十 一月某日
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最初の疑問は、なぜうちに? だった。
それもこんな早い時間。まだ十九時前で、夜はこれからなのに。
「あの……どうかされたんですか?」
「とにかく、入れろ」
「あ、はい」
命令されると従ってしまうのは部下の習性だ。
司は慌てて姿見を見た。帰宅してすぐにシャワーを浴びたので化粧は落としている。すっぴんの上、部屋着。とても黒崎に見せられる恰好ではない。 どうしよう、着替えた方がいいのだろうか。
もたもたしている間にブザーが鳴り、黒崎の到着を知らせる。
「俺だ。開けてくれ」
インターフォンに映る黒崎は、筋肉質の鍛えた身体を強調するブラックスーツにブラックコートを着て、上品なカシミヤのマフラーを巻いている。
一見すると、強面だがいい男だ。派手な赤いバラのリースを手にしても嫌味がなく、とても様になっている。
でも、どうしてここに? 黒崎がうちに来る理由がわからない。
「課長、なにかあったのですか?」
「おまえに話がある」
「話?」
黒崎の声は低く、やや緊張気味で思い詰めた感じだ。その声を聞いて、本命に振られたのかも――直感的にそう思った。そうでもなければクリスマス・イヴの夜に、こんなところにいるわけがない。
司は憂鬱な気分になり、肩を落とした。
ブラックスーツ、花、食材。全部揃えてアタックしてもダメだったんだ……。
告白が不首尾だったから文句の一つも言いに来たのだろうか。それなら背中を押した責任もある、愚痴を聞くぐらいは仕方ないのかもしれない。
司は観念することにした。長い夜になりそうだ。
「わかりました。少々お待ちくださいますか。着替えますので」
「別にそのままでもいい」
「私はよくありません。失礼します」
彼氏でもない男にノーメイクの顔など見せられない。
司はオフホワイトのロングニットに薄いピンクのマキシスカートを合わせて軽く化粧した。髪はまだ乾いていないのでそのまま下ろしておく。コンタクトをし直すのは面倒くさかったので眼鏡だが、かまわないだろう。
あとは適当に片づけた。さいわい、部屋はそれほど荒れていない。1LDKなので家具らしい家具はベッドとソファとテーブル、ローチェストぐらいだ。他は絨毯、クッション、観葉植物、テレビ機器、姿見、ブックスタンド、ゴミ箱。服飾品はまとめてクローゼットの中だ。
「お待たせしました」
玄関の鍵とチェーンを外して片手で扉を押すと、司を見た黒崎は一瞬うろたえた。眼が泳ぎ、不審そうに眉間に皺が寄る。訊ねる声は訝しげだ。
「……片桐、か?」
「え? はい、もちろん。どうぞ、上がってください」
黒崎を中に通して司は鍵とチェーンをかけた。すると黒崎は狼狽して言った。
「チェーンまでかけるのか」
「はい。いつもかけていますけど……それがどうかしましたか」
「どうって……いいのか? 俺がいるんだぞ」
だからなに?
司の視線がはっきり言えと催促しているのを見て、黒崎は言いにくそうに口を割った。
「あのなぁ、普通は女一人の家に彼氏でもない男を上げるときは、警戒して鍵をかけないものなんだよ。おまえは警戒心が薄すぎる」
そんなことを言うくらいなら、そもそも家に訪ねてこないでほしい。
よほどそう言い返したかったが、相手は傷心の上司で、自分が傷心の原因の一因でもある以上、強くは反論できず、司はこう言うにとどめた。
「課長のことは信頼しておりますので」
「……っ。おまえ、俺の忍耐力を試しているんじゃないだろうな?」
「なんの忍耐ですか? あ、お手洗いならこっちです」
「違う!」
理由もわからず、いきなり怒鳴りつけられる。司は辟易した。やはり家に上げなければよかったと後悔した。面倒くさい。いまからでも帰ってもらおうか、と考えたそのとき、唐突に赤いバラのリースを寄こされた。
「おまえにやる」
司は溜め息をつきたいのを我慢して真顔で受け取った。
「わかりました、いただきます。コートもこちらに、ハンガーにかけますから。適当に座ってください。お茶と珈琲、どちらがよろしいですか?」
「いや、片桐は座っていろ。キッチン借りるぞ」
