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荒波の将軍  作者: 夕月日暮
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第十三章「幕末」

 日本史において幕府と呼べるものは三つ存在した。そのいずれもが滅びているから、いわゆる幕末というものも三度あったということになる。

 幕末というと一般的には、江戸幕府の末期を指す。様々な人物の思惑が動き、尊王攘夷や開国問題などが重なるなどして、それ自体が一つの時代と呼べるような様相だった。それに比べると、室町幕府はほとんど自然消滅に近い。見方によっては応仁の乱から足利義昭追放までの戦国時代が、室町幕府の幕末と言えるかもしれない。

 こうした後代の幕末に比べると、鎌倉幕府の幕末は短期間で終わりを迎えた。それも、急転直下の終結を迎えるはめになったのである。


 新田義貞が鎌倉討伐の志を持って挙兵したのは五月八日、従う兵は二百にも満たない。義貞の胸中に勝算があったかどうかは分からないが、挙兵したのは蛮勇によるものではなく、新たな世を作り上げるという一念によるものであった。そうしなければ、下級武士たちは生きていけなかったのである。

 大塔宮の書状が出回っていたのか、義貞の元に集まってくる武士たちは多かった。ただ、最初から続々と集まって来たわけではない。

 まず義貞は、挙兵した上野国の守護代長崎四郎左衛門尉なる者を打ち破ったという。この男は北条得宗家の家臣だったらしいから、内管領の長崎父子とは同族関係にあったのかもしれない。それを打ち破ったということで、義貞は打倒鎌倉の意思を行動で示したことになる。

 単純な理屈だが、戦闘要員が将として認める人間の条件の一つは、第一に勝つということである。負ける将の下につきたいと思う者はそういない。

 初戦で華々しい戦果をあげたことで、義貞は自らの能力をも周囲に示した。無論これだけで多くの武士の心を掴んだわけではないが、軍勢は大きくなっていったのである。

「しかし、今一つ足りぬ」

 鎌倉の力は強大そのものだった。まだ数万の軍勢を支配下に置いているのである。義貞の軍勢も大分増えはしたが、まだ数千程度だった。鎌倉を恐れて、まだ日和見を決め込んでいる者も多い。そういう人々こそが有力者であることが多い。義貞としては、是が非でも彼らを味方につけておきたかった。

 義貞はまっすぐに鎌倉に向かったが、猪突猛進したわけではない。上野、武蔵国などで軍勢集結を待っている。それでも、勢いを殺さぬよう少しずつ進軍はしていた。鎌倉の軍勢とも軽くぶつかりあうこともあったが、そういう場合は大抵勝った。

 そんなとき、西方の事態が義貞たちの元に知らされた。

 高氏が丹波で反鎌倉に起ち上がったことは聞いていた。此度もたらされたのは、その高氏が六波羅を陥落させたというものである。

「足利殿もやりおるわい」

「感心してる場合か兄者。我らも急がねば。このままでは、足利が鎌倉に来て北条を討ってしまうかもしれん」

「案ずるなよ、義助。足利殿は、おそらく六波羅での合戦の後始末でしばらくは動けまい」

 今戦っているのは高氏ではなく鎌倉である。高氏を気にしても意味はない。

「いや、待て。足利か」

 義貞は先日のことを思い出していた。

 偶然としか言いようのないことだが、義貞の軍勢は高氏の子である千寿王と合流していたのである。千寿王自身はほんの子供に過ぎないが、その周囲は高氏の信頼厚い家臣たちで固められている。

 義貞はその足で千寿王たちの元に向かい、その代理人とも言うべき家臣に提案を持ちかけた。

「これでは鎌倉打倒を実現出来ぬ。もっと兵がいる。しかし、京からの援軍を待っていては、鎌倉も万全の状態で臨んでこよう。ゆえに、此度は足利殿の力も存分に借りたいと思うのだが、いかがか」

 この時代、身分や家柄というものが持つ力は、戦国時代などと比べると非常に重いものがあった。例え子供であろうと、足利の御曹司である千寿王が持つ影響力は、馬鹿に出来ないものがある。

 無位無官の義貞の呼びかけに応じない者でも、足利の御曹司が呼びかけたとあれば駆け付けるかもしれない。足利氏も、本拠地は関東下野国にある。足利氏になら従っても良いという者も、関東には沢山いるであろう。

 義貞の提案は受け入れられた。許可を得た義貞は、千寿王の名で各地に檄を飛ばす。決定的とまではいかないが、このことで新田軍は相当膨れ上がった。

「これ以上は待てぬな」

 鎌倉と比べるとやや兵力では劣る。それでも、義貞は決戦に持ち込むことにした。

 新田軍は常勝無敗、破竹の勢いで勝ち続けた、というわけではない。勢いづく新田軍に鎌倉も全力を出すことにしたのである。

 義貞が敗北したときの鎌倉軍の大将は北条泰家。得宗家当主北条高時の実弟であり、権威を増す長崎父子に対抗したことで以前も触れた男である。

 ここ一番で大将に任じられ、かつ勢いに乗る新田軍を破ったことから、泰家は武人として優れた能力を持っていたのだろう。

 しかし、泰家の勝利はすぐに打ち消された。泰家に敗れた新田軍の元に三浦氏が援軍として駆けつけたのである。三浦氏は鎌倉創業以来の有力御家人である。それが鎌倉を見限って新田軍に参加したのは、大きな意味を持つ。

