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嘘キス  作者: 安芸
第一話 一枚上手な後輩
3/15

三 六月某日

 最終話です。


     三 六月某日



 赤坂某プチホテルのブライズルーム。

 夏目は純白のウェディングドレスを着て、ソファに座り込んでいた。扉一枚隔てたホワイエからは、和やかな談笑が微かに聞こえてくる。

 なぜこんなことになったのだろう。

 この成り行きに、まだ頭がついていかない。


「悪夢としか思えない……」

「……」


 さきほどからずっと、白いタキシード姿の信哉が背中を擦ってくれている。

 だが一向に気分はよくならない。


「逃げたい」

「式から? 俺から?」

「両方」


 夏目は眼を瞑った。夢なら醒めてよ、と切に願う。



 ことの起こりは一昨日の夜。

 最近、信哉は夏目のマンションに入り浸っていた。明日も仕事なのに、今夜もここに泊まる気だ。


「見合い?」

 

 信哉と二人でシャワーを浴びたあと、ビールを飲みながら、夏目は切り出した。


「そう。父が勤める会社のお得意様だって。部長だか専務だかの息子が私の写真を見てすごく乗り気らしくて、ちょっと断れそうにない。ごめん」


 夏目は謝った。まがりなりにも恋人がいる身で、黙って見合いはないだろう。


「……行くの?」


 恐ろしく顔が険しい。

 すっと細められた眼は天敵を見出した肉食獣のそれだ。自分の利に反するものを排除しようと、冷たく底光りしている。


「行きたくないけどね」

「じゃあ行かないでほしい」

「そうもいかないんだって」

 

 夏目は冷蔵庫から二本目のビールを取り出した。横から信哉が手を伸ばし、プシュッとプルトップを抜いてくれる。


「私だって断れるものなら断りたいよ」


 見合いなんて、面倒くさい。

 本音が顔に出ていたのかもしれない。

 ソファに座った夏目の上に信哉が覆いかぶさってきて、頬の輪郭をなぞられる。


「俺と結婚するから無理って言ったら?」

「そんな嘘ついても後で困るし」

「嘘じゃなくすればいい」


 信哉が身体を引いた。バスローブを脱ぎ捨て、シャツとジーンズに着替える。


「はい?」

「いまから区役所行って、婚姻届もらってくる」

「は? え? ええ?」

「他にも寄ってくるから、夏目さん、先に寝てていいよ」


 黒のジャケットをひっかけ、車のキーを手にしながら信哉が玄関に向かう。

 夏目は慌てて呼び止めた。


「飲酒運転禁止!」

「飲んでないし。俺、夏目さんと一緒のときは基本飲まないことにしてるから」

 

 クスクス笑いながら、信哉がチラリと一瞥を投げてよこす。


「どこかの誰かさんは、酔っ払うとすーぐ記憶を失くすから、俺が素面で気をつけていないと」

「亭主みたいなこと言わないで」

「はは」


 高揚した急ぎ足で信哉が出かけて行った。

 夏目はちびちびと二本目のビールを飲みながら、嫌な汗をかいていた。


「……冗談、冗談、だよね。だっていまから区役所行ったって窓口終わってるし……いや待てよ。確か、婚姻届だけは二十四時間三六五日受付しているんじゃなかったっけ?」


 考えれば考えるほど、どんどん、不安が膨らむ。

 じっとしていられず、夏目はビール缶を手にしたままリビングを右往左往した。

 この夜、信哉は帰って来なかった。


 翌日、金曜。

 寝たんだか寝ないんだかひどい状態で夏目が出社すると、信哉は既に出勤していてキビキビと動いていた。昨日と違うスーツを着ているところをみると、一度家に帰ったらしい。


「森さん、おはようございます」

 

 爽やかな挨拶に殺意を覚える。

 人が寝不足でブサイクだというのに、なんだその無駄にいい笑顔は。

 だが、会社ではただの同僚だ。おかしな態度はとれない。

 夏目はいつも通り素っ気ない口調で、「おはよう」と挨拶をした。

 昼休みになっても信哉のリアクションはない。なにも言ってこないし、メールや着信もない。ようやく、婚姻届云々は本気じゃなかったのだ、と夏目はほっとした。途端、ひどい脱力感に見舞われる。

 なんだかどっと疲れた……。

 この日も信哉と一緒に食事して、シャワーを浴びて、ゴロゴロして、夜は無茶苦茶にされた。二人でいやってほど快楽に溺れたあとで、眠りに落ちた。


 土曜の朝。

 休みだというのになぜか早くに起こされて、


「なによぉ」

「行くよ」

「どこ」

「エステ」

「いってらっしゃあーい……」

「俺が行ってどうするの。夏目さんが行くの。前にいっぺん試してみたいって言ってたろ? 予約してあるから、早く」


 言ったっけ? そんなこと。


 腑に落ちない。だが、飲んだら記憶はよく飛ぶので、言ったのかもしれない。

 そこで渋々、あまり気乗りしないままエステへ。フェイスとボディの両方、二時間かけてたっぷりマッサージしてもらう。

 ここまでは天国だった。

 そのあとには転落が待っていた。


 眼を開けた。やはり夢ではないらしい。

 夏目は胡散臭いぐらいタキシードが似合っている信哉を睨んだ。

 疑問は色々ある。ありすぎて困る。文句も山盛りだ。

 だがなによりまず言っておきたいことは、


「誰があんたと結婚したいなんて言ったのよ」

「見合いするの、嫌だったんでしょ? 俺と結婚しちゃえば見合い話なんて即ご破算だよ」

「そりゃそうだろうけど」

「そんなに俺が嫌い?」

「き、嫌いなわけではないけど」

 

