六 九月某日
久しぶりの嘘キス、続き。
いよいよ? 作務衣の君の正体判明。
三・ 九月某日
「藤田さん、いま帰り? よかったら一緒に帰らない?」
終業の音楽が鳴りオフィスの中は一斉に帰り支度が始まった。
今日は給料日後、最初の金曜日。皆予定があるのだろう。
陽菜に声をかけてきたのは同じ部署だが別のチームで二年先輩の長谷川徹だ。
マウスに手を置いたまま陽菜は顔だけ長谷川を振り仰いだ。
「すみません、今日は残業なんですー。新しく参加企業が二社増えたので、顧客データの入力を終わらせてから帰ろうと思って」
週明け月曜朝一に必要となることがわかっているので今日中に終わらせなければいけなかったのだが、現在進行中のプロジェクトに一部変更が出たためゴタゴタしていて間にあわなかったのだ。
「そうか、残念。じゃまた今度ね」
長谷川は爽やかに笑い、片手を上げた。
「お疲れさまでした!」
さぁて、もうひと踏ん張り。
と、気合を入れ直してデスクに再度向かった陽菜の頭を隣にいた拓が小突く。
陽菜と同じ理由で拓も残業なのだ。
「なにさりげなく誘われてんだよ」
「はぁ? 別に一緒に帰るぐらいいいでしょ」
拓があきれると同時に苛立たしそうな声で言う。
「……おまえなぁ、金曜のアフターに誰が気のない女を誘うんだよ」
「深読みしすぎ。長谷川さんとは前にも一緒に帰ってるけど駅までだよ」
「前にも?」
「そう。フツーに喋って駅まで一緒しただけ。それより、さっさと終わらせよう。お腹すいちゃった」
それから陽菜と拓は黙々と入力作業に徹した。
二時間ほどで完了したときにはオフィスに残っているのは陽菜と拓の二人だけだった。
「帰るか」
「うー。眼がしぱしぱする……」
「眼薬あるぜ。使うか」
「ありがとう」
拓が引き出しから取り出したロートZiを借りる。拓は意外に用意がいい。陽菜がアレコレと呟きを漏らすたび、その都度、色々なものが引き出しから取り出される。拓のデスクは四次元ポケットのようなのだ。
二人で帰り支度を整え自社ビルを後にし、駅に向かう。
「俺、腹へったからそば食って帰るけど、おまえも行く?」
「おそばかあ」
どうしよう。
陽菜が迷っているところへ拓がぼそりと呟く。
「そこ、のれん出ししてない銀座の老舗。知る人ぞ知る隠れ名店。すげーうまい」
「行く!」
「おう」
「なんていうお店?」
「蘭丸庵」
二駅隣の銀座駅でメトロを降り、あとは徒歩だ。
銀座五丁目から六丁目に向かう途中で一本通りを中に入り、数寄屋橋交差点近くのビル一階に蘭丸庵はあった。
本当にのれんはかかってない。木の引き戸に蘭丸庵と小さな木の表札だけがある。灯りはついているものの、これはひとりでは入りづらいものがある。
「どうした?」
「拓、さ、先に入って」
尻込みする陽菜に首を傾げながら拓が引き戸を横に引く。堂々と慣れた振る舞いに陽菜はちょっと尊敬して言った。
「すごいね」
「なにが」
「こんなのれんもないような銀座のお店を知ってるなんて」
「いや、もともと親父の行きつけの店なんだ。金沢に引っ越す前はしょっちゅう通って来ていたから俺は付き合わされたクチで――」
喋りながら中に入ると、
「いらっしゃいませ。あら! 沢木先生の息子さん」
和服姿のおかみさんが拓の顔をみて明るい表情になった。
「どうも、ご無沙汰しております」
「まあまあ立派になって。おひとり?」
「いえ、連れが」
やや照れ臭そうに拓が陽菜を紹介する。
店は二十人も入ればいっぱいの小さな店で、カウンターと椅子席がある。すべて木造り、灯りも掛け軸も花瓶もすべてモダン和風だ。
「かわいらしいお嬢さんね。お席は? 先生のお隣り? それとも別で?」
「え?」
拓が視線をカウンターに向けた。途端、信じられないというふうに眼を剥いて叫ぶ。
「親父!」
店内には十名ほどの客がいたが全員拓の大声にびっくりしたようで、「なにごとか」とそばを啜るのを中断し、なりゆきを眺めている。
拓は血相変えてつかつかとそちらに近寄り、カウンターに手をついた。
「なにやってんだよ、明日締め切りだろう! 呑気にそばなんて食ってる場合かっての! いや待てよ、ここにいるってことはちゃんと原稿上げたのか……?」
「いいや」
「っ。編集者に――辻本さんに一言断って来たんだろうな!?」
「言ったら止められるよ」
「俺が通報してやる。陽菜悪い、ちょっと電話して来るから座って待っててくれ。あ、ついでにそこのダメ親父が逃げないよう見張っていてほしい」
携帯を片手に憤然と拓が外に飛び出す。
陽菜は茫然としていた。
「……」
こんなことってあるのだろうか。
作務衣の君だ。
作務衣の君が眼の前にいる。
今日は青色の刺し子作務衣に草履をひっかけている。相変わらずとびきりすてきだ。
カウンターには、せいろ、そば猪口、薬味の小皿、漬物の小鉢をのせた漆塗りの黒い盆があり、割り箸は二つに割られている。たべかけなのだ。
「お嬢さん、どうぞこちらに」
作務衣の君に優しく手招きされ、おかみさんが案内してくれる。
陽菜は夢心地でぎくしゃくしながら作務衣の君の隣の席に腰かけた。
「女性を放置していくとはけしからん奴だ。無作法な息子ですみませんね。私は不肖の息子の不肖の父親で、沢木義郎と申します。お嬢さんのお名前は?」
「ふ、ふ、ふ」
緊張してどもってしまう。
まさか作務衣の君が拓のお父さんだったなんて!