 三浦氏が合流したのと同日、新田軍は鎌倉軍に奇襲を仕掛けてこれを打ち破った。

「足利殿が六波羅を落としたと聞いたのでな。今なら鎌倉を、いや、北条を倒せると思って参った」

「心強く思う、三浦殿。しかし、鎌倉の軍勢はなお我らより強大。次の一戦こそが、時代を決する戦となろう」

 泰家を打ち破った今、残るは北条氏の本拠地と化した鎌倉だけである。しかし鎌倉は京と違い、守るに適した地形にある。攻める側にとっては、楽に落とせる場所ではない。おまけに、兵力はなお向こうが上なのである。

「我らが勝つとしたら、波に乗るしかない」

 鎌倉の方にも、六波羅探題陥落の報は届いているだろう。こちらの士気は高く、向こうは低くなっているはずだ。そこを、一気呵成に攻め立てるしかない。

「義助よ、勝てると思うか」

 義貞は実弟の義助に問う。義助は、武者震いを抑えながら頷いた。

「ここまで来た以上、勝つだけだ。兄者、最初は一五〇だった新田軍が、今は一万を超える数に増えている。それだけでも、俺は勝った気分になれるぞ」

「ああ、そうだな」

 義貞は遠方に見える鎌倉の都市を見つめた。鎌倉初期から冷遇されてきた新田氏の義貞は、あの都市に対する思い入れはない。ただ、打ち倒す敵だと考えている。

「行くぞ。時代を変えるのは、朝廷でも足利でもない。ここにいる我らじゃ」

 義貞の言葉に、一同は気合のこもった声を上げた。


 この間、京の高氏はただ東を眺めていたわけではない。鎌倉討伐の檄を各地の武士に飛ばし続けている。新田軍に加わった武士の中にも、高氏の檄に応じて参戦に踏み切った者がいる。

 高氏は情報収集を急がせた。京と関東では片道でも数日かかる。現在進行形で行われている、新田軍の鎌倉討伐に関する情報は、少しでも多く、出来るだけ新鮮な状態で手に入れたい。

 しかし、予想以上に新田軍の勢いは凄まじかった。六波羅を落としたときの高氏以上のものを感じる。

「このままではまずいな、次郎」

「新田が鎌倉を落としたとなれば、かの者たちの力が増すのは必至。そうなれば、我らの立場が微妙なものとなりますな」

 この時代は、出自と実力の両方が重んじられていた。新田氏は今のところ、実力では足利氏に大きく劣る。だが、鎌倉を陥落させたとなれば、後醍醐が始めるであろう新政権で、多大な実力――即ち恩賞を得ることになろう。そうなれば、出自の面がほぼ互角なだけに、足利氏の立場が盤石のものではなくなってしまう。

「同等の勢力が二つ以上あれば、そこには戦乱の気運が生じかねない。新田を我らと同等のところまで押し上げるのは、危険だな」

「しかし、今のところ新田軍には大きな欠点があります。戦後処理次第では、どうにか出来るかと」

「そうだな。だが、後になってからでは遅い。……次郎、細川の三兄弟を今から鎌倉に送ることは出来るか」

「鎌倉とは、新田の方でございますな?」

「そうだ。新田軍には千寿王がいるが、より足利の存在を知らしめておく必要がある。無用の衝突を避けつつ、主導権を握る。そういうことならば、細川らに任せるのが最上だと思うが」

 高氏の言葉に、次郎は頷いた。すぐさま手配をするために退室する。

 残された高氏は、溜息をついてその場に寝転がった。

「……鎌倉は、落ちるであろうな」


 新田軍と鎌倉軍の戦いは五月十八日から二十二日まで続いた。その戦の激しさは、梅松論によると、

 同十八日(元弘三年五月)より二十二日に至るまで、山内小袋坂・極楽寺の切通以下、鎌倉中の口々、合戦の時声、矢呼び、人馬の足音しばらくも止むときなし

 という様相だったらしい。

 当初新田軍は三方から鎌倉を攻めた。鎌倉軍も当然必死の抵抗を試みたが、ここでもやはり士気の影響が出た。二十一日には大勢は決し、新田軍は鎌倉の市街へと突入を果たしたという。

 もはやこれまでと覚悟したのは、長崎円喜、高資親子、そして北条一族の者ほとんどだった。高時も泰家も、そして高氏にとっては義理の兄に当たる守時も。

 守時は執権職にありながら、高氏との関係のせいか、鎌倉内での立場は悪化していたようである。迫りくる新田軍を相手に奮戦するも、敵わぬと見て自刃し果てた。

 長崎父子や高時、そして多くの北条氏は東勝寺に向かい、そこで自害した。このとき北条氏及びそれに従って亡くなった人の数、八百を超えたという。六波羅探題のときもそうだったが、北条氏の最後というのは、なにやら壮絶な印象がある。

 新田義貞が挙兵してから一月と経っていない。

 鎌倉幕府の幕末は、このようにして一応終結したのである。

 高氏によって派遣された細川兄弟は、まだ鎌倉に到着していなかった。

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