言いながら黒崎はコートとスーツの上着を脱いで司に手渡し、シャツ一枚になった。両方の袖を捲くり、持参した荷物を抱えてキッチンに立つ。
「夕食、まだだろ? 俺が作ってやる」
――決定だ。
司は口にも顔にも出さなかったものの、自分の憶測が的中したと確信した。
黒崎は振られた。だから食材と暇を持て余し、うちに来たのだ。私なら家にいると踏んで(他でもない。そう言ったのは自分だ)。
こうして見ると黒崎は一見元気そうに振舞っているが、本当はすごく気落ちしていて、そう見せかけているだけかもしれない。自分の弱みなど他人に見せたがらない男だから、苦しくても取り繕って平気なふりを装う――そのくらいはしそうだ。
失恋して部下に八つ当たり、そんなみっともない真似を黒崎がするとは思えない。だが買ったものを無駄にしない、有効活用する。それはあり得そうだ。
状況を考えると、クリスマス・イヴに失恋して、大量の食材を抱えたまま家に引きこもるなんてやりきれない。それくらいなら、やけ食いした方がいい。
付き合わされる身としては迷惑千万だが、まったくの無関係でもない以上、あまり無下にもできないだろう。
こんなことなら、余計な口出しなどするんじゃなかった。
悔やんでも後の祭りだ。おそらく黒崎にとっては、最悪のクリスマス・イヴとしていつまでも記憶に残るに違いない。
司はさきほど一方的に押しつけられた赤いバラのリースを見下ろした。花言葉は、確か『愛の告白』。リースすら受け取ってもらえないくらい脈のない相手に心を奪われた……たぶん、そういうこと。
報われない恋なんて黒崎には似合わないけど――好きになったら手の施しようもなかったのかもしれない。
だけど、いくら無駄になったからといって、自分の部下にこんなものを横流ししないでほしい。扱いに困る。いったいこれをどうしろと?
「……」
司は、嫌々ながらも壁に飾っていたノーマン・ロックウェルの原画を外し、代わりにリースをフックにかけた。一応もらいものだ、まさか眼の前で「いらないです」と捨てるわけにはいかない。華やかさとは裏腹に気分は憂鬱だ。上司の恋の形見を壁に飾ってクリスマスを過ごすなんて、どんな罰だ。
それでも司は、黒崎の心中を慮って少しは同情してやろうと、文句は言わずにおいた。
だがキッチンできびきびと動く黒崎は失恋直後にしては悲壮感もなく、それどころか上機嫌で浮足立っているようにさえ見える。……なぜ?
黒崎は勝手知る家のように、微塵の遠慮もなく戸棚や引き出しを開けては調理器具を取り出し、調味料を次々と揃え、冷蔵庫を物色している。
「もうあらかた下拵えは済んでいるんだ。できたら呼ぶから、好きにしていろ」
「お手伝いを」
「いや、いい」
体よく断られた司はソファで膝を抱えて丸くなった。上司が働いているのに部下が遊んでいるのも具合が悪く、手持ち無沙汰で居心地よくない。
好きにしていろと言われても、なにもする気が起きず、司は黒崎の繊細な包丁捌きやプロ並みの調理の手際をただ漫然と眺めていた。
そんな司の視線が気になるのか、たまに黒崎がこちらを振り返り微笑む。なぜか満足げで、いかにも幸せそうだ。
「……」
かなり不気味で司はぞっとした。黒崎のこんな甘ったるい顔は見たことがない。失恋したせいでどこか頭のねじがぶっ飛んでおかしくなっている気がする。
「……髪」
「はい?」
「……髪、下ろしているのも似合うな。きれいだ」
怖気に襲われて司は固まった。どうしよう。黒崎が変だ。
「課長」
「仁と呼べ」
「嫌です。課長」
「おまえ……一秒ぐらい悩めよ」
「時間の無駄です。それより課長、お気を確かに。具合が悪いのでしたら無理をなさらず家に帰ってお休みください。明日も仕事ですから」
「そうだな。明日もおまえに会える。職場が同じだと毎日顔が見られていいな」
司は悪寒のため身震いした。全身に鳥肌が立つ。まずい。本気で黒崎がおかしい。いますぐ一一九番すべきだろうか?
「黙るなよ。なにか言え」
「救急車呼びますか?」
「呼ぶな! なんでそうなるんだ。ったく、おまえって奴はムードもへたくれもない……! もういい、やっぱり飯ができるまでおとなしく黙ってろ」
……ムード?
司は首を捻った。ここでムードなんてつくってどうするの?