信じられない。どうしよう。この偶然を喜ぶべきか。既婚者であったと悲しむべきか。
陽菜は内心頭を抱えた。拓の家の家族構成は知っている。両親と弟。確か、お母さんは専業主婦、お父さんは専業作家だったはずだ。
動揺から立ち直れぬまま、なんとか自己紹介はする。
「藤田陽菜です」
「拓の彼女かな?」
「いえ、高校が一緒でいまは同僚です」
作務衣の君――義郎はにこりと笑った。
「すまないが、そばが伸びるといけないので食事を続けさせてもらってもいいかな?」
陽菜がこくこくと頷くと、義郎はおかみさんに柔らかく呼びかけた。
「チヨさん、陽菜さんにお好きなものをさしあげてくれませんか」
おかみさんはチヨと言うらしい。
メニュー表を差し出されたそこへ、拓が戻ってきた。
陽菜が義郎の隣席にいるのを見て一瞬だけ渋い顔をしたがなにも言わず、陽菜の隣の椅子を引く。
「いま辻本さんが迎えに来る。それ食ったらおとなしく帰って仕事しろ」
「ちょっと息抜きに出ただけじゃないか。そう怒らんでも……」
「ちょっとじゃないから怒っているんだろう! だいたい、いい大人が何度も何度も締め切りを破るんじゃない。挙句に行方知れずなんて、辻本さん発狂寸前だったぞ」
「あのひとはいいひとだけど、締め切りを守らせたがるのがねぇ、僕はどうも性に合わんのだなぁ」
「締め切りは守るのが筋なんだよ」
「うーん、それはまあそうかもしれないが、世の中には締め切りより大事なものがあるだろう。ほら、そばとか鮨とかすきやきとか団子とか」
「全部食いものかよ!」
義郎も拓もまじめなのだが、傍で聞く限りは漫才だ。
陽菜は思わず「プッ」と笑い、店のそこかしこで笑いがこぼれた。
拓はすぐさまそれに気づき赤くなると、自重した。
「悪い、おまえを放っておいて。なに食う? せいろでいいか?」
「うん。拓のおすすめでお願いします」
「チヨさん、せいろ二枚頼みます」
注文してから五分ほどで義郎とまったく同じ膳が二人前届けられる。
陽菜は箸を割りながら拓に訊ねた。
「おそばの正しい食べ方ってあるの?」
「まずはそのまま一口食って香りを愉しむ。次に噛む。そばを飲み込み喉ごしを愉しむ。それからつゆにつける。次に薬味と合わせる。それからわさびを少しずつ溶く。そばは啜って食べるのが基本だな。でも無理はしなくていい」
「そうですよ。おいしくいただくのが一番です」
義郎は拓の叱責などどこ吹く風で、そばを啜る音を派手に立てながら勢いよく食べている。陽菜も挑戦してみたが、噛まずに飲むというのは難しい。
だが、文句なくおいしい。
「こんなに風味がよくてコシのあるおそばってはじめて」
「うまいだろ?」
「うん!」
「やあ、やはりここの店のそばが一番うまいなあ。どれ、もう一枚――」
そこへ、バンッと扉が開き、風がビュウッと舞い込んだ。
スーツ姿で三十代がらみの眼を血走らせた男が扉を手で押さえつけたまま甲高い声を張り上げた。
「先生――っ! なーにーしーてーいーるーんーでーすーかぁぁぁあああ」
「ああ見つかった」
義郎が肩を落として嘆息する。
編集者辻本さん? は問答無用で義郎を急きたてる。
「さあ、帰りますよ。輪転機は待ってくれないんですからっ」
「仕方ないなぁ……陽菜さん、今度またゆっくりお会いしましょう」
「はい」
陽菜はうっとりと義郎の後ろ姿を見送った。
おそばもおいしかったが、義郎に再会できた喜びはそれにも勝る。
「えへへへへへー」
「……なんだよ、ニマニマ笑って。チヨさん、もう一枚追加お願いします」
拓は本当にお腹が空いていたらしく、もう四枚目だ。
陽菜は一枚でお腹がいっぱいになり(胸もいっぱいになり)、ひとりで義郎との運命的な再会の余韻に浸っていた。
「で、なに? 顔、ゆるみまくってんぞ」
そりゃあそうだろう。
陽菜は両手を頬にあて、ぽーっと現を抜かしつつ言った。
「実はね」
拓は無言で頷きながら箸を休めずそばを口に運ぶ。
「義郎さんが私の運命の人だったの!」
「ぶーっ」
拓が豪快にふいた。
「ぎゃーっ。拓、汚い! なにやってるのよ、もう」
「てめッ、ゴホッ、そりゃ、ゲフッ、俺の、ゲホッ、セリフだ……っ」
拓は噎せたままお手洗いに駆け込み、陽菜はチヨと後始末をした。