 こんな勢いに任せて結婚するのは、さすがに良識的にどうかと考えるわけで。

 信哉は屈託ない調子で続ける。


「さっきちょっとチャペル見てきたんだ。バージンロードがビーズとガラスでキラキラしていた。あそこを夏目さんが歩いて俺のところに来るの、楽しみだな」

「……指輪は?」

「それはもうだいぶ前から用意してあるから、大丈夫。サイズもリサーチ済み」


 用意周到だ。

 唸る夏目の眼の前で、信哉が取り出したのは婚姻届。信哉のサインと捺印がしてある。

 更に、万年筆と『森』の印鑑までしっかり準備されていたのには絶句した。


「さすがに式場までは予約してなかったんだけど、さいわい、今日ここの時間帯に直前キャンセルがあったらしくて。うまく押さえられてよかったよ」


 六月の花嫁(ジューン・ブライド)だ。

 その上、両家の両親に挨拶し、友人、会社の上司、同僚に知らせ、式への出席を頼む手際の良さ。人海戦術でやり遂げたらしいが、それにしたって。


「あり得ない……」

「夏目さん」


 信哉が傍に跪く。グッと手を握られる。真剣な眼に射貫かれた。

 ぎくりとする。

 プロポーズのセリフなんて聴きたくない。どんなに熱い言葉を囁かれたところで、いまのこの心境では頷く気持ちにはなれない。そうなると、どうなるか。

 夏目が蒼くなったのを見て、信哉は開きかけていた口を一旦閉じた。

 なにか考えているようで、黙り込む。ふと、表情が一変した。


「提案」

 

 信哉がニッと不敵に笑い、提案の内容を口にする。


「……」


 夏目はいま信哉に言われたことを反芻した。

 じわじわと、いや、ムラムラと、滅入っていた気分が高揚して来る。自分でも眼が輝くのがわかった。


「それ、いいかも」

「結婚する気になった?」

「一応」

「俺を愛してる?」

「そこそこ好きだけど、愛してはいないんじゃないかな」

 

 はっきりひどいことを告げても信哉は落胆した様子はなく、からりと笑って、


「夏目さんのばか正直で率直なところ、かわいいです」


 手を引かれて立たされる。

 壁にかかっていた瀟洒なレースのベールを取ってきて、信哉がふわりとかぶせてくれた。


「誓いのキスは嘘でもいいよ。いつか、さっきの提案の結果に満足がいったときに、本物のキスをしてくれれば」

「だいぶ先の話じゃない」

「いいよ、待てる。俺は夏目さんを愛してるから、それくらいは苦じゃない」

「こんな女のどこがいいんだか……」


 呆れてしまい、ものも言えない。

 信哉は指折り数えて並べ立てた。


「仕事の鬼で、オッサン観賞が趣味で、パチンコや競馬が好きで、酒豪でもないのに大酒飲みで、手がかかって、ぐうたらで、面倒臭がりやで――」

 

 ちっとも褒められていない。

 夏目がむっとしたのがわかったのか、信哉は取りなすように続けた。


「人に媚びない、家族や仲間を大事にする、思いやりがある……俺が声をかけた誰ひとりとして、式への参列を断られませんでした。人望がありますね」

 

 気恥ずかしくなってきた。

 夏目がばかなことを訊いた、と後悔して俯くと、軽く抱きしめられた。

 信哉は幸せそうに呟いた。


「ありのままの夏目さんが好きです」


 三回、ノックがあった。

 扉が開かれる。


「お時間です」

 





























      おまけ




「それで、プロポーズになんて言われたんですか」

 

 月曜。

 普段通り出社し、社内全体が祝福ムードの中、やりにくさを感じつつも、はじまってしまえば仕事は仕事だ。いつも通り、妥協知らずの鬼になる。

 だが予想通り、昼の休憩は女子社員に拉致された。

 連れていかれたのは、なんと社食。当然、満員御礼。


「こ、ここでなにを話せと」

「だから、プロポーズです。どんなふうに口説かれたんですかあ?」

「い、言わなきゃだめなの? 恥ずかしいんだけど」

「だめです。皆の王子を奪ったんですから、それくらい当然です」


 どちらかというと、奪われたんだけど。

 なんて口を滑らせたら、袋叩きだな。女の嫉妬はコワイのだ。

 いったいこの場をどう切り抜けようかとダラダラ汗を流しているところへ、計ったようなタイミングで信哉が丼物を載せたトレイを手に現れる。

 天の助け! と思いきや、信哉はにっこり微笑んで、


「俺の奥さん、あんまり苛めないでね」

 

 火に油を注ぐばかがいる。

 女子社員は「きゃーっ」と黄色い歓声を上げながら、嫉妬と羨望もあらわに、口々に別のことを叫びながら夏目に殺到した。

 もう揉みくちゃだ。

 こんな中で、言えやしない。

 夏目は信哉の『提案』を思い返して、ぼっと赤面した。




「光源氏が紫の上を好みの女に育てたみたいに、夏目さんも俺を好みのオッサンに育てればいい。老眼鏡が様になるような、さ。――どう?」






                                          完


 嘘キス 完結です。


 お付き合いいただきました皆様、ありがとうございました!

 夏目と信哉の二人語り、いかがでしたでしょうか?

 少しでもお愉しみいただければさいわいです。


 引き続きよろしくお願いいたします。

 安芸でした。

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