十一 二月某日
司&仁の物語も、残すところあと一話です。
「明日はバレンタインか」
「そうですね」
「既製品でもかまわないが、手作りもいいな。チョコレート、俺にくれるだろう?」
もう我慢できない。
「課長」
「ん、なんだ?」
司はわざわざ箸を置き、向かいに座る黒崎を睨んだ。
「ここは社食です。少しは周囲の眼を考えてくれませんか」
ランチはいつも社食を利用し、一人で取る。それが司の普通だった。
ところが年明けからこちら、外回りや会議を除いては、黒崎があたりまえのように同席するようになった。
黒崎は番茶を啜りながらニヤリと唇の端を歪めた。
「考えているさ。おまえに悪い虫がつかないよう、牽制しているんだ」
すると司の左右隣にいた男性社員が猛烈な勢いでカツ丼を掻き込み、どんぶりを空にすると逃げるように席を立った。こちらの方は一度も見なかったが、黒崎のセリフをしっかり聞いていたに違いない。
社食は満員なのに黒崎と司の隣は空席のままで、誰も近寄ろうとしない。
司は再び箸を握り、Bセットのロールキャベツとマカロニサラダを食べはじめた。
「それとも、俺が作るか」
なにを。
司は眼を上げた。黒崎はAセットのフライ定食とごはん大盛りをゆっくりと噛みながら、上の空でなにか一生懸命考えている。
「ボンボン、トリュフ、ブラウニー、チョコレートチーズケーキもいいな。片桐、おまえなにが好きだ?」
「……私の好きな物を聞いて、どうするつもりです」
「俺がおまえに作ってやるよ、愛のバレンタイン・チョコレート」
あやうく噴き出すところだった。
司はかろうじて失態を演じなくて済んだが、周囲では突然噎せたり、咳き込んだり、器をひっくり返したり、と二次災害が続出だ。やはり、知らんふりをしているようで興味があるのだろう、耳をダンボにして盗み聞きしている。
司は白旗を掲げた。ここで黒崎を止めなければ、またどんな噂が流れることか。
ただでさえ、最近の司は『ブラック課長を恋の坩堝に突き堕とした魔性の女』呼ばわりされているのだ。これ以上の汚名は回避したい。
「課長」
「なんだ」
「既製品でよろしければ、私から課長へチョコレートをお渡しします」
「そうか! じゃあ、楽しみにしている。ああ言っておくが、義理チョコだの友チョコだの、他の男に配るのはよせ。俺の分だけ、本命一つだけだ、いいな」
お願いだから、もう黙って欲しい。
司が返事をせず、食べ終えた食器を片づけるため立ち上がろうとしたところ、正面から黒崎の手が伸びて、ひょいひょい、と器とコップと箸とトレイを持っていかれた。
「いい、寄こせ。俺が下げてやる。おまえはゆっくりしていろ」
鬼上司にかいがいしく世話を焼かれる部下とそれを見せつけられる第三者。気まずいにもほどがある。
いたたまれなさに司は社食を出て化粧室へ行き、そのあと女性専用ロッカールームで時間を潰した。ここなら黒崎が入ってこられないので、最近は避難先として利用している。
黒崎は先日のお見合い以来、堂々と司を口説くようになった。
「おまえは、かわいい」
「俺のために笑ってくれ」
「疲れてないか。寄りかかっていいぞ」
……いままでの人生でおよそ耳にしたことがないほど甘い言葉の羅列に、司は寒気がした。本気で気持ち悪いと思った。たぶん、こんな調子だから、男性とのお付き合いも長続きしないのだ。
恋愛体質じゃない――社会人になり、いっそうその自覚は深まった。
逃げる司を黒崎が追う。その繰り返し。
だがさいわい黒崎は、仕事中は普段通りの鬼上司で、業務指令は過酷、時間厳守、クオリティの高いプランニングを要求し、そこに一切の妥協はない。
反面、休憩時間や終業後は隙あらば司につきまとい、なにかと甘やかしてくる。
そのギャップがあまりにも激しくて、司をはじめ課内の面々はどん引き気味だ。
ただ一部では、
「ブラック課長ってかわいい」
「今度ホワイト課長って呼んじゃおうか」
など、盛り上がる女性たちもいて、その嫉妬とやっかみが半端じゃない。黒崎には黙っていたが、修羅場に巻き込まれたことも二度や三度ではないのだ。
相手にすればするほどエスカレートするとわかっているので、司は無視していた。気がつかないふり、知らないふり、聞こえないふり。聞こえよがしの悪口雑言も、耳を塞いでいれば耐えられる。
でも、なぜ自分がこんな目に遭うのか――ただひたすら真面目に会社に尽くしてきたはずなのに。地味に、静かに暮らしてきたのに。
いまは毎日がスクランブルだ。気持ちが落ちつく日がないくらい、職場でも、家でも、どこにいても、黒崎に振りまわされている。
つくづくと悔やむ。
そもそも、お見合いに行ったのが間違いだった――と、自分の見通しの甘さを司は猛烈に自省していた。
某ホテルでのお見合いは、途中まではつつがなく運んでいた。
空気が変わったのは、黒崎と二人で寒い日本庭園に追い出され、渋々と散歩しながら時間を潰していた最中だった。
池の淵に佇み、ホテル自慢の錦鯉を眺めながら黒崎が不意に言った。
「賭けをしないか」
「お断りします」
「話ぐらい聞け」
「ろくな話ではないと思いますので、嫌です」
今日は休みで、いまは上司と部下ではないのだから対等でいいはずだ。
黒崎の要求を突っ撥ねて気分がよかったのは一瞬で、黒崎は次の一言であっさりと司を打ちのめした。
「俺の話を聞かないなら、明日から毎日おまえのマンションに薔薇を贈り続けるぞ」
「絶対にやめてください」
司は身震いした。クリスマス・イヴの悪夢が甦る。あの日を境にすっかり薔薇嫌いになってしまったのだ。
「じゃあ、話を聞くな?」
「聞くだけなら……」
不承不承そう答えると、黒崎は笑い、スーツの上着を脱いで司の肩にかけた。
「寒いから着てろ。おまえに風邪を引かれたら仕事が滞る」
「……どうもありがとうございます」
司の今日の恰好はタイトなベージュのスーツだった。母は大いに不満そうだったが、司は譲歩しなかった。必要最低限の礼儀を守った支度で十分だ。どうせ断るのだから、おしゃれなどしなくていい。ただ女として手が抜けないヘアメイクとネイルだけは完璧にしておく。
黒崎といえば、深い藍色のツイードのスーツだ。口惜しいがよく似合っている。誰もが振り返る端正な美貌でこそないものの、容姿に自信のある女性が色仕掛けで口説きたがるようなストイックな男の色気がある。
「俺と一つ、賭けをしてくれ」
「拒否権は?」
「ない」
「じゃあはじめからそう言ってください」
選択肢を与えずに自分の望み通りに話を運ぶのは、常に結果を追い求める黒崎の常套手段その二だ。
「それもそうか。単刀直入に言うぞ。俺はおまえの願いをなんでも一つ、叶える。おまえの願いを無事に叶えたら、俺の勝ちだ。そのときはおまえも、俺の願いを一つ叶えてくれ」
「では私との結婚を諦めてください」
「それはだめだ。他の願いにしろ」
「なんでも叶えてくれると言ったばかりでしょう」
「ああ。でもそれは困る。困るから、他の願いにしてくれ」
司はイライラした。このわがままな上司にいいかげん頭にきていた。
「あなたの顔を二度と見たくないと言ったら?」
「それも困るから、別の願いを言え。俺はおまえに会えなくなったら、寂しくて死ぬ」
司は凍った。そのまま前のめりに倒れて、危うく足を滑らせ池に落ちるところだ。昼間からしらふでなんてことを言うのか。
黒崎はもう鯉を見つめてはいなかった。苦しそうな眼で、司だけを見ていた。
「もっとあるだろう、まともなことが。欲しい物とか、行きたいところとか、やってみたいこととか、夢とか――なんでもいい。言えよ、本当の願いを。俺が叶えるから」
月が欲しいとか、宇宙旅行に行きたいとか、政府専用機を飛ばしてみたいとか、そんな突拍子もない願いを言っても叶えると答えるのかな、と意地悪く考える。
司は冷笑を浮かべた。自嘲的な笑いだ、と自分でもわかる。
おかしい。
本当の願いなんてないことに、気づいてしまった。
年の離れた男性と結婚したい――と憧れはあるけれど、結婚に到るまでの過程を考えるだけで面倒くさいと二の足を踏むようでは、誰の妻にもなれないだろう。
自分は案外、欲のない人間だったんだ……ああ、だから『つまらない女』なのかもしれない。鉄の処女なんて呼ばれてしまうほど。
「あいにくですが、願いはないです」
黒崎は諦めなかった。執拗に食い下がる。
「――だったら心残りはどうだ。これまでの人生で解決していない問題はないのか。なにか俺に出来ることは?」
「心残り、ですか……」
突然そんなことを言われても。
司は黒崎の上着の前を掻き合わせて、寒さに身体を縮めながら考えた。
ふと、思い出す。先日、正月休みの暇を持て余して実家の自分の部屋を整理している最中、押入れの奥から懐かしい思い出の品を詰めたお菓子の缶が出てきた。その中に破れた紙片があって、当時の記憶を探るととても切ない気持ちになったのだ。
「……一つ、あります。私が四、五歳の頃、親戚のお通夜で会った男の子に、もう一度会いたいです。返したいものがあるので……」
二十年以上も前のことなので、細かなことは憶えていない。ただ、当時はその紙片をとても大切にしていて、彼と再会する日を心待ちにしていた記憶だけが残っている。
「名前もなにもわからないんですけど、半分にちぎれた絵が残っていて……確か、二枚を合わせると、宝物の地図になるんだって、もう一度会ったときに一緒に探しに行こうって、それまで地図を半分持っててくれって、私にそれを預けた男の子がいたんです」
子供のときの宝物なんて、たかがしれているだろう。
それでも本当に大切な物かもしれないし、もしまだ宝物が残っているのであれば、見てみたいような気もした。
「……探せますか?」
我ながら無茶を言う、と思った。
黒崎は表情を変えずに頷いた。
「それが、おまえの願いなんだな?」
「はい」
「わかった。俺がおまえの願いを叶えたら、俺の願いも一つ、叶えろよ。約束だ」
いくら情報戦が得意な黒崎でも今回は無理だろう。なにぶん昔のことだし、ろくな手がかりもないのだ、探すに探せないはず。
かといって、司の手に紙片がある以上、別人を連れて来て彼のふりをさせるなどの下手な裏工作もできまい。
司は借りていた上着を黒崎に返した。
「……あまり一生懸命にならなくてもいいですよ? こんなことで課長が苦労なさる必要はないのですから。それに、たぶん無理だと思いますし……」
黒崎の心理負担を軽くしようと思い言ったのに、額を指で弾かれた。
「ばーか。好きな女のためなら、男はなんでもするんだよ」
恰好つけたセリフだ。
司は黒崎の流し眼に余計悪寒を身に覚えつつ、無駄だとわかっていたが、一応伝えておいた。
「課長のお気持ちはありがたいのですが、実は私、年上趣味なんです」
「俺じゃ不満か?」
「二十歳ぐらい上が理想です。少なくても十歳以上は年上でないと」
「無茶言うなよ。年ばかりはどうにもならん。諦めろ」
黒崎は話にならない、と言わんばかりに肩を竦めて、上着の袖に腕を通しながら続けた。
「あと念のため言っておくが、いきなり見合いの断りの電話を入れるなよ? 少なくても、この『賭け』の期間中は清く正しく、俺とおつきあいをすると返事しろ」
嫌です、と言いたかったが、これが正式なお見合いである以上、結婚を前提に交際をするか、自分にはもったいない人だからと断るか、返事はできるだけ早くするのがルールでマナーだ。
司はうまく黒崎にのせられた気がして非常に不愉快だったが、了承した。約束は約束だ。お見合いでいい返事をした場合、交際期間は三ヶ月が相場だ。
三ヶ月我慢すれば、解放される。
お見合いの交際期間は婚前交渉や旅行などは原則禁じられるため、その方面の心配はしなくていいし、デートは極力少なくすればいい。高額なデートも不適当なので金銭面で黒崎に負担をかけなくても済む。そして正式に破談になれば、個人的に会ったり、連絡を取り合ったりすることは重大なマナー違反なのでつきまとわれることもなくなる。
なんとかなると、思っていた。
――黒崎がよりによって職場で、公然と交際宣言をする、あのときまでは。
バレンタイン、当日。
司は会社に黒崎用のチョコレートを持っていかなかった。上司、同僚、部下、それから普段お世話になっている関係者に用意してきた義理チョコを配った。
黒崎は眼に見えて不機嫌でピリピリしていたが、放っておいた。義理チョコを配らないとは一言も言ってない。
第一、ただでさえ秘書課や総務課、庶務課の独身女性たちから風あたりが強いのだ。会社でこれみよがしに黒崎にチョコレートを渡そうものなら、どんな目に遭うか、想像するのも恐ろしい。もてる男を恋人になどするものじゃない(黒崎は恋人じゃないけど)。
やはり恋人にするなら、包容力があり、優しくて、穏やかな、年上の男性だ。
この交際期間が終了したら、面倒だなんて投げ出さず、本気で婚活するのもいいかもしれない。いつまた親が勝手にお見合いを決めてしまうかもしれないし、それくらいなら、自分で好みの男性を探した方がよほど建設的だ。
問題は、黒崎と破談になればなったで、また色々と社内で取り沙汰されるのが鬱陶しいことだ。勝手な憶測が飛び交い、めちゃくちゃに糾弾されるに違いない。主に自分が。……はあ。
終業後、司はマンションに帰り、一足遅れて黒崎が来る。
司は文句を言われないうちに、サッと黒崎の前に紙袋を突き出した。
「どうぞ、チョコレートです」
「えっ……俺に?」
「欲しいとおっしゃったでしょう。既製品ですけど」
「あ、ありがとう……てっきり、もらえないかと……」
黒崎は素直に喜び、感激した様子でいそいそと鞄にチョコレートを大切そうにしまった。それから張り切って台所に立ち、鼻歌まじりに夕食を作りはじめる。
その背中は本当に嬉しそうで、そんなに待ちわびていたのかと思うと、おかしくなった。
泣く子も黙る鬼上司が、チョコレート一つに一喜一憂なんて、恰好悪い。
なのに、胸が温かくなった。
「変なの……」
なんだかくすぐったい。
司は不意に芽生えた感情に自分でも戸惑った。
姿見に映る顔が少し赤い。
「やだ、なんで赤くならなきゃいけないのよ」
独り言をこぼすと、黒崎にも聞こえたらしい。
「なんだ、なにか言ったかー?」
いい匂いがしてきた。
今日は麻婆豆腐らしい。
いつのまにか黒崎がうちの台所に立つ光景に慣れてしまっている。
「……なんでもないです」
司はソファの上で膝を抱え、いつになく柔らかい気持ちで黒崎を見つめた。
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一人でも多くの方にお手に取っていただければ嬉しいです。
引き続きよろしくお願いいたします。
安芸でした。