きれいに片付いたころ拓が戻ってきてチヨに侘び、おもむろに陽菜の手首を掴んだ。
「出るぞ」
「え、もういいの? まだ残ってるよ」
「いいから来い!」
「だってお勘定――」
「迷惑料ついでに親父につけてやる。チヨさん、ごちそうさまでした」
「またいらしてね」
「はい! ありがとうございます。とってもおいしかったです」
店から出るとすぐ拓は流しのタクシーをつかまえ、陽菜を促し一緒に乗り込んだ。きちんとシートベルトを締め、陽菜の住所を告げる。どうも送ってくれるつもりらしい。
「それで? 親父がおまえのなんだって……?」
後部座席に肩を並べて座り、拓は腕組みし、眼だけギロリと陽菜に動かした。なぜかわからないが、殺気立っている。こめかみが痙攣し、いまにも破裂しそうなほど血管が膨れて浮き上がっていた。
「だから、運命の人だってば。ほら、憶えていないかなあ。夏に社食で私が運命の人に会ったって話を夏目先輩としていたとき、加藤さんと拓も同席してたじゃない」
「……憶えてる」
「で、そのあと駅前の書店で私がそのひとを見かけて声をかけようかどうしようか迷っていたとき拓に話しかけられて見失っちゃって、お詫びに焼き鳥をごちそうしてもらったでしょ。実は、そのときのひとが義郎さんだったの!」
きゃーっ。
陽菜は有頂天になっていた。
この広い東京の空の下、三度も偶然に会えるなんてこれはもう本当に運命としか思えない!
と、陽菜が勝手に盛り上がっていると横から拓がザバーッと水を差した。
「うち母親健在だから。おまえ、親父と不倫しようってわけ?」
陽菜は途端に真っ暗な気分に滅入って呟いた。
「……ううん、不倫はしない。不倫はだめ。あ、でも後妻とかは大丈夫!」
「断る!」
即答。
陽菜はがっかりした。運命の人が既婚者とは、運命もイジワルだ。
夜景が流れていくタクシーの窓ガラスに頭を寄りかからせて陽菜は「はあ……」と溜め息をついた。
「困ったなぁ……」
「それは俺のセリフだ」
「え、なんで拓が困るの?」
きょとん、として陽菜が問い質すと拓はおそろしく不愉快そうに睨んできた。
「……言っとくが、おまえを親父にくれてやるつもりなんてねぇぞ、俺は」
「どうして」
「どうしてもだ」
それきり拓は押し黙り、タクシーは渋滞に引っかかることもなく陽菜のアパートより少し手前に停車した。
「部屋まで送る」
「いいよ、ここまでで十分」
「暗いからだめだ。送る。ありがとうございました。釣りはとっといてください」
二百数十円のお釣りを受け取らず拓は陽菜と共にタクシーを降りた。
四階建てアパートの三階の真ん中が陽菜の部屋だ。エレベーターで昇り、陽菜の部屋の前まで拓はきちんと送り届けてくれた。
「じゃあな」
拓はさっさと踵を返す。
「今日はごちそうさまでした。おそば、おいしかったあ。義郎さんにもよろしくねー!」
一度去りかけたのに、拓が戻ってきた。
陽菜を威圧的な眼で見下ろしてくる。なにが気に食わないのか、とても剣呑な雰囲気だ。
「……おまえ、なにもわかってねぇな……?」
「なにが?」
「だから……っ。ち、もういい。思い知れよ、ばかやろう」
拓のキャッチャーミットを自在に操っていた大きな左手が陽菜の首を後ろから支える。右手は顎をつままれて、逃げるまもなく拓に覆いかぶさられた。
唇が重なる。強引なキスなのにいやらしい感じはしない。
唇は息継ぎもできないくらいぴったりと塞がれて、抵抗しようにも突然すぎてその気力がわかなかった。
窒息するくらい長いキスのあと、ふらっとよろめいた陽菜を片腕で支えて、拓は陽菜が用意していた部屋の鍵を勝手に奪い、扉を開けると陽菜を押し入れた。
「……謝らねぇから」
鋭くて怖い眼に、愛おしいものを見るようにじっと見つめられる。
「……なかったことにも、させない」
切なげな声で囁くように言いおいて、「ちゃんと鍵閉めろよ」と念押しして拓は今度こそ本当に帰っていった。
こんばんは、安芸です。
晴れて自由の身です(一時的に)。
またすぐ潜るはめになりますが、そのまえに嘘キスを完結させたいものです。
次話完結予定。
引き続きよろしくお願いいたします。
安芸でした。