十二 三月某日
終幕です。
毎日毎日家に来るので、いちいちインターフォンでのやりとりが面倒くさくなった司は黒崎に合い鍵を渡した。
黒崎は感無量という表情でしばらく石になっていたけれど、別にあげるわけじゃなくて交際期間中だけ貸すのだと説明すると微妙そうに眉をひそめていた。
第二の我が家のように黒崎は司の部屋に出入りしていたが、色っぽい関係になることはまったくなく、平日は夕食を作って二時間ほど寛いで帰り、休日は昼食と夕食を作って部屋デートと言う名のだらけた時間を過ごす。
たまに二人で外出しても、行き先はスーパーだったり、近所の公園だったり、レンタルショップだったり、本屋だったり、珈琲豆を直売しているカフェぐらいで、デートらしいデートはしていない。
こんな調子でいいのかな? と黒崎の様子を窺っても不満そうな顔一つすることなく、ただ一緒にいる。
口説かれることもなく、特になにかを要求されることもない。
朝起きて、仕事に行き、一緒に夕食をとって、寛ぐ。
過ぎる日々。
そんな日常。
「片桐さん、一緒に外ランチしませんか」
珍しく、課内の女性の同僚に誘われた。
「はい、行きます」
と、司が返事をすると意外そうな顔をされた。
女性四名と連れ立って、近くのサンドイッチ・カフェに行く。ログハウス風の店内は昼時なだけあって混み合っていたが、運良く席を確保することができた。司はフルーツサンドイッチとカプチーノを注文した。
ボリュームたっぷりのサンドイッチを頬張りながら、中の一人が言った。
「片桐さんって、課長とお付き合いされてから変わりましたよね」
「……そうですか?」
「そうですよ。前はこんなふうに誘っても、困った顔をされるからなかなか声をかけられなかったんです」
そうかもしれない。
司は食べる手を止め、正直に答えた。
「……人と話すのが、あまり、得意じゃなくて。それに、よく怖がられるから、皆の中にいると迷惑かなって……思って」
「ええー? そんなことないですよぉ」
「あー、けど確かに、怖いというか、とっつきにくい感じはしたかなー」
やっぱり。
司が凹むと、隣にいた女性が「でも」と続ける。
「最近は違いますよ。角が取れたっていうか、雰囲気が柔らかくなったっていうか、感情が顔に出て話しかけやすくなりました」
「うんうん、ブラック課長とのやりとりなんて、夫婦漫才の域だよね」
「私は課長が哀れで見ていられないわよ。あんなにアプローチしてるのに、片桐さん、スルーしてばっかりで。つれなさすぎ。意外とS?」
司は首を傾げた。
「Sって?」
「SはSでしょ! サド。サディズム。相手を痛めつけて喜ぶ趣向を持ってる人のことよ!」
思いっきり噎せた。
カプチーノが気管に入り、咳き込む。
「ち、ちがい、ます……っ」
必死に弁明すればするほど、笑われた。
しまいには司も一緒になって笑った。
三月は年度末の決算があるため、忙しい。
一時期は「ホワイト課長」と陰の呼び名が変わったこともある黒崎だったが、最近は「ブラック課長」よりも格上の「暗黒魔王」と新たな称号がついた。一秒でも暇そうにしていると怒号が飛んでくる。それくらい多忙で、時間は瞬く間に過ぎていった。
そして、とうとうこの日を迎えた。
お見合いから三ヶ月――交際期間終了日。
束の間の関係が、終わる。
「ちょっと寄らないか」
黒崎と二人で司のマンションへ帰る途中、誰もいない夜の公園に寄り道した。昼中は子供に占拠されるブランコに足を持て余しながら乗る。軽く地面を蹴ると、軋んだ音を立てて前後に揺れ動く。
しばらく無言でブランコを漕いでいると、後ろに立った黒崎が背中を押して、大きく、高く、身体が空中に舞い上がった。
「片桐」
「はい」
「おまえに渡したいものがある」
ブランコが急停止し、反動で前のめりになった司を黒崎は片腕で支えた。
「これを」
差し出されたものは、四つ折りの紙片。広げて驚いた。外灯の仄かな光の中に浮かび上がったのは、子供のラクガキのようなつたない絵だ。
「――宝の地図! まさか……彼が見つかったんですか!?」
司は黒崎を振り仰いだ。信じられない気持ちで声が上ずった。
逸る思いで問い詰めた司の前で黒崎は気まずそうに頭を掻いた。
「いや……おまえはたぶん信じないだろうけど、それ、俺」
