現実的ではなかったからである。
しかし、北条氏はそれに近いことをやろうとした。領地を拡大し、そこに一門の者を送り込んでいった。彼らがどこまでやろうとしたのかは知る由もないが、もし元弘の乱で鎌倉幕府が潰れていなかったら、また違う武士の世が作られていたかもしれない。ほとんどありえない「もしも」の話ではあるが。
日本は地理的条件から、海外進出にはあまり適していなかった。海外への侵攻を考える者など、この頃の日本にはいなかったであろう。ゆえに新たな領地を獲得することもなかった。領地を獲得したい者は、日本の中にいる既存の領有者から奪うしかない。武士という軍事的領主が力を持ったのはそのせいである。他者のものを奪う一番簡単な方法は、武力による略奪なのだから。
そうした武士を治める幕府の役割は、彼らの支配ではなく、管理であると言った方が適切であろう。それぞれの領地内部のことには口出しはしないが、問題が起きたら幕府が解決に乗り出す、という形である。鎌倉幕府は最初に出来た幕府ということもあってか、こうした"武士に適した統治機関"としては後の室町・江戸幕府に劣る。逆に言えば、鎌倉幕府――北条氏の失敗がなければ、後の幕府もまた違うものになっていたであろう。
北条氏の印象に暗い影を落としているのは、鎌倉政権の簒奪者という面もあるからだろう。鎌倉初期に将軍頼朝の縁戚として力を振るい、頼朝の死後は鎌倉幕府の同僚である御家人たちと争い、謀略や戦によってこれらを滅ぼし、鎌倉の実権を握った。
だが、この認識は正しいようで正しくない。鎌倉は元々頼朝とその家臣によって作られた、鉄の結束力を誇る組織、などではなかったのである。初期は関東武士の連合体制、もっと悪く言ってしまえば利害が一致しただけの烏合の衆であり、当面の敵であった平家を倒し、当初の目的だった朝廷支配からの脱却を遂げてしまえば、仲間内で争うのは当然の結果であった。北条氏はその中で勝ち残ったに過ぎず、このことだけで彼らを非難するのは、勝者に対する妬みになりかねない。
将軍職に就いて支配者としての立場を明確にしなかったのも、元々の身分や周囲との関係上難しかったからだと考えられる。一門の者を積極的に要職に就けたり、有力御家人(足利氏など)と縁戚関係を結ぶようになったのは、堂々と支配者を名乗れなかった北条氏なりの努力の結果なのだろう。時代が進むと、その傾向ばかりが強くなり、他の武士を蔑ろにするようなことになってしまったのだが。
鎌倉幕府という組織における北条氏の功績は、烏合の衆を一つの組織としてまとめあげた点にある。元という予想外の圧力がなければ、鎌倉は案外もっと長生きをしていたのかもしれない。この辺り、黒船来航から始まる江戸の幕末と比べてみると、なかなか面白いかもしれない。思わぬ圧力に脅かされた者たちは、身近な権力に不満をぶつけるものである。それも、その権力が巨大であればあるほど、不満というのは大きくなるものなのだ。
北条氏の統一感という点で気になったのは、滅亡の際に特に顕著だったことだが、自害に関する連帯感の強さである。
足利高氏に滅ぼされた六波羅探題の北方、北条仲時に従って自害した人の数は四三〇名。新田義貞の猛攻で滅びた鎌倉の北条家に至っては、得宗家の当主高時を始めとして八〇〇名以上が自害したという。これだけの人々がほぼ同時に亡くなったという事実に、私は北条氏の排他性が見え隠れしているような気がした。
専制体制の強化によって他の武士たちの支持を失っていたことは、北条氏も理解していたと思われる。ゆえに、多くの武士たちに寝返られ、これを防げないと分かった時点で、自分たちはもう駄目だと自害した。もし他の武士たちに誼があれば、投降することで許される可能性もあったはずである。それをしなかったということは、北条氏やその家臣たちは、他の武士たちから恨まれていた、もしくは誼が薄かったということになる。北条氏も内部で争いがあって決して一枚岩ではなかったから、この集団自害は単なる結束力の表れではないであろう。
なお、このすぐ後の南北朝時代では、投降することで命や領地を保とうとする武士の姿を見かけるようになる。壮絶な集団自害をした北条氏とは対照的である。
実際どの程度だったかは分からないが、末期の鎌倉幕府は北条幕府とも言えるくらい専制体制が進んでいた。ゆえに鎌倉幕府の滅亡とは、実質的には北条氏の滅亡に他ならないと見ることも出来る。足利氏や結城氏など、有力な御家人だった者たちは、鎌倉滅亡後も健在だった。いわば、北条という神輿が重くなりすぎて、それを今まで担いでいた者たちが放り捨ててしまったのが、鎌倉幕府の滅亡と言えるのではないか。
神輿だけが捨てられて、担いでいた者たちは健在という状況が、これからの騒乱の要因となる。代わりの神輿が後醍醐天皇であることは誰の目にも明らかだったが、この神輿もまた、担ぎ手にとっては大変なものだったのである。また、後醍醐天皇の方も、担ぎ手たちの持つ不満と力の大きさを把握しきれていなかった。