黒崎の言動を危ぶみながら、とりあえず司は言われたとおりに黙っていた。
そして四十分後、テーブルにはクリスマスディナーのメニューが並んだ。
「すまんが、作る時間がなくてターキーだけは買ってきた」
「どれもおいしそうです」
前菜は野菜スープとメルバトースト、メインはグレービーソースのかかった詰め物をした七面鳥、付け合わせはマッシュポテト、サラダ。
そしてケーキはビュッシュ・ド・ノエル。
黒崎がシャンパンに手を伸ばしたので司は止めた。
「私、お酒は結構です」
「安心しろ。ノンアルコールシャンパンだ」
黒崎はシャンパンを開けた。ポン、と小気味いい音を立ててコルク栓が跳ぶ。泡立つプラチナゴールドの液体を二つのグラスに注いで、一つを手渡された。
「メリー・クリスマス」
「メリー・クリスマス……」
テーブルを挟んだ向こう、黒崎が甘く笑う。司は正視できずに眼を逸らした。
上機嫌すぎて、薄気味悪い……。
あまり刺激しないでおこうと心に決めて、司はいつも通り黙々と食べた。黒崎の料理は文句のつけようもなくおいしい。
「どうだ、うまいか?」
「はい、大変おいしいです」
「そうか。……その、なんだ、毎日、食いたいと思わないか? 俺は……おまえに、毎日作ってやりたいと、思うんだが……どうだ?」
司は首を振った。恋人や夫婦じゃあるまいし、そこまで甘えるわけにはいかない。どこの世界に部下の食生活を面倒みる上司がいるのよ。
二人共テーブルの上の料理をほぼ平らげ、満腹になったところで、黒崎が意を決したように強いまなざしを司に注いだ。
「片桐」
「はい」
「話がある」
司は頷き、崩していた足を揃え正座した。先に頭を下げて謝る。
「ええ。心中、お察しいたします。私が余計なことを言ったせいですね、申し訳ありません。でもまさか課長が振られるとは思わなかったんです」
「は?」
「クリスマスにかこつけて告白しろなんて、浅はかでした。話がうまくいけばいいけど、その逆の可能性を考えなかったのでこんなことに……なかなか忘れられるものでもないとは思いますが、あまり気を落とさないでください。すぐには無理でも、時間が経てば別の女性に眼を向けられると思います」
「……ちょっと待て」
黒崎が混乱した表情であたふたしはじめる。
司は神妙な態度で続けた。
「今日は課長の憂さ晴らしの愚痴につきあいます。なんでもぶちまけてください。絶対に誰にも言いませんから」
「だから……っ、待てって。片桐、おまえ、なにか盛大な勘違いをしてないか!?」
いつのまにか対面にいた黒崎が司のすぐ傍に移動していて、片膝をついた状態で覆いかぶさるように迫ってきていた。なぜか黒崎の両手が司を押さえつけるように左右の肩に置かれている。
勘違い?
司は苛立たしそうな黒崎の剣幕に気圧されつつ、おずおずと言った。
「……あの、本命の女性にアタックして振られて、暇と食材を持て余したから仕方なく愚痴をこぼしにここへ来たのではないのですか……?」
「全然違う」
「では、なぜうちに?」
迷惑です、とは言わないでおく。
司は疑問をぶつけながら、黒崎の腕を振りほどこうと身動ぎしたが、びくともしない。非難を込めて睨んでやる。
重いし、邪魔なんですけど。
「わからないか」
「わかりません」
「どうしてわからないんだ」
「そんなこと言われたって、わからないものはわかりませんよ」
黒崎の眼に危険な因子が浮かんだ。見憶えのある――というより、常々見てきた――本気になった眼だ。狙いを定め、こうと決めたら手段を問わず断行し、結果を出す、鬼上司の眼だ。
横に結ばれた薄い唇が開かれる。なにを言われるのかと、司は身構えた。
すると黒崎は右手をズボンのポケットに突っ込み、なにかを取り出した。
「おまえが自分で言ったんだろう。クリスマスにアタックしろと。得意の料理で豪華ディナーを用意して、花でも贈って告白しろと」
「言いましたけど……」
「だから俺は実行した」
「私に実行してどうするんです。本命にしなければ意味ないでしょう」
呆れかえって司がそう言うと、黒崎が真っ赤になって怒鳴った。
「ばかやろう、俺の本命はおまえだ!」
「寝言は寝てから言ってください」
悪い冗談だ。いくら上司とはいえ、そこまで付き合う義理はない。だいたい、「ばかやろう」なんて告白がある? ないに決まってる。
司がまるで本気にとらずにいると、黒崎はいっそう険しい眼つきで睨んできた。
「寝言かどうかは、これを見ておまえが決めろ」
床に叩きつけられるように置かれたのは、金色のリボンがかかったブルガリの小箱。
「なんです、これ?」
「指輪だ」
「指輪?」