「え!?」
「二十一年前、おまえと会ったのは俺だ。通夜の席でひとりつまらなそうにしていたおまえに声をかけて、二人で遊んだ。おまえはすぐに俺に懐いてさ、別れ際、泣いて泣いて、あんまり泣きやまないから、宝物を半分やるって約束した。次に会ったとき一緒に掘り出しに行こうって、だからそれまで待ってろって、迎えに行くからって別れた。でもそのあと、おまえ引っ越しただろ?」
司は唖然として黒崎の話を聞いていた。
「あのあと親に頼んで住所調べてもらって、訪ねて行ったときにはもう引っ越したあとで……当時は結構凹んだっけな。ああ、もう会えないんだ、宝物も埋もれたままになるんだ、ってさ」
「どうして。探しに行かなかったんですか? 場所がわからなかったとか?」
「は? おまえと二人で掘り出しに行こうって約束したものを、俺だけで行けるかよ。場所はまあ、自分で埋めたからわかるけどさ……でも二十年も経ったからな、いまもあるかどうかはわからないけど」
「すみません……」
「謝るなよ。おまえが悪いわけじゃないだろ」
黒崎の声が優しく響く。こんなに……こんなに優しい声だったろうか。
「おまえと再会したのは四年前の入社式だ。新入社員の名前が呼ばれたのを聞いて驚いた。自分でも未練がましいとは思うけど、名前だけははっきり憶えていたんだよ。大人になって、ずいぶんきれいになっていたけど、あのときの女の子だってすぐにわかった」
司は申し訳なさで胸がいっぱいになった。あいにくと、彼のことはなにひとつ憶えていなかったのだ。顔も名前も声も。
「でも別部署に配属になったおまえとの接点は〇に等しかった。それに俺も課長補佐に昇進したばかりで忙しくて、あっという間に三年が過ぎた。転機が訪れたのは一年前、おまえが俺の課に転属になり、俺が課長職に昇進して課長補佐を選べと通達があった。俺は迷わずおまえを推薦した」
「それは憶えています。移動したばかりで無茶を言うなあ、と恨みました」
「すまん」
黒崎が笑う。
「でも、おまえを俺の傍に置くための千載一遇のチャンスだった。それからはあの手この手で口説いてきたつもりなんだが……おまえ、全然気がつかないし」
「……そんなこと、ありましたか?」
「さんざん、パーティやレセプションに出席しただろう。現地調査と銘打ってドライブや食事にも出かけたし、最近では手料理でもてなした」
胃袋から攻めようと思う、と黒崎が言ったセリフは記憶に新しい。
司は肩越しに黒崎を振り返り、狼狽もあらわな、ひきつった顔で訊いた。
「あの……前におっしゃっていた『以前からどうしても落としたい女』って、もしかして私のことですか……?」
「おまえ以外に誰がいる」
「すみません」
「いいさ。俺に対してだけ鈍感なふりをしているんだったら焦るが、誰が相手でも同じだったからな。飲み会やコンパ、合コン、女子会、ほとんど全部断って、新年会だの忘年会だの、会社主催の集まりは出席しても隅っこで壁の花になっているし、男社員が束になって言い寄っても見向きもしないし」
「言い寄られてなんていません」
「だからそれは、おまえが気づいていないだけだって」
「そんなことありませんよ」
「あのなあ、おまえはもっと自分に自信を持てよ。それだけ美人でスタイルよくて、高学歴で仕事もできて――って何拍子も揃ってるいい女だろう。それでもてないわけがあるか」
「でも、つまらない女です」
「自分でつまらないなんて卑下するな。おまえは不器用だが真面目で、人付き合いは悪くて愛想もないが根性はある。俺の下に就くなんて楽じゃないだろうに、不平不満言わずに的確に業務をこなす。そういうおまえを、見てる奴は見てるんだよ。まあ俺がいくら口で説明したところで、おまえが信じようとしないなら、それまでだけどな」
黒崎が苦笑し、司の頭をクシャッと掻く。
「……あの日、祝勝会で酔っぱらったおまえを俺の部屋に連れ帰ったあの夜、俺の腕の中で無防備に眠るおまえを見て、このまま離したくないと思った。おまえがいつでも安心して眠れるように、俺が傍についていたい。二度と見失ってたまるものかと、そう強く思ったから――勝負に出ることにした」
月が雲に隠れた。
ふっと黒崎の頭上が暗くなり、顔に影が差した。
「クリスマス・イヴの日……プロポーズしようと思って一世一代の覚悟で訪ねたのに、おまえはなんだか迷惑そうだわ、訝しそうだわ、勘違いしてるわで、肩すかしをくらって、あんな……ケンカ腰で、叩きつけるような……」
黒崎の声がだんだん消え入るように小さくなった。
司もあのときのことは詳細に記憶している。
「片桐司、俺と結婚してくれ」
「謹んでお断りします」
そう告げた。
あのときは黒崎の気持ちがまるで心に響かなかったから。
黒崎は上司で自分はいち部下。
黒崎の想い人が自分だなんて、まるで考えもしなかった。
もっと思いやりのある言葉を選ぶべきだったのかもしれない、とは後で思ったこと。だけどあのときは驚きと嫌悪さえ感じて咄嗟にそこまで気が回らなかった。
黒崎は真っ暗になって、ただごとではない悲壮感を漂わせ、ふらふらとよろめきながら雪の中を帰って行った。司が押し返した赤いバラのリースと受け取らなかった指輪の箱を手に持って。
黒崎の手が司の両頬を包んだ。
……温かい、優しい手だ。
ときに厳しく鋭い眼が、いまは不安を抱えて司を切なげに見つめている。
「今日で三ヶ月……見合いの交際期限が切れるわけだが」
「……そうですね」
相槌を打つと、黒崎が司の頭をそっと抱き寄せた。
黒崎は緊張のためか、少し震えていた。
「……おまえは年上趣味で、年齢的には俺じゃ不満かもしれない。だが、俺よりおまえを好きな男はいない。一生大事にする。だから、いますぐじゃなくていい。おまえが俺のプロポーズに応えてくれる気になるまで待つから――断るな。嘘でもいいから、俺を好きだと……嫌ってはいないと認めてほしい。もう少し結婚を前提とした交際を続けたいと、そう言ってくれ。頼む」
抱きしめる強い腕に全身を委ねたくなるような深い安心感を覚えながら、司は薄く微笑んで、かぶりを振った。
黒崎が固唾を呑んで凍りつく。
司は身動ぎして顔をもたげ、黒崎を見つめ返しながら言った。
「謹んで、お断りします」
おまけ
「どうしてこんな山奥なんですか!」
「だからスカートにパンプスじゃ無理だと言っただろうが!」
「だったらはじめから歩きやすい服装で来いとか教えてくださいよ!」
「そう言っただろう!」
「聞いていません!」
あーだ、こーだ、と不毛な口げんかをしながら、山を登ること三十分。
ついに、山頂に到達した。
「待って、少し休ませてください」
足腰が悲鳴を上げていた。普段アウトドアなど縁のない生活をしているだけに、足場の悪い山道を三十分も歩いたらクタクタになっていた。
「運動不足だな」
黒崎が笑いながら司の手を引いて山頂に転がる岩の一つに座らせる。持ってきたペットボトルの水を寄こされたので、司は遠慮なく飲んだ。
「生き返る―……」
「下向いてないで上見ろ、上。空がきれいだぞ」
黒崎の手に背中を擦られて、ノロノロと首を真上に向けた。電線のない真っ青な空と綿菓子のようなふんわりした白い雲の塊が眼に飛び込んでくる。
「本当ですね。きれい……」
それから呼吸が落ち着くまで、二人でのんびりと山頂の静謐な空気を味わった。
「春ですね」
「春だな」
冬の灰色の景色が遠ざかり、春の緑が萌えはじめた。まもなく桜も咲くだろう。
どこかで鶯が「ホーホケキョ」と明るく鳴いている。
黒崎が司の手からペットボトルを取り、自分も口をつけてから言った。
「今更だが、あのときは心臓が止まったぞ、本当に」
「まだ根に持ってるんですか?」
「根に持ってるわけじゃないが……二回目だからな。おまえの『謹んで、お断りします』は。もう二度と聞きたくないセリフだ」
「ちゃんとその場で続きを言いましたよ」
「……それ、もう一度ここで聞きたいと言ったら?」
どこか怯え気味に黒崎の声がかすれた。眼があの夜と同じく不安そうに揺れる。
司は仕方のない人、と半ば呆れつつ、奇妙な優越感に心躍らせながら、三ヶ月の交際期間が終了する日の夜――黒崎に告げた言葉を繰り返し言った。
「結婚を前提としたお付き合いは、もう十分です。待ってもらわなくてもかまいません。……こんな私ですけど、ど、どうか……」
……恥ずかしい。
司は顔を伏せた。手で表情を覆い隠してしまいたい。そんなこと、露骨すぎてできないけど。
「……『どうか』?」
「い、意地悪しないでください。すごく恥ずかしいんですよ……」
羞恥心から上目遣いで睨んでやると、黒崎の指が伸びてきて髪を一筋、耳にかけられた。
「意地悪じゃない……聞きたいんだ。おまえの甘い言葉なら、何度でも」
ねだる声が耳にくすぐったい。お願いだから、そんなに切なげな眼で見ないでほしい。熱い視線に焼かれそう。
……呼吸が、苦しい。
司は黒崎のまなざしから逃げるように顔をそむけた。
「――ま、真昼間から、面と向かって言うのは……勇気がいるんです」
「焦らすなって。聞かせろよ、ほら、こっち向け」
背後からぎこちなく引き寄せられる。
優しい腕に胸がときめく。
司は深呼吸した。すーはー。すーはー。すーはー……。
ゆっくりと肩越しに振り向いて、黒崎の精悍な顔を見つめ返した。
「……あなたの」
「……俺の?」
こえ、が。
かすれる……。
「……お、奥さんに、してください……」
黒崎の表情が喜悦に歪み、嬉しそうにほころぶ。
身体をぐるっと回されて正面から力いっぱい抱きしめられた。
「……いいんだな?」
「……なにがです?」
「俺は、その、自分ではかなり辛抱強い方だと思う。おまえに嫌われないよう、セクハラだーとか間違っても罵られないために、手も繋いでないし、キスもしてない。できるだけ触らないできたんだ」
そうだろうか。
「……頬に触れたり、そのあと抱きしめましたよね?」
「あれは――ちょっと気が急いたというか、おまえを繋ぎ止めるのに必死で……嫌だったか?」
「いいえ、ちっとも」
「そ、そうか。よかった。はは……ははは……は。あの、だから、コホン、いまは正式に婚約したわけで、入籍日や式の日取りはこれから決めるわけだが、その――つまり、れっきとした恋人同士なわけで、肩を抱いたり、手を繋いだり、それくらいは、してもいいのだろうかと、確認したいわけだ」
黒崎は顔を首まで真っ赤にしながら、しどろもどろにそう言うと、司の反応を窺った。
司はすぐに返事をせず、考えて、質問に対し質問で返した。
「私も一つお聞きしたいことがあるのですが」
「なんだ」
「課長の私に叶えて欲しいお願いってなんですか」
すると黒崎は赤い顔を更に赤くし、押し黙ってしまった。司の前で大量の汗をかきはじめる。
「それは、その……」
「そんなに言いにくいことなんですか?」
「いや、そうじゃないが、おまえには一度断られているから……」
「なんですか?」
黒崎は叱られた子供のように俯いた。
「……名前で、呼んで欲しい」
ポツリと呟く。
「おまえは俺のこと、『課長』としか呼ばないだろう。社外でもそうだ。だから」
「――仁さん、でいいですか?」
黒崎が硬直した。地面を睨んだままピクリとも動かない。
司は黒崎の顔をひょいと下から覗き込んだ。
「あのですね」
「な、な、なんだ」
「最初は手を繋ぐことから、はじめませんか?」
いつも傍にいてくれたから、いつのまにかそれが自然になって。
ただ一緒にいてくれたから、素直に接することが苦じゃなくなって。
好きになったことすらもわからないくらい、気がつけば心を奪われていて。
嘘でもいいから――なんて言わせてしまったことを、ひどく後悔した。
「……です」
「え?」
黒崎がわずかに動揺して眉根を寄せる。
「……ですから、あの、……です」
「すまん。聞こえない」
司は精一杯の努力で声を絞り出した。
「……好き、です!」
司の告白に黒崎が弾かれたように顔を上げる。
「……お、俺を?」
「……他に誰もいません」
すると黒崎は心から嬉しそうに、幸せそうに笑った。
「――俺も、おまえが好きだ。愛してる。本当に」
それから、くぐもった声で付け足した。
「……いまだから言うが、おまえが俺の初恋だったんだぞ」
「……いまだから言いますけど、たぶん私もそうですよ?」
照れ臭くて仕方ない。
黒崎の左手が司の手を握りしめる。右手に持つのは、二枚のものを一枚に貼り合わせた宝物の地図だ。
「よし、休憩終わり。宝を探すぞ!」
――宝物が見つかったら。
はじめてのキスを贈ろう。
そしてお返しにキスをもらおう。
心のこもった、世界に一つだけの、大切なキスを――。
完
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どうぞよろしくお願いいたします。