司が現状を呑み込めずに頭を整理している途中、黒崎は我慢しきれなくなったのか、ついに決定的な一言を口にした。
「片桐司、俺と結婚してくれ」
年度末の決算もなんとか無事終了し、上司への挨拶を済ませ、社員同士「よいお正月を」と歳末の挨拶をかわしながら、お正月休みに入った。
司はマンションには戻らず、あらかじめロッカーに用意していたスーツケースを引いて、会社から直接田舎の実家に帰省した。
「ただいまー」
「おかえり」
玄関まで迎えに出てきた母の顔の顔を見てホッとする。やはり実家は落ちつく。
自分の部屋に荷物を置いて着替えてから茶の間にいった。炬燵の上にあるものを見て、司は眉をひそめる。
「なにこれ」
「お見合い写真」
司はそれを開き、釣り書きを眺めた。まず見るのは、相手の写真より年齢。理想は二〇歳差だが、親が嫌がるので一〇歳差以上であれば許容範囲内にしている。だが残念なことに、まだ若い。三〇歳だ。これじゃあ結婚対象にはならない。
「悪いけど、断って」
他は見もせず閉じたところ、柿を盛った器を運んで来た母が司を詰った。
「あら、そんなこと言わないでよく中をごらんなさいよ。とってもいい男なんだから!」
いくらいい男でも三〇歳なんて若すぎる。
乗り気でない司に対し、母があんまり一生懸命に推すので、渋々ともう一度お見合い写真を開いて相手の顔を見た。
「……」
背筋を伸ばした赤墨色のダブルのスーツ姿。無愛想な眼つきと厳めしく結ばれた口元。
どこかで見た顔だ。
一瞬素でわからなかったが、次の瞬間、司は見合い写真を放り出した。
「なんで課長の見合い写真がうちにあるのよ」
写真は黒崎だった。まぎれもない鬼上司、黒崎仁だ。
司が嫌な顔をして問い詰めると、母はうきうきと嬉しそうに話す。
「先方からぜひってお話しがあったのよー。わざわざ仁さんが直接うちまで挨拶にみえてねぇ、釣りの話でお父さんとすっかり意気投合しちゃって」
将を射んと欲すればまず馬を射よ――欲しい獲物をロックオンして捕獲するためにとる課長の常套手段、その一だ。
母は自分も炬燵に入り、熟れた柿をフォークに刺して口に運ぶ。
「仁さんがね、あなたとは職場が同じだしお互いの立場もあって、なかなかプライベートな話をできる場所がないって困っていたわよ。あなたに声をかけようにも避けられているって。だからお母さん、お見合いの席を用意しちゃった」
「『しちゃった』? 」
司はびっくりして訊き返した。
母は平然と頷いて、また一切れ柿を食べる。
「そうよ。だってあなたに言っても絶対に断られるってわかってるもの。お母さん、自分と同じ年くらいの息子なんて嫌よ。それより仁さんがあなたのお婿さんになってくれるなら、すごーく嬉しいわあ」
司は指で眉間を押さえた。
「お見合い、キャンセルして」
「だめよ。もうホテルのお部屋、予約しちゃったもの。先方のご両親からも挨拶のお電話をいただいたし、あちらの親戚の方に世話人もお願いして、お母さんも新しい服買っちゃったわ」
母にしては考えられないくらい、手際がいい。おそらく黒崎の入れ智慧に違いない。
驚きと呆れと諦めで脱力し、ぱたっと仰向けに倒れた司を、真上から覗き込んで母が追い打ちをかけてくる。
「美容院も予約済みなの。正式なお見合いの席だから、あなたもちゃんときれいにしてね。着物がいい? それともワンピース? 黒のスーツとかはダメよ」
クリスマス・イヴのあの夜、黒崎の求婚は丁重に断った(指輪はその場で辞退したし、ついでに赤いバラのリースも持って帰ってもらった)。黒崎は納得していなかったけれど、強引に押し倒されたり、しつこく口説かれたりはしなかった。だから話はあれで終わったと思っていたのに。
まさか外堀を埋められて攻められるとは思わなかった。
だけどまだこの時点では、正式なお見合いなのだから正式に断ればいいだけだ、と楽観的に構えていた。
それが間違いだった。
後日――司は自分の目論見が甘かったのだと、後悔する羽目になる。
年が明けた。
司は両親と近所の神社に初詣に出かけた。手水舎で手を洗い、鈴を鳴らし、二拝二拍手一拝でお参りした。祈願したのは、家内安全と日々の平安。新しいお札とお守りを買い、おみくじを引く。小吉で、気になる恋愛運はというと、『やや面白みに欠ける。工夫が必要。ときには流れに身を任せるもよし。縁談は良』と書いてあった。
母が司の手元を覗き込み、無邪気に喜ぶ。
「『縁談は良』ですって。よかったわあ」
……よくない。
こんな面倒なことになるなら、帰省などしなければよかった。
お見合いは明後日だ